□閑話 ただのおとぎばなし
世界が産声をあげたとき、そこにはなにもなかった。
草木も水も動物も、生命の欠片も存在しなかったその世界は産まれながらにきっと死んでいたのだろう。母なる創神は死産に嘆き、涙を流した。それはいつしか川となり、海となった。創神の止まぬ悲しみに寄り添った神人は己の心臓に刃を突き立てて血を流した。涙の海に落ちた血は、この世界に最初の生命を誕生させた。
息を吹き返した世界を創神は愛しみ、そして心臓を失い命を落とした神人に同じ姿かたちの人形の体を与えた。
そうして二人は、この世界の親となったのだ。
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「領主様、ここにおいででしたか」
ラディス王国辺境の地、魔王領と隣接しているクウェイス領地を統治している魔女、ラミィ・ラフラ・クウェイス。黒に近い緑の長い髪に黒いマーメイドドレスをまとった彼女は誰が見ても美しいと表現するにふさわしい姿をしていた。
しかし彼女がいつからこの地を治め、どれほどの年月を生きているのか知る者はいない。
「あら、アイーダ。あなたも帝国から戻っていたのね……ごくろうさま、無理を言ってしまって悪かったわね」
「いえ、私は帝国貿易の玄関口であるヨコハマの滞在しか許可が下りませんでしたから大したことはできず……」
「それでもヨコハマでシア達の作戦の裏方をつとめてくれたわ」
シア達にはくわしく知らせていなかったが、アイーダはあのときヨコハマで彼女たちの力になるべく動いていた。
「それにあなたに流れる魔王の血が、同じ血を持つペルソナの居場所を教えてくれた。それがなかったら、私はあの場に間に合わなかったでしょう」
アイーダはそっと自分を首筋を撫でた。彼女の首には爬虫類の鱗のような模様が浮かんでいる。この模様は彼女が半魔であることを暗に示す。魔王の肉塊から分離し、魔人として短い時を活動する存在がアイーダの父だった。とても稀な話だが、彼女は魔人と人間の間に生まれた子供だ。その特殊な血は、同じ血に反応するらしく、アイーダは帝国に降り立った瞬間からペルソナの気配を感じ取っていたらしい。ペルソナの正体が魔王の人格そのものだとはさすがに知る由もなかったが。
「帝国でのことはなんとかかたがついたけど……聖教会の方の動きは不気味なほどない」
「はい、ライオネル殿下が交渉のピースを揃え教皇に圧力をかけた結果、ベルナール殿の嫌疑は晴れたとして返還に応じたそうです」
「返還ねぇ。あの坊やはシア達が懸命に頑張った結果、取り戻せただけ。内部のごたごたはやっぱり隠すつもりかしら」
「おそらく。しかし他二名については引き続き聖教会が『保護』される意向だそうです」
ラミィは深くため息をついた。
「彼は魔王化のすえ、覚醒者となって心臓の呪いを乗り越え消滅させた。つまり女神側に彼を手元に置いておくメリットがなくなった……だけど残りの二人にはまだ呪いが残っている。なにかあれば聖剣で彼らを殺して、力の残滓を手に入れるつもりってわけね」
嫌な話だが、これ以上のことはラミィにもできない。
帝都の城の地下で偽女神の誕生を食い止めることはできたものの、老人の反撃にあい気を失ってしまったラミィが気づいた時にはほとんど後始末の最中だった。キングの行方ももはや知れず、長く領地をあけるわけにもいかなかった為、シア達と別れてすぐに戻ってきた。彼女達が無事に王国に戻ってこれるようにするための根回しも必要だったから。
「ライオネル殿下の手腕はさすがだった、私が話をしに行く前にシア達が帰国できる状態を作るなんて……どういうつもりなのかしら?」
少しだけラミィの声のトーンが落ちた。アイーダは小さく首を振る。
「ライオネル殿下の意図はわかりませんが、帝都で混乱が起こる直前にフェルディナンド殿下が帰国なされたようです。その直後に聖教会側に行動を起こしていますので、やはりタイミングを考えると……」
「……はぁ、王家はシア達の味方なんかじゃないわ。彼らは王国を統べる王家として動く、立場を考えればそれは正しい。あの子たちもそれをわかっているはずだから、私がどれほど気を揉もうが意味がないのだけど」
落ち着かない気持ちをどうにか静めようと、ラミィは手にしていた花束を墓標にささげた。
ここは霊園。クウェイス領の王国側端の森、その傍に静謐に包まれたこの美しい霊園がある。しかしここには二つの墓標しかない。クウェイス領民が眠る地は、もっと住民が多く暮らす北側にあるのだが、この場所は特別だった。
「ここは、初代勇者エルフィンと初代聖女メグミが眠る場所でしたね」
「ええ……メグミはこの地で眠りについたわ。聖女としてりっぱな最期だった」
「……」
アイーダはラミィの含みのある言い方に押し黙った。
「あの子の孤独と恐れを勇者だけがわかっていた。立派な聖女であるふりをし続ける彼女に、役目を終えたら自由であれるようにと彼は願っていた。それが彼の魔王を倒すことへの勇気となっていたのを私は見ていたのよ」
遠い遠い日の記憶、ラミィは結末を悟っていた。これが女神の残酷なシステムの最初の一巡りだと知っていた。だからこそなにもできない自分が腹立たしく、情けなかった。彼らの結末を思うと罪悪感がつのる。メグミが贄となり、世界に平和が訪れた。束の間の平穏の中で勇者は仲間と笑顔で別れるとメグミが眠るこの場所で孤児院を開いた。彼と共にありたいと思った人は多かったが、彼は生涯を寄る辺なき者として過ごし、戦いによって傷ついた孤独な子供達に寄り添った。
「エルフィン・リフィーノ。……キングの愛し子。血の繋がりはなくとも寄る辺なき者として人生を貫いた者。キングがシアに情を抱いたのも当然だったのかもしれないわね」
「領主様は……その……いえ、なんでもありません」
「ふふ、ごめんなさいね。ちゃんと話してあげられなくて」
苦笑するラミィにアイーダは申し訳なさそうに首を振った。
ラミィは続けて、メグミの墓標に花束を捧げる。
「異世界からやってきた哀れな少女。受けるべき多くの愛を最初から失っていた子。自分の居場所を得るために最後まで必死に走り抜けた……エルフィンの聖女。彼女はなにも得られなかったのかしら? ただ、命を弄ばれるためだけにこの世界に来てしまったのかしら? 答えはもう誰にもわからない。でも彼女は最後の瞬間までカピバラ様の永遠の命に関する話を受けなかった」
長い命よりも、ここで終わることを選んだのはなぜなのかしら?
悠久の時間を生きる魔女にもわからないことは多い。人の気持ちはことさらに。
静かに目を閉じて祈りを捧げれば、遠い記憶が鮮明に蘇ってくる。
『エルフィン、あなた本当にここで一人で暮らすつもりなの?』
『クウェイス卿、一人ではありません。戦いによって傷ついた子供達と一緒です』
『それは……とても立派なことだわ。でも』
『クウェイス卿、俺は勲章も誉もいりません。報奨金も立派な家も。本当に守らなくてはいけない人を守れなかったのに』
『……』
『子供達のために、屋敷を用意してくださり本当にありがとうございます。もう、それだけで十分なのです』
初代勇者はとても優しい男だった。
――それ以来、彼のような性質の勇者は選ばれなくなった。おそらく意図的に。犠牲になるはずの聖女を必死に守ろうとする勇者は『不都合』だ。
いくどとなく勇者が選ばれ、聖女が死んでいく様を見てきた。
嘆きはかきけされ、称賛に書き換えられる。素晴らしい英雄譚は長らく語り継がれ、そして廃れていく。
「アイーダ、創世の話を知っているかしら?」
「はい、基本的なことならば」
「この世界を産んだ創神は死の淵から息を吹き返した世界をとても愛していたわ。世界のために創神は身を捧げた……そんな創神が新しき神の監視と強制に痛み悲しむ世界を本当に放っておくのかしら……」
「? それは、想像上のおとぎばなし――ですよね?」
ラミィは青い空を見上げると。
「……そうね、ただの……おとぎばなしだわ」




