★0 帰る場所
「もうすぐ冬の月か……」
空は青く澄んでいるのに、吹く風は冷たく木枯らしを鳴らす。
「おにーちゃん、外で長く立っていると風邪をひきますよ」
「ふふ、君も知っての通り私って丈夫なんだよねぇ」
銀色の絹糸のようなさらさらとした長い髪を冷たい風にさらわれる姿も絵になる美しい貴公子、スィード・ラン・クレメンテ子爵。触ったら折れそうなほどの華奢な見た目をしておいて、彼ほど丈夫で格闘術を使わせたら無敵な人間もいない。見た目詐欺すぎる彼は、愛する弟がもうすぐ帰ってくるという知らせを受けていつになるかもわからないのに仕事の休憩時間はずっと門の傍で立っている。
彼をおにーちゃんと呼び心配しているのはベルナールの幼馴染であり右腕でもあるミレディアだった。彼女は防寒もしていない気もそぞろな彼に外套をかけると。
「はい、ホットティーとサンドウィッチです」
「……そういえばなにも食べてなかった。ありがとうミーア」
よしよしと頭を撫でられたミレディアは少し不服そうに口を尖らせた。甘いハチミツのような印象を与える妖艶な美女の姿を周囲に見せている彼女でも長年、兄のように慕う人の前では子供のような顔も見せる。
「シアちゃん達の話だと聖教会の動きをうかがいながら慎重に帰国するって話ですし、まだ時間がかかるかもですよ? ちゃんとした知らせが来てから待てば――」
「そうだね、でも」
門の傍にある飾り用の大きな石のうえに腰を下ろすと、懐かしそうに眼を細めて屋敷を見上げた。
「ここに座ると思い出すんだ。ベル君が生まれた日のこと、死産かもしれないと屋敷のみんなが浮足立っていた。私は不安を押し殺してずっと待っていた……。ベル君と会えた時はとても嬉しかったよ、なにがあっても私はこの子を守ろうとそう思った。だから何年もベル君が私を認識できなくても、ずっと話かけ続けた。ベル君が返事をしてくれたあの瞬間、どれほど嬉しかったのか言葉にはできない」
ミレディアは少しため息をついてから隣に腰を下ろした。
「私のベル君への第一印象は『最低、最悪』の一言につきますが」
「そうだね、あれは酷かった」
ベルナールは他人を認識できなかった。だからあのときもミレディアが一生懸命がんばって話しかけたというのに無視をされ恥をかかされるという結果になってしまい、彼女の社交会デビューが台無しになった。あの日、大泣きした少女が今となっては信頼し合う幼馴染になるとはスィードも思ってもみなかったことである。
「ありがとうミーア、君がベル君の幼馴染でよかった」
「べつにぃ~? ベル君にはデビュー失敗の責任とってもらいたかっただけですしぃ~」
最初はそうだったかもしれない。だがすぐにそうでもなくなったのはスィードにはバレている。珍しく異性の感情もなく友人として傍にいてくれた彼女は本当に貴重だった。
思い出にひたりまくるスィードを横目に、ミレディアはもう一度、今度は長めにため息をついた。
「……おにーちゃん、ベル君のこと全部知ったんでしょ? ――ううん、おにーちゃん全部知ってたんでしょ?」
「うん、知ってたよ。知ってたというよりもそうだろうな、と思っていただけだけど」
あのとき、弟は生まれなかった。出会った弟は偽物の人形。それを察したのはもう一人の弟を失ったときだった。証拠も確実性もない、ただの予感。
それでも。
「私が出会い、愛し、守りたいと誓った弟は確かにあの子だからね」
今更なにかが変わることはない。
「君もお同じでしょう?」
「……はぁ、ええその通りです。後にも先にも私に大恥をかかせ泣かせたのはあのベル君だけなんで」
うっぷんをはらすように水筒に入ったホットティーをぐいっと飲むと、お酒を飲んだみたいにぷはーっと豪快に息を吐いた。
「思い出しただけでも腹立つ!! なんなんですあの通信っ、ベル君ってば他人行儀にさぁ! ベル君が偽物だろうがなんだろうがこちとらなんにも変わんねぇーってんですよっ!!」
ぶんぶん、水筒が振り回されて紐が悲鳴をあげている。
ずっとなんだか不機嫌だと思っていたが、数日前に行われた遠距離通信での会話内容が引っかかったままだったらしい。
「本当、腹立たしい弟だね。たくさんの言葉も、行動もあの子は結局根っこの部分で受け入れてくれていなかった。でもこういうのは時間がかかるものだから」
今まで通り、なにも変わることなく愛し続けるだけ。
日が傾きはじめたころ、ようやくスィードはミレディアのお弁当を食べて腰を上げた。仕事に戻らなければいけない。本当はずっとここで待って、一番に弟を出迎えたかった。
「あ、あのね……おにーちゃん、もう一つ話が――」
気まずそうに話を切り出したミレディアにその先を悟ったスィードが返事をしようとして。
「あ!!」
先にミレディアが気がついた。大きく見開かれた彼女の瞳につられて、スィードが振り返ると。
「あー、えーっと」
この場の誰よりも気まずそうな弟が立っていた。顔を見るのはもう数か月ぶりになる。少しやせたように見えた弟は、それでもどこか吹っ切れたようなすっきりとした面持ちにもなっていた。彼の背後にうっすらと見えていた黒い影はどこにもない。
ようやく終わったのだと、長く苦しめたクレメンテの呪いが消えたのだと思い至ったのと同時に前に進み出た。弟の体は少し震えたが、そんな必要はないのだとちゃんと伝えるために強く抱きしめた。
「お帰り、ベルナール」
「あに、うえ……」
ベルナールの声はかすれてしまっていた。予想外だったのか予想通りだったのかはスィードにはわからなかったが、しばらくしてベルナールは荷物のない片手で兄の背を抱きしめた。
「ただいま、帰りました――兄上」




