◇9 もしも、いつか
ここはどこ?
気が付けば私は、美しい泉の広がる森の中にいた。
空は青く、高く、澄んだ空気が漂い、綺麗な歌声の鳥が飛び立つ。
私は先ほどまでクウェイス領の領主城、ラミィ様の部屋にいたはずだ。だが、ここはどう見ても屋外で……それにここには見覚えがある。
この泉……カピバラ様が住んでいた祠のある泉だよね?
泉の中央へ視線を移せば、そこには確かに小島と祠らしきものが見える。
とても澄んだ空気をしているけれど、あの時は瘴気に汚染されていたから、もしかするとこれが本来の聖獣の森の空気なのかもしれない。
「カピバラ様ー?」
ちょっと呼んでみたが、彼が返事をすることはなかった。
さて、どうするか。
恐らくはこれがラミィ様の言っていた手なんだろうけど。どういう効力のある魔道具だったのか、説明が欲しかったです、ラミィ様。
とりあえず人を探そうと足を踏み出したところで。
「かぴちゃーん」
誰か、少女の声が響いてきた。
声がした方へ視線を向ければ、森の奥の道から小柄な娘がバスケットを片手に歩いてくるのが見える。腰まで伸ばした長い黒髪にこげ茶の瞳の平凡で地味だが、どこか愛嬌のある顔立ちをした少女だった。
泉の縁まで辿り着いた少女は、しばらく声を泉の方に投げかけ、辺りを見回す。
何度も私の方へ視線を向けるのに、私の存在が気にならないのかまるでそこにはなにもいないかのように彼女は振る舞った。
もしかして、本当に見えていないとか?
意地悪をするようにも見えないので、確認の為に少女に近づいて目の前で手を振ってみたり、声をかけたりしてみた。だが無反応だ。
これは、見えてないな。
この少女が幻なのか、はたまた私の方が存在しないものなのか。
どっちだろうかと、頭を捻っていると。
泉の中央にある祠が、淡く光を放ちふわりと光の玉が浮かんで少女の元へと降り立った。
「かぴちゃん、おはよー」
少女がにこりと微笑むと、光は霧散し、そこには一匹のもふもふした茶色い小動物がちょこんと座っていた。
――カピバラ様だ。
「人間が毎度ごくろーさまだな。ってか、なんだよ『かぴちゃん』って」
「あなたの名前。カピバラのかぴちゃん」
「変な名前つけんじゃねぇーよ。つーか、カピバラってなに?」
「私の故郷にいた動物だよ。可愛いの。今のかぴちゃんの姿にそっくりよ」
カピバラ様は少女の言葉に渋い顔を作った。
「あー、確かお前は異世界の出身だったな」
「うん。地球っていうの」
少女はニコニコしたまま、その場に敷物を敷いて座り、バスケットからお弁当をとりだして広げだした。カピバラ様は、躊躇することなく当たり前のように少女の向かいに座った。
カピバラ様も同じかどうか、手を振ったりもふもふしたりして確かめたが、やはりカピバラ様も私のことは認識していないようだ。
……それにしても。
ちらりと黒髪の少女を見た。
彼女はここに来てからずっと、楽しそうな笑顔である。優しい雰囲気が滲み出ていて、傍にいるだけで癒される空気があった。
『異世界』。
それはこの世界でも認知されているものである。こことは違う、別の世界が沢山あって、なにかの拍子で偶然世界を渡ってしまうことがあるそうだ。世界を渡った者は特別な力を授かることが多く、歴代の勇者でも異世界出身者はそこそこいる。
確か、聖女も――。
「しっかし、いいのか? 世界を救う一行の一人、聖女様がこんなところで油売ってよ」
「大丈夫、今の聖女の任務はかぴちゃんと仲良くなることだからね」
にこぉっと一層笑顔を深める少女にカピバラ様は、ぐへぇっと嫌な顔をした。
聖女。カピバラ様は確かに彼女を聖女と呼んだ。そして少女も否定しなかった。
現在の聖女は私、シア・リフィーノである。偽物を語る人間はいつの時代にもいるものだが、カピバラ様が偽る意味がないし、彼自身も無駄に偽る性格でもない。
ということは、やはりこの空間自体が現在には存在しないもので、私は作られた何かを見せられているのだろう。ラミィ様がやろうとしていたことを考えれば、これはカピバラ様の記憶の一部と予想できる。
これは絵本を読むように大人しく記憶の流れを見ていればいいやつだ。
そう、思い至って私は座って見学しようと腰を落とすと。
「……いつの間にか椅子がある」
記憶の映像は森の中だが、ご丁寧に椅子が置かれていた。
私が座ってもすり抜けたりはしないので、私用なのかもしれない。
ありがたく椅子に座ると、二人の会話はどんどん進んでいた。
「勇者とはどうだ? 仲良くやってけそうか?」
「うん。良い人で良かったよ。異世界人でも差別したりしないし、強くてあとかっこいい」
「けっ、そうかよー」
「あれー? かぴちゃんやきもちかな?」
「るせー、そんなわけがあるか。調子に乗ってっと契約解除するからな!」
小さくて短い四肢をダンダンと地面に叩きつけて怒るカピバラ様に少女は笑った。
どうやら少女、聖女様は勇者との旅の途中でカピバラ様とは契約済みらしい。聖獣は、その存在がすでに伝説となっている現在、書籍に聖女と聖獣の話しが出るのは数千年も昔のことになる。『はじまりの聖女』が最初に聖獣と契約を交わしてから、それ以降に何度か聖獣が聖女の前に姿を現したようだが昨今ではまったくなくなっている。
だからこそ、『はじまりの聖女』は崇拝され、聖獣に認められる聖女は特別な意味を持つようになった。何代もの聖女が泉へ挑戦し、諦めて去っていく。私も一度目はそうだったのだ。
カピバラ様が私の前に現れてくれたのは、森が汚染されたからだったけど……。
彼にとって不本意な出現と契約だっただろう。それでも契約できたのだから、仲良くやりたい。あの聖女様のように。
温かな雰囲気の光景の中、ゆらりと場が揺れて気が付くと景色は一変していた。
暗い空に、重苦しい空気。激しい雷が轟く中、黒髪の聖女様はベッドに横たわっていた。青白い顔をして、苦しげに息をしているのを心配そうにカピバラ様は見ていた。傍には数人の人間がいて、一人は聖剣を持った年若い青年だった。恐らく勇者だろう。そして仲間達と一番奥にいる美女を見て、私はちょっと驚いた。黒に近い緑の髪に赤い瞳のグラマラスな体型。どうみてもラミィ様だ。
でも、ラミィ様がここにいるわけがない。ここはたぶんかなり昔の世界だ。いくら魔力の高い魔女だからといって何千年も同じ姿を保てるわけがないのだ。彼女のそっくりさんか、祖先か……そんなところだろう。
「聖獣様、彼女の容態はどうだろうか?」
勇者が震える声をどうにか抑えた様子でカピバラ様に問いかけた。
「瘴気は浄化し終えてる。だが、深層に触れ過ぎた……目が覚めるかどうかは、知らねぇーよ」
「……そうか」
勇者は踵を返すと壁の方へと歩き、そしてドンと強く壁を叩いた。そして項垂れて、誰に言うわけでもなく、謝罪の言葉を繰り返す。仲間達が耐えられなくなって、一人、また一人と部屋から飛び出して行った。
ラミィ様にそっくりな美女は、苦しげに息を吐き、勇者の肩に慰めるように手を置いて、それから出て行った。
「聖女……魔王を倒しても、全員が無事でなければ意味がないんだっ。君が目を覚まさなければ、なんの意味も――!」
よくよく見れば、勇者の体はボロボロだ。仲間達もくたびれた様子だったし、きっと激闘を終えた後だったのだろう。そしてそれは恐らく魔王との戦い。
……そして、聖女はその戦いで倒れてしまったのだ。
あまりにも悲惨な勇者の姿に、一度戻ってきた仲間の一人が無理矢理休むようにと言って彼を引き摺って行った。
最後に残されたカピバラ様は、じっと聖女の痛ましい横顔を見詰めていた。
「……なあ、聖女。なんで人間はこんなにも弱いんだろうな。こんなにもあっけなく――すぐに死んでしまう。寿命も短く、生命も脆弱」
ぽすりとカピバラ様の顔は布団に埋もれた。
その体は、小刻みに震えている。
「分かってて、お前は俺の誘いには乗らなかった。永遠の時を選ばなかった。お前は……強いのか、弱いのか本当、よくわかんねぇーな――メグミ」
メグミ。
カピバラ様が寝言で言っていた言葉だ。広い意味ではなく、もしかして人の、聖女様の名前だったの?
場面は切り替わる。
黒い喪服を着た人々が、悲しみの中を歩いて行く。
雨がしとしとと降り、涙と共に流れていく。
初めに勇者が、墓標に白い花を添えた。手を合わせ、目を閉じ、溢れる涙は止まらなかった。
次々に、死者と所縁の深い者達がその死を悼んでいく。
墓標の名は『サイトウ メグミ』。
異世界より来たりし、はじまりの聖女。
その聖女様の葬式に、カピバラ様の姿はなかった。
場面は切り替わる。
静かな、荘厳な空気の流れる聖獣の森の泉。カピバラ様は、そこに佇んでいた。じっと、泉の縁を眺めている。そこは、最初に聖女様とカピバラ様が楽しげにピクニックをしていた場所。
そんなカピバラ様の元へ、ふわりと光が降り立った。
それはすぐに人の形を成し、白い衣を纏った金髪の美女へと変わった。
「なんという顔をしているのか、獣」
鈴の鳴るような美しい声で、美女はカピバラ様へ声をかけた。カピバラ様はちらりと美女を見て、ふいと顔を反らす。
「俺は、使命を全うした。文句を言われる筋合いはねぇーぜ……女神」
女神!?
カピバラ様の予想外の言葉に私は驚いて美女を見ると、彼女は美しい顔を歪めて笑った。
「ああ、そうであったな。ご苦労だった。聖女は、無事に死者の国に迎えられたよ」
「……そうか」
女神と呼ばれた美女は、ふわりとカピバラ様の元へ降りるとそっとふわふわの毛を撫でた。
「人はいずれ死ぬ。早いか遅いかは別にしてもな。そして聖女もまた再び現れる。魔王が繰り返し復活するたびに必ずな。また会える」
「……そいつは、メグミじゃねぇーだろ」
「――それになんの問題がある?」
同じ聖女だろう、と女神は不思議そうな顔をした。
カピバラ様は答えなかった。
「お前は、聖女の為に創った。だが、お前が穢れに触れ過ぎて消滅などしたら勿体ない。次代、続く聖女に力を貸すも貸さぬもお前が決めるといい。じゃあな」
女神はさっさと光となって消え去った。
彼女が大陸で広く信仰されているラメラスの女神なら愛と豊穣を司り、その性質は慈悲と慈愛に満ちているはずだが、なんだかどうも冷たい印象というか、人の気持ちというものを理解していないような気がした。神様なんてこんなものなんだろうか。
カピバラ様は、しばらく水面に映った自分の顔を見ていた。
「もしも」
そして静かに言葉を口にする。誰に言うわけでもなく、吐き出すように。
「もしも、いつか≪黒髪≫の聖女が現れたら」
風が吹く。
この世界に存在しないはずの私の長い黒髪を揺らす。
――絶対に、力は貸さない。
関わらない。
だって、傍に居たらきっと。
悲しみを思い出してしまうから。