□47 ただいま
一瞬、ルークがなにを言っているのかわからなかった。
だが。
「これは……」
明らかに前線が静かになっていた。ルークと共に立ち上がり、前を見れば魔王化したベルナール様の動きが止まっている。
トンと、ルークが私の肩を優しく叩いた。
「最後のきっかけは、たぶんシアにしかできないと思う。ベルナール様が迷わず暗闇を進めるように、呼んでやってくれ」
実のところ、私は少し置いていかれている。ベルナール様が目を覚まさなかった本当の理由も、なんとなくでしかわかっていなくて、ルークやリーナがどのようにして彼を連れ戻してきたのかも。今聞くことじゃないが、まっすぐな目でそう言われても。
「え? 私が?」
変な反応になってしまった。
ベルナール様を取り戻す寸前まできていて、名前を呼べば意識が迷わず戻ってこれるというのなら私である必要はない。それこそみんなで呼べば声量もある。
そう思っての発言だったのに。
「お、お前……」
ルークには心底呆れた表情をされ、リーナはきょとんとし、他のみんなからは虚無の視線を感じた。
なんでこんな視線を浴びなきゃならんのか。解せぬ。
「わ、わかった。やるわよ」
拒否権は最初からなく、自分である理由も判然としないまま私は最前線にいたおじいさまの横を通り抜け、一番前へ……ベルナール様のもとへ歩み寄った。
少し怖かった。当たり前だ、さっきまで魔王として彼としての意識がないまま残酷なまでの力でこちらを圧倒していたのだ。動きが止まっているとはいえ、いつその剣が私の体を真っ二つにするかわからない。ルークに背中を押されなかったら、さすがにそんな勇気はなかっただろう。
意を決して彼の目を見た。
赤い瞳は、ベルナール様のものとはまったく違う。呪われたアルベナの血の色は、光を灯さずなにも見ていないようで背筋が凍る。
ああ、でも……思い出した。この未知の恐怖感は、ベルナール様と初めて会った時に感じたものと似ている。私のことをなにも知らない、義務感で仕事のひとつとしてやってきた彼の冷たい眼差しは、私をおびえさせるのに十分だった。
だから私はあのとき、彼に水を浴びせた。ベルナール様と顔を合わせる少し前に姫様たちから彼のことを教えてもらっていたから。司教様にやったときと同じく、『反応』が見たかった。その反応次第で、私は次の行動を決める。水を頭からかけられるという愚行をされたとき、その人がどのような反応を見せるのかで、だいたいの性格がわかるから。
結果は……とてもつまらなかったのを覚えている。
規範通りというか、対処法としてはなにも間違ってはいないけれど『底が見えない』タイプだった。それを踏まえて私はどのイタズラなら反応があるのか実験的に繰り返していくうちにいつの間にか楽しくなってしまっていて……そのあとの、あのベルナール様大爆笑事件である。
素直にこの人はこんなに笑える人だったんだと思った。笑顔は見せてはいたけれど、どこか借り物のようにしっくりこなくて私は嫌いだった。でもあの大爆笑はどう見ても演技には思えなくて、それから私は少しだけ彼に心を許したような気もする。どこかシリウスさんに似ていると感じたからかもしれない。確かなのは、私はあのときのベルナール様にシリウスさんの延長線を求めていたんだと思う。
一年も満たずに終わってしまった親子の続きが欲しかった。でも、勇気を出して伸ばした手は、拒まれてしまって……それ以上はどこにもいけなかった。
「ベルナール様……」
私の呼びかけで意識を取り戻せるのか私自身にはまったく自信がない。けれど帰ってきて欲しい気持ちはもちろん強い。色々あったが、一番の私達の目的は彼を子爵の元へ無事に返すことだ。
無意識に伸ばしかけた手が震える。罪悪感に満ちたあの顔を思い出すと、私は彼に手を伸ばすことができない。
私の声は届くだろうか?
再び彼のトラウマを呼び起こさないだろうか?
彼が隠れた本当の原因は私なのかもしれないのに。
私がたぶん、弟に似ているから……。
声も震えてしまう。ちゃんと言葉になっているか不安になる。目の前にいる人は本当にベルナール様なのか怖い。宙をきる私の手はきっといつまでもどこにもたどり着けない。
私は……。
私は……。
臆病で情けない私が、今すぐにでも逃げようとする。私じゃなくてみんなで呼んだ方がいいと叫ぶ。二度と拒絶されたくないと震える。
『大切な人が相手だと途端に臆病になるところ、あの人にそっくりね』
頭の中で誰かの声が響いた。
この声は、覚えがある。優しくてあったかい声。私をここまで導いた光。
『大丈夫よ、シア。私の信条を教えてあげる――当たって砕けろ』
砕けたくなぁーい! と駄々をこねたら爆笑された。
でもそれは大きな勇気を与えてくれた。
「ベルナール様!!」
声が出た。それすらも奇跡みたいな光景に思えた。
伸ばすことができたその手の先に――彼はいてくれた。
赤い目は青く、真っ白な髪は青みがかった美しい銀髪に。伸ばした手を握り返してくれた彼はあの日、私の失敗を大笑いしたときよりもさらに人間らしい笑顔を浮かべていた。
「よ、よかっ――」
安心して気が抜けた言葉は最後まで言えなかった。
強く抱きしめられた私の体は、あったかくて涙が出そうになる。
ベッドで横たわっていた彼は、本当に生きているのか疑問に思えるくらい冷たくなっていたから。ここにベルナール様はいる、戻ってきてくれた、そう確かに感じられた。
「ただいま、シア」
数か月ぶりに聞いた彼の声は、少しかすれていたけれどベルナール様に間違いない。
「遅いんですよっ! 何か月待たせたと思ってんですかっ!」
抱きしめられているせいで彼の顔は見えなかったが、耳にかかった吐息が苦笑したのを感じた。
「……おいしいお菓子を持っていくから許してくれ」
お城の東屋で過ごしたあのときみたいに。




