□28 裏切らない愛
子育てに正解なんてない。
サンドリナが母親になって、たくさん読んだ育児書にそんなことが書かれていた。生まれてくる子供はみんな説明書なんて持ってこない。すべてが違う。その子にはあっていても、別の子にはまったく真逆の結果がでることもある。
だから子育ては、間違いと修正を繰り返す。
正解があればよかった。そうすれば悲しい未来に辿りついてしまう家族がもっと減る。親が悪かったのか? 子供が悪かったのか? どちらもそうで、どちらも違うかもしれない。その結果すら曖昧で。
サンドリナは燃える庭を見つめながら、どんな感情を抱いていいのかすらもわからずに瞳からだけ涙を流していた。
燃えている。美しく整えられた。夫が目の見えぬ娘のためにと品種改良したホワイト・メリルが咲く庭が。真っ赤に、黒煙と火の粉を舞わせて。
そしてその中心では、魔人クイーンが楽しそうにクルクルと踊っていた。姿は変わってしまっても、それが娘メリルであるということはサンドリナもわかった。
魔人クイーンは、会いたくなかった母親と再会したことに気が付いた。ゆっくりと顔をサンドリナに向けて、微笑む。
「ねぇ、お母様。あのときにした質問をもう一度するわ。……私がなにを考えているか、わかる?」
サンドリナは……ゆっくりと、だが迷うことなく首を振った。
「……わからないわ」
「ああ、そうよ! それでよかったの。娘のことを理解しようと愛情のこもった震える瞳で、申し訳なさそうに『わからない』と言ったあのときより、ずっと」
燃えカスとなった花をクイーンは踏みにじった。
「愛が重い。愛が苦しい。そう思っているのに、すべての愛が欲しい。都合のいい愛が欲しい。私だけを見つめて、私だけを愛して、私をけっして裏切らない愛が欲しい」
わがままで、横暴な欲望。だが、おそらくは誰もが心の底で一度は思うことかもしれない。それでも相手を思いやることができるのが、人間でもあると思うけれど。
「……メリル」
「ふふ、ごめんなさい夫人。あなたの愛するメリルはもうとっくに死んでしまったの! 私という怪物がメリルを食い殺してしまったのよ」
サンドリナはぎゅっとこぶしを握った。そして――
パン。
と高い音が鳴った。
なにが起こったのかその場の誰もが一瞬理解できなかった。
まさかサンドリナがメリルの頬を叩くなど、誰が想像できただろう。
「あなたは別人になってなんかないわ。正真正銘、私の娘メリルのまま。姿が変わっても、あなたはなにも変わってない。……なに一つ、母親として娘のことがまるで理解できないままよ」
それは怒りだろうか。サンドリナの手が震えていた。人を叩いたことなどなかっただろう。その感触は、叩く方も痛いものだ。
「メリル、ホワイト・メリルは好き?」
「嫌い」
迷いのない言葉が交わされる。
「肌触りがいいから気に入っていると言っていた、あのドレスは好き?」
「嫌い」
「おいしいって言ってくれた、私のシチューは好き?」
「嫌い」
サンドリナは娘にいろいろと質問した。すべてメリルが、母親に気に入っているとか好きだと言っていたものばかりだった。だがクイーンが答えるのはすべて嫌い。
これが最後、とサンドリナは一度息を吐いた。
「……私とお父様は好き?」
「……」
これだけは少しだけ間があって。
「嫌い」
冷たく言い放たれた答えに、サンドリナは予想していたとはいえ息を詰まらせた。
「夫人、私も最後に質問をさせて。……どうして、メリルを育てたの?」
「それは……あなたに会いたかったから。どんな身で生まれようと、私たちのもとへ来てくれた子。会いたかった、言葉を交わしたかった。大事に育てていけると信じていた」
それは一つの傲慢かもしれない。でも否定することはできない。
「それはとても残念だったわね。あなたが過ごしたこの屋敷での出来事はぜんぶ嘘。ぜんぶまぼろし。幸せだった? 束の間でも、理想の家族を演じられたかしら? メリルが本当はなにを思って過ごしていたのかなんてなにも知らずに」
「ええ、幸せだったわ。この屋敷でずっと彷徨ってしまうほどに。出口がないわけじゃなかった、きっとどこかにはあった。それを見えないふりをして通り過ぎたのは私。私が感じる幸せに永遠に浸っていたかっただけ。夫を失ったことも、娘と別れたことも……全部なかったことにしたかったから」
それでも。
「あなたから本当のあなたの気持ちの一つを聞いた。だから私も覚悟を決めなくちゃいけない。だって、私はあなたの母親であることを諦めていないから」
「……」
「私はここから出る! 夢でも幻でもない、現実に! 私は帰るっ」
悲鳴のような決意の叫びだった。サンドリナの周囲の空間がひび割れて、崩れ始める。ここは精神的なものが大きく作用する場所だ。迷いを振り切った彼女の心がこの空間から出ることを望んでいる。
「サンドリナ夫人……」
サラは決意を固めた夫人の背中を見つめて己を抱きしめる。サラにも懸念がある。火の王の加護があるとはいシャーリーもまた不自由を強いられることになるだろう身だ。それを知っていてサラはレオルドと共にあってシャーリーを生み育てることを決めた。
彼女もまた母親として傲慢なのだ。夫が許しても、娘が許しても、サラは一生この罪悪感にさいなみ続けることだろう。
「お父様も、お母様も……本当に私の親なのかしら。まるで違う、私は二人のようには強くあれなかった。私は壊して、どこにでも逃げる」
「ならば、私はどこへまでも、地の果てでもあなたを追いかけましょう」
クイーンは最悪、とつぶやくと霧のように消えていった。そして空間はガラガラと音をたてて崩れ去り、レオルド、サラ、ヴェルス、リーゼロッテは気が付けば巫女の社に戻ってきていた。
そして。
「サンドリナ夫人」
彼女もまた、あの歪んだ空間から脱出したのであった。




