■閑話 死してなお……
美しい音色が響いている。
世界は、『彼』が生れ落ちる前からすでに予定調和のシステムが完成形近くまで組み上がっていた。贄をくべて燃やした力で輪は円滑に回っていく。
最初にくべられた贄は、『彼』の大切な人だった。
なにも知らず、幸せを謳歌する隣人の笑顔を憎んでしまったのは……悪いことだったのだろうか。
相変わらず美しい音は続く。
長く、長く、飽くことなく。
ヴァイオリンを奏でるのは、そもそも難しいと聞く。とんでもなく長くこの世界に留まり続けている『彼』でもその音色は今まで聞いた中でも一、二を争う腕前だと感嘆した。この心を呼んでいいのかわからぬほど疲弊した胸の内が、仄かな安らぎを感じているのを不思議に思う。
この音は、誰かに寄り添うことを忘れていない人間にしか奏でられはしない。
しかし、このヴァイオリンを演奏している視線の先の人物はすでに『人間』とは呼べない存在となっていた。
失った視力の代わりに、よく聞こえる耳をすまして聞き入っていた『彼』、キングはふいにやんだ音に顔をあげた。
「どうしタ?」
「いえ……ただ、夕日が綺麗だと思って」
先には太陽が沈んでいる最中のようだ。キングには全身で感じる温度で沈みゆく夕日を感じられるが、それを美しいと思える目はすでにない。光を忌み嫌い、恐れ、憎んだ己には夕日を美しいと思う資格はなかった。
「美しい……カ。お前にはまだそう思える心が残っているのダナ」
「それはおかしいですか?」
「アア、おかしイ。素直になにかを美しいと思えることができないから……堕ちたのダ、魔人に」
荒ぶる魂に一瞬でも安らぎを与えられるヴァイオリンの音、それを奏でられる時点でそれはとても異質なことだった。
キングはシア達と別れた後、渋々ジャックに連れられてノアと再会した。ノアに頼まれたのは、新たに魔人となったという男を迎えに行くことだった。非人道的な行いをやれと言われたら、憎たらしい女神に関わることであろうが断固として首を振ろうと思っていたキングは多少肩透かしをくらったが、同時に安堵した。覚悟はあるが、ノアと本格的に対峙するのは様々な立場と感情から避けたいものではあったのだ。そうして指示通りに迎えに行った男が……彼だった。
「……僕には記憶がありません。どうして、いつどこで魔人と成り果てたのか……それ以前に自分が何者であったのかすら」
偶然にも手にしたヴァイオリン、それを自然と奏でることができた。でもそれもどうしてか、わからない。引き付けられるように、ずっと奏でている。
「なにもない。なにも思い出せない。でも、ヴァイオリンを奏でていると少し落ち着くんです。落ち着く、いえ……それも少し違いますね。奏でなければと、思うんです。誰かに」
「誰かニ?」
その美しい音は、心を癒す。だが、同時にその曲は切なさも連れてきた。曲調は、そう……きっと。
「……レクイエム。誰かに捧げるレクイエム。僕はたぶん、誰かを失ったんです。とても大切な誰かを、守れなかった誰かを」
魔人になるには二パターンある。生きたまま魔人になるか、死んで魔人になるか。大抵、人が堕ちるタイミングは生きている時である。だからほとんどのキングも含め魔人は生前に堕ちる。現在、死して堕ちるパターンで魔人になったのは、ジャックだけだった。だが、新たな彼もまたそのパターンらしい。
死して堕ちた魔人は、生前の記憶を失う。
生前とまったく別の人格になってしまうこともあるそうだ。ジャックは、生前とはまったく似ても似つかぬ別人格になったとノアがもらしたのを聞いたことがあった。彼はどちらか。
「僕はどうして堕ちたのか。堕ちてでもなにかやり遂げなくてはいけないことがあったのでしょうか。記憶がなければそれもなしえないのに」
「……泣いているのカ」
「おかしいですか?」
「おかしいナ」
前例のない魔人だ。こんなにも優しい気配をまとう魔人もいない。確かに、なにかがあって堕ちた人間のはずなのに、どうして彼はこんなにも穏やかなのか。
「僕は……僕のやらなくてはならないこと、を思い出し、成し遂げるためにノアの元へ行くことに決めました。……名のない僕は、なんと名乗れはいいでしょう?」
キングはノアから託されたものを思い出して。
「ハート、と名乗れということダ。我々はトランプにちなんだ名を使っているガ、ノアとしてもお前はイレギュラーなのだろう」
スートの方を名乗れとは。だが、ノアが彼にハートというスート名を渡すよう言ったことになんとなく合点がいった。ハートを失った魔人の中で唯一それをかたれるのは彼しかいない。
「ハート……なんだかちょっと恥ずかしい気がしますが」
「名としては少しおかしいかもしれんナ。なんともわしはしっくりきてしまったガ」
その言葉に彼、ハートは少し笑った気配を感じた。
なんと嫌味のない笑みの気配だろうか。
「死してなお、堕ちてなお、記憶のすべてを失ってなお……僕はこの音を捧げる人がいるのでしょう。最期を迎えるその瞬間まで、僕は」
諦めない。そう言う彼は確かに堕ちた人間、『執着』を抱いた者だった。
キングは再び奏でられはじめた音色に耳をすませて、思った。
思い出すのは幸せに繫がるだろうか。
堕ちるには堕ちるにいたった出来事が必ずある。彼が人間のような心と正気を保っているのは、むしろ記憶がないからに他ならないのではないだろうか?
死んで堕ちる人間は。
生きて堕ちる人間よりも――――
悲惨だ。
だからこそ、記憶を失うのだから。




