□15 人間になりたいと思った
「顔が酷い」
その言い方はあんまりである。
過去のヨコハマでの救出作戦から一夜明け、私は一人木陰でしょんぼりしていた。原因はそう、セラと一緒にとらわれていた少女、アリスティアの存在だ。それはあまりに私にとっては衝撃的で、気持ちの整理も頭の切り替えもうまくできなくなっていた。あのアリスティアは、あの教皇とは別であろうことは初対面でもわかった。教皇自身も言っていたことだ、アリスティアの肉体をのっとっているだけで中身は違う。女神が魂を分けて作った忠実なる下僕、それが教皇の中身だ。
あのアリスティアはいつかの未来、肉体をのっとられてしまうという事実も私の胸中を重くした。普通の子だったんだもん、なんてことないどこにでもいそうな子で。でもあの顔を見ると恐怖が全身を突き抜けて震えてしまう。情けない。
ここがたとえ過去に起きたことを再現して作られた場所だとしても、こんな話を彼らにできるわけもなくて、なにも悪くないアリスティアの顔を見られないのも言い訳がきかなくて、こうして一人でどんよりと空気を背負って三角座りをしているわけだ。そんな風に虚空をぼうっと眺めていたら背中から、とんでもなく口の悪いセリフをかけられて、渋い顔になってしまった。
しかもこの声は。
「シリウスさん、それはあまりにあんまりです」
語彙が死んでいる。
「あ? ああ、うーんと……そうだ『顔色が悪い』だった」
ああ、それなら納得だ。鏡は見ていないが、そうだろうとは思う。
「なんだよ急に、アリスティア嫌い? 海に捨てとく?」
少年期のシリウスさん、物騒すぎる。とりつくろうこともまだできていない年代であることは察しだが、司教様の苦労がうかがえるな。
「捨てちゃダメ。嫌いじゃないよ、いい子だよきっと。私は大丈夫だから」
あまり視線を合わせたくなくて、また空を眺める。なにかを見ているわけじゃないけれど、いたたまれなくて。そうしていればシリウスさんは飽きてどこかに行くと思っていたが、なぜか隣に座ってきた。驚いて横を見れば、彼はなにやら本を開いていた。すりきれた、古い本。著者が書いた物語でも、便利な知識が披露されたものでもない、お世辞にもうまくはない字で走り書きされた文章が、支離滅裂に綴られている。
これは、見たことがある。おじいさまの屋敷で、シリウスさんが使っていた部屋で見た。
彼が、人の感情を理解しようとあがいていた彼の生きた証ともいえるもの。
「昔、教えてくれた。大丈夫は、大丈夫じゃないことがある。だからその言葉だけを聞いてわかったきになっちゃいけない。声色と、顔を見ろ……そこに本当の伝えたい言葉がある」
綴られた文字を確かめてから、私を見た。
「視線を合わせないのは、後ろめたいことがあるから。隠したいことがあるからである」
「うっ」
「誰の目からも、なにかあると分かるほどの負のオーラを背負っているのに、大丈夫を繰り返して膝をかかえて虚空を見つめるのは、結局誰かになにかを訴えたいことがあるからである」
「ほぐぉ」
めんどくさいかまってちゃんだと言われてしまった。そりゃそうだ、周囲のみんなの視線が熱かったのはわかっていた。それでもわかりやすい態度を出してしまったのは私が耐えられていないからだ。
「俺は人じゃない」
「……うん」
「驚かないな」
「……うん」
お互いになんとなく実は察していた部分がある。こういう特異な世界だからか、来た時から流れというものが存在していたように、シリウスさんには別に感じられるものがあったらしい。
「お前の中に……俺がいる。それは兄貴にも言えることだが、お前には俺の肉体の一部があるわけじゃない」
司教様の片目はシリウスさんの目だ。彼の力を少しでも抑えるためにやったことだったはず。シリウスさんの片目も元は司教様のものである。
「俺の魂が共にある。それがとても変な感じだ」
「……そっか」
ラミリス伯爵との一戦以来、シリウスさんとは会話することもできない。寂しさはあったが、それが当たり前なのだ。もしかしたらあのあたりで力を使い過ぎてしまって消えてしまったのではと不安もあったが、どうやらまだ一緒にいてくれているらしい。
「人じゃないから、人にはできないことができる。お前が『今』の存在じゃないのもわかるし、お前が『人間』じゃないのもわかる」
……人間じゃない、かぁ。
「私は……なんだと思う?」
「人間」
「それは……言ってることが矛盾してるよ」
人間じゃないのがわかると言ったのはシリウスさんなのに。
「人間じゃなかったものが、人間になろうとして、人間になれた。だからお前は結果的に人間」
「そうかな……なれてるのかな、人間」
昔から漠然としてあった、自分という存在の正体。ないと言われた日から、なんとなくだったものが真実となって私を不安に陥れていく。仲間がいても、拭い去ることができない。
「……昔、俺を子供だと言ってくれた人達がいた。俺がすべてを奪っても、いつかこのぬくもりを知って欲しいからと最期まで抱きしめてくれた。だから俺はそのときに人間もどきになれた。なれたからこそ生まれた罪悪感と後悔が、俺を寄る辺なきもの(リフィーノ)にした。兄貴もきっとあの二人もガードナーを名乗ることを望んだだろう。だができなかった。俺は人間に少しだけ近づいたから、だから孤独になった。望むものの欠片を手に入れたのに、望むものから遠ざかった。おかしいだろ? でもそのおかしさこそが人間だと思った」
あの事件が起きるまで、シリウスさんは虚無だった。アルベナの、正確には魔王の一部から千切れたもの。不意に生まれてしまったソレは人間の形をしたただの肉の塊だった。けれど奇跡的にもその肉の塊は人間もどきになれた。なのに孤独になってしまった、罪の意識に苛まれたから。
迷うのは、不安になるのは、望んだものと反した行動をしてしまうのは、『人間』だからだ。シリウスさんはそう言った。
「心を手に入れたいと思った。どんどんそれで孤独になっても、人間になりたいと思った。ヒトのことをたくさんこの本に書いたが、でも今でもわからな過ぎて少し諦めかけてる」
シリウスさんのノートに記されていた苦悩の文字の羅列を思い出して、胸が苦しくなった。彼は結局、自分を人間だと思えたのだろうか。
「お前はたぶん、『俺の未来』だ」
「私が……シリウスさんの未来?」
「俺がこの先、人間になれたと思える日が来るのかはわからない。けど、お前の中にいる俺は……あの日の――ぬくもりを伝え続けた父と同じ目をしている」
その言葉に泣いてしまったのは、私だったのだろうか。それとも私の中にいるシリウスさんだったのだろうか。
私はどこにもいない。どこにも繋がらず、どこにもいきあたらない。それでも確かに私には養父がいた。それだけは変えようもない事実で。
当たり前のことのはずなのに、みんなずっと私に伝えてくれているはずなのに、矛盾に迷い続ける素直じゃない私の心は直接響かせられることでようやく受け入れはじめていた。




