□48 幸福という
二十五年前、ひとりの赤子が死んだ。
ベルナール・リィ・クレメンテ。
クレメンテ家の次男、血に潜む災いと呪いを受け継ぐ器。
それが失われてしまった。
そもそも、その怨嗟は長子が受け継いできたものだったが、なぜか長子であるスィードには適合せずに次の子に継がれてしまった。そのせいなのかベルナールは生まれた瞬間から死に瀕していた。その身が呪いに耐えきれず激しく苦しみ泣き叫んで、最後の直前では泣くことすらできなくなっていた。
かわいそうな子。
哀れな子。
身勝手な祖先が遺した最悪の呪詛が世界をまだ知らぬ無垢なる魂に痛みだけを教えてこの世から去らせてしまった。
クレメンテ家は、女神より授かった悪魔の心臓を宿す七家の中でもひときわ呪いの濃い家だった。それぞれの家に悲劇は平等に訪れたが、アンガルスのように滅んだ方がましだったと思えるくらいにクレメンテの呪いはおぞましかった。
クレメンテ家の血筋に潜むのは『愛の悪魔』。親愛、友愛、恋愛――さまざまな愛の感情を宿す彼女は、女神によって歪まされ反転するように呪いとなる。アルベナは自分が狂っていることに気がついていた。そして、己が新世界に生まれた人間を憎んでなどいないことも。だからこそ、アルベナは悲しかった。彼女はずっと泣いている。この血の中で、『愛を知らないで』と泣いていた。
無知なる一族達は、アルベナを『恐ろしい呪い』としか見ていなかった。誰もがこの『恐ろしい呪い』に対抗するべく対策をこうじた。だが、誰もそれに成功しなかった。アルベナはあまりにも強すぎた。
呪いを終わらせるには周囲を巻き込んだ暴発と消滅の滅びか、もしくは呪いが弱まったタイミングで魔王として身を変質させ、世界を安定させるシステムへのエネルギー元として勇者に倒されるか。
女神が最初から想定していたのは後者だった。
彼女は世界の安寧のために最初からこの結末を想定してアルベナを悪魔として後世へ語り継ぎ、強大な力を宿す魂の欠片を七つにわけて七つの家に継がせた。必要な生贄は、すでに選定されていたのだ。
赤ん坊の泣き声が聞こえる。
必死に泣き続けるその赤ん坊の周囲には、若い男とローブを身にまとった老人の姿があった。老人は赤ん坊の体から皮膚や髪の毛、唾液などのサンプルを採取し丁寧にカバンへとしまった。
『……代わりはできそうか?』
『約束はいたしかねますな。ですが、我々のほかにそれをなせるものはおりますまい』
若い男は、クレメンテ子爵に似ていた。
おそらく、この場面はそういうことなのだろう。
死のふちにあるこの赤子のことなど二人ともすでに気にしていない。重要なのは、この子の代わりの器が完成するのか、クレメンテ家は存続するのか、ただそれだけ。
二人の男が去ったのち、孤独に残された赤子はひっそりと死んでいった。この子を心配していたのはただひとり、離れの門の前で座り込んでいた兄だけだった。けれどこの子は兄に会うこともできずその遺体はローブの老人の元へと送られ、奇跡的にも完成した『人形』が本来この子が名乗るべきだった『ベルナール』と呼ばれ、育てられることになる。
「ベルナール、俺は君がなぜこの名前を名乗れなかったのか、人形が君に成り代わっているのか、ひとつも納得ができない。君が与えられるはずだったものも、出会うはずだった人も、すべて人形が奪い去った。自分が君の代わりでしかないと知ったとき、俺は終わっていいとさえ思った。なぜ、君は死んでしまったのだろう。なぜ、俺は完成してしまったのだろう。人は生きる意味を生きながら探すそうだ。なら、最初から意味のないいつわりの生を持つ人形は、どうしたらいい?」
深い眠りの中で、永遠に問い続けた。
本物のベルナールへの罪悪感と生きることの意味を見失った事実。
答えは永遠にでない。
贖いたい相手は、自分の存在すら知らずにこの世を去った。
さまよう果てで、それでもたどり着くのはあの懐かしい東屋だった。彼女は今よりも幼い顔をしていて、今よりもずっと傍若無人だ。だがてなづけるのも簡単で、思考回路は思っていたほど複雑じゃない。けど、たまに予想外のことをしでかしては、心の底から笑いが溢れる。
人形にも魂や感情は宿るらしい。それはもう理解していた。シアや兄と東屋で楽しくお茶をして会話をするのはなによりもの心のよりどころだったらしい。
次の扉には騎士団の馴染みの面々がいる。彼らは部下で、自分は上司の顔をしていなくてはいけないが、それでももう一つの自分のあるべき場所だと自覚していた。
それでも、少しずつ少しずつ、不安が胸を押しつぶしこの場所から去ろうする。苛み続けるのは、自分が一番最初に自覚した『自責』の念。弟を助けられなかったあの伸ばされた手の先にいたのが、『本物』であったのなら。
それを思うと、なんど夢の中で手を伸ばされてもその手をとることは叶わなかった。
流れ着いた最後の場所は、冷たい牢獄の中。
罪の意識はこびりついたまま、洗い流されることはない。苛んでいるのは自分の心ひとつで、誰も俺を責めてはいないのかもしれない。
扉は開いている。誰も閉じ込めてなんかいない。閉じ込めているのは俺自身だ。
その扉をあけ放ったのは予想していなかった人物で、でもそれが一番いい結果だったのだと思った。迎えにきたのかシアだったら、絶対にこじれていた。
「剣をとれ、ベルナール。今度こそ……勝負を申し込む」
ベルナール、と呼ばれてすぐには反応できなかった。自分がそう呼ばれていいのか、それすらも曖昧だったから。
「今はもう、絶対に見極めをあやまらない。あなたはどうなんだ」
それはとても懐かしい響きの言葉だった。俺は彼にとってなにになれたのだろう。何様の顔で、彼にそんなことを言ったのだろうか。
あのとき迷っていたのはルークだった、だが今はどうだろう……俺は彼と剣をあわせるにたる者だろうか。
「あなたはいつだって俺の目標で憧れで、倒したい強い騎士です! 今このとき、あなたの心がどれほどもろく崩れ、揺らいでいたとしても俺の気持ちはなにも変わらない。あなたに勝つも負けるもいつだって真剣一本勝負。試合、よろしくお願いします!!」
不安も疑心も罪悪感も……なにもかもが吹っ飛んでいく。まっすぐな彼の瞳はなにひとつ俺を疑っていない。人形ベルナールはひどく不安定な存在だ、だがそれでもなお彼は迷うことがない。ルークでよかった、ここに来たのが彼で本当に。
彼へと揺らぐこの心を剣にのせて打ち合えたのなら、剣士同士でしかわかりあえないところから、道が見えた気がした。
その先で、彼女が俺を『ベルナール』と呼んだ時……思っていた以上に素直にその手を握り返すことができた。
これをたぶん人は――幸福というのだろう。




