■35 とある少年の地獄(side:とある少年)
人間が生きていくのに必要なもの。
空腹を満たす食べ物。
安全な寝床。
人間が安定した精神を保つのに必要なもの。
安心できる住処。
信頼できる他人、家族とか、友人とか……そういうの。
――僕は、なにひとつもっていない。
なにもない。
寝泊まりする場所はかろうじてあるけど、そこはまったく安全ではない。隙間風が遠慮なく吹き抜けて、知らない暴力的な男が僕を気まぐれに殴っていく。
唯一の家族である母親は、男に媚びるのに必死で僕のことなんか一度も見てくれない。
お腹が空いたら、ゴミ捨て場で残飯を漁るしかない。
惨めで、非人道的な生活を強いられている。
僕は今、なんのために生きているのだろう?
『貧乏人!』
『ゴミをあさるなんて下品ね!』
『汚い、クサイ、近寄らないで』
帝国は先進国といわれ、民の生活水準はかなり高い……はずだ。でもそれは、実際にはごく一部の人間には適用されない。
覚醒者ではない人間は、帝国の一般市民にすらなれないのだ。
黒い髪は、覚醒者の証。現在では髪色は違う色に混じることも多くなったが大抵は黒に近い色をして生まれて、例外なく大なり小なりなにかの能力を持っている。それが『帝国の一般市民』。
僕の髪はとても黒に近い。だけど……。
――無能だ。
なんの特別な力もない。
母親は、黒に近しい髪色で生まれた僕に期待を寄せていたらしい。僕の母は、すでに無能の一族となり果てていた。長い歴史の中、異世界人である血はこの世界の人間と混ざったことで特別な力は薄れていっている。無能となった人々は、たいてい都市や町を離れ遊牧民として土地だけは広大な帝国領土を転々としながら生活している。
なぜか?
無能な人間は、一般帝国民ではなく低俗民だからである。だから帝国が定める最低限の生活の保障すらしてくれない。
人は人である限り、力のない者を蔑み、嗤わずにはいられない生き物である。それはいくら時代が進み暮らしが発展しても変わることがない。
ならば僕らのような無能は、同じ無能が集まる場所へ……遊牧民となればよかった。母親も素直に無能なことを認めて町を離れていれば、こんなどん底の暮らしをせずにすんだのに。諦め悪く、覚醒者の男をたぶらかして僕を産んだ。
子供が覚醒者となれば、なんとかなるとでも思ったのだろうか。
だが期待とは裏腹に、産まれた僕は無能だった。
無能とわかってからは、母親は僕を一切かえりみなくなった。放置された僕は、必死に泥水をすすりながら生きてきた。
でもふと、最近思うようになってしまったんだ。
僕は、なんのためにこんな惨めなことをしてまで生きているんだろうって。
「ここから先は住民IDが必要です。IDの提示をお願いします」
住民IDなんてもらえるはずもない。
無能だから。
「IDを提示ください」
うるさい。
「IDを提示してください」
うるさい。
「IDを――」
僕は……本当に……ここで、生きていますか?
寝るだけの場所は、ぐちゃぐちゃに荒らされていた。
片付けても、片付けてもきりがない。母親は家事なんてしないし、見知らぬ男が勝手に使っていることも多い。僕はいつも目につかない死角のすみっこで体を小さく丸めてボロボロの布で体を包んで眠る。
ふと、今日は母親が戻ってきていないことに気がついた。
いや……ここに戻ってこない日なんて珍しくないじゃないか。だけどなんとなく胸騒ぎがして外へ出た。あの人がどこでなにをしているかなんて知らないし、知りたくもない。だからどこへ歩けばいいかもわからなかったが、あたりを適当にぶらついた。こんな夜更けに子供一人で歩くのは、セキュリティが固い帝国でも危ないことは変わりないし、僕のようなID(市民権)も持たない子供をセキュリティが守るとは思えない。自分の身は自分で守らなければならない。僕はまだ十二になったばかりの非力な子供、夜は住処で小さくなっているのが一番いいのに。
「かあさ……ん」
母親を母さんなんて呼んだことはなかったように思う。そう呼ぶ機会もほとんどなかったから。でもあの人を呼ぶとしたら、こう呼ぶしかなくて……ああ、なんてなれない違和感しかない呼び名だろうと思った。
そしてふらふらと歩くことしばらく、僕は明かりの薄い路地へ入った。吸い込まれるように。そこで鼻につく異臭を感じた。
いくどか嗅いだことがある嫌な臭い。
……血の臭い。
現場は異様な空気に満ちていた。それなのに僕の歩む足は迷うことなく進んだ。
「……母さん」
想像通りの光景がそこにはあった。
むせかえるほどの酷い血臭。相当量の血が流れていることは子供の自分でも想像できた。あの人の体は二つにわかれてしまっていて、下半身は少し離れた場所で変な形に折れ曲がってしまっていた。
犯人のことはあまり考えなかった。
僕らは、たやすくこういっために合う。
だって、無能だから。
なにをしたって……黙認されるのだから。
人間の底には、残虐性が潜んでいる。
普段は法と秩序、道徳がそれを抑え込んでいるけれど、誰もが恐ろしい猛獣を飼っていることを忘れてはいけない。
人の下には、踏み台となる≪人と認められないモノ≫がいつだって必要なのだ。
僕はたまたま、その踏み台の下に生まれた。
ここは地獄だ。
人が人であり続ける限り、地獄は決して消えない。
僕は母親の顔を布で拭った。酷く血と泥に汚れていたから、なんとなく。新しい布じゃないけど許して欲しい。口汚い母親は、もうなにもしゃべれない。だから暴言を吐かれることもない。
丁寧に、丁寧に汚れを拭った。
……背後に、何者かの気配を感じた。
僕も殺されるんだろうと思った。だけど、どうでもよかった。なんで生きているのか、生きるために必死にならなきゃいけないのか、もう全部見失っていたから。
丁度いいや。
…………。
…………。
…………?
想像していた痛みや衝撃はいつまでたってもこなかった。
恐る恐る後ろを振り返った。そこには大柄な男の体が横たわり、その傍には。
「大丈夫か、坊?」
少女の声がした。暗いシルエットは確かに背の低い少女のような形だった。だがあまりにも非現実な光景で頭の処理が追い付かなかった。
「坊?」
「……あ、あ……りが……とう?」
たぶん、助けられたんだろう。まさか誰かが助けてくれるなんて思いもよらなかった。この短い人生、誰かに助けてもらった記憶がないから。
「そうか、それは良かった。にしても酷い人間がいたものじゃ、幼子を害そうとするとは」
声質のわりに、年寄りじみた話し方をする。
「……その女、坊の母親かの?」
僕は少し迷って、頷いた。
この人が母親であるか、そう聞かれてそうですと答えていいのかちょっとわからなかったのだ。
「ふむ? わけありか。しかし、どのような者でも死すれば弔わなければ……手伝うがよい、坊」
差しのばされた手は、自分と同じくらいの子供の手だった。つかまって、立ち上がり目線が同じくらいになったとき、月明かりが路地を照らした。シルエットだった人物の姿を明瞭に浮き上がらせる。
薄灰色の長い髪の少女だった。
年の頃は、僕と同じくらいの十二前後の紫の瞳をしている。
綺麗で、可愛らしい少女。
だが似つかわしくない、彼女の身の丈より大きそうな大鎌がもう片方の手に握られていた。
僕はぼうっとした頭のまま、少女を手伝いながら聞く。
「君は……?」
「わしか? わしは……まぁ、通りすがりの戦える美少女とでも思っておくがいい」
……正体を明かす気はないらしい。別にいいけど。
二人で墓穴を掘り、母親の無残な遺体は土の中へと見えなくなっていった。帝国は基本的に火葬で、墓場を作らない。管理が後々大変で面倒なことなどから、遺灰を山頂から風に乗せて送るという方法がとられていた。だが、僕には火葬代を出すお金もなければ管理してくれる人もいない。人目のつきにくい場所にひっそりと埋めて石を置く、それだけの簡素な墓といえるのかわからないようなもの。
それに手を合わせた。
死者を冥界へ送るときの決まった作法。
「坊、身よりはいるのか?」
僕は首を振った。
「うむ、にしては妙にすっきりとした顔になったの」
そう言われて気がついた。あの人を送る前までは色々とモヤモヤしたものがあったのに、今はなんだか気持ちが晴れていた。
「変……かな」
身近な人が亡くなったら、悲しくなって泣いたりするものだ……と知識では知っている。だが、僕は泣かなかった。一滴も涙がでないし、悲しくもない。
あるのはただ、当たり前のように無残に殺されたという事実と虚無感。
「……僕は、あの人にかまわず……どこかに行くこともできたんだ。でも、ずっとなんとなくできなくて」
あの人がここにいることが一番バカな選択な気がしていたのに、僕はずっとそこにいた。誰かになにか咎められることはないんだ、荒野に出ることは。
「歩き続けて、運が良ければ遊牧民の集落に辿り着けたかも。でも……なにもせず、ここにいて。母……が死んで、正直……たぶん――ほっとしてる」
酷い、ことだ。この感情は。動かなかったのは自分自身だというのに、動けなかったのを他人のせいにしている。
「そうか、では坊……お前はどこへゆく?」
静かな紫の瞳がこちらを見つめている。強い意思があるかのような真っすぐな目は、僕のように弱い人間には少々辛い。
「……荒野へ、歩き続けようと思う」
「野垂れ死にやせんか?」
「たぶん、そうなる」
助けてもらってなんだが、これから生きていく算段はない。あの人の存在がかろうじてあの寝床を守っていたから、それがなくなった今、あそこにもいられないだろう。
「そうか……それは、悲しいの」
「……悲しい?」
なぜ?
「坊がそんな顔をすることも、わしは悲しいよ」
「赤の他人なのに?」
あわれみを向けられたことはある。だが、こんな優しい目を僕は知らない。
「ふふ、そうか赤の他人か! わしはな、坊……この大地に住むすべての者どもを子と思うておる。愛らしい、可愛い可愛い子らよ。だから坊がそう言うのは悲しい」
少女が何者なのか、まったくわからないが壮大な話だ。彼女は神話の中で語られる物語の女神なのだろうか。
「よーし、決めたぞ! 坊よ、わしの養い子となれ!」
「――え……!?」
同じくらいの少女に、自分の子供になれと言われて驚かないわけがない。だが、戸惑う僕をよそに少女はいいことを思いついたかのように楽しそうだった。
「うんうん、われながらよい案じゃ! 大地の子らすべてがわしの子ならば、一人くらい養子にしても問題あるまい。アレにできたのだから、わしにだって――」
ぶつぶつ言っていて最後の方は聞き取れなかったが、僕が彼女の養子になることは決まってしまったらしい。
「坊、名は?」
「名前……は、ない」
「なんと! 名無しとは、これは責任重大な名づけをせねば。ちょ、ちょっと待て、今考える」
うーん、うーんとしばらくうなりながら考えて、少女はぽんっと名前を思いついたのか、僕にどや顔で告げた。
「ポチ! ポチはどうじゃ!?」
「……えーっと」
犬によくつけられる名前かなぁ。不満を言える立場ではないが、喜べるほど僕は人間ができていない。僕が微妙な顔をしたので、少女はダメかぁとしょぼんとして次の名前を必死に考えていた。
それが少し、嬉しいと思ってしまった。
生きているのかいないのか。存在しているのかいないのか。僕はずっと曖昧で、罵声に塗れた日々は精神をすり減らされた。こんなにも前向きな感情を向けられたことなど、今までなくて。
「タマ! タマはどうじゃ!? 可愛いじゃろ!?」
「……うーん」
名づけのセンスがまったくなくて、僕は人生でたぶんはじめての苦笑というものを浮かべた。
「あ~~~~! こんなにも名づけが難しいとは! えーっとえーっと、アレは結局なんという名前で落ち着いたのだっけ……思い出せ、わし……――思い出した! シア、そうシアじゃった。ならば、そこからちょっと変えて」
あ、とか、い、とか順番に単語を並べてしばらく、ようやく決まったらしい。
「シン! シンはどうじゃ!? これでどうじゃーー!?」
「……」
シン。
その名前を僕は自分の中で何度も繰り返した。じんわりと染み入るものがある。
「その顔、OKじゃな!? はぁ、良かった。悩み過ぎて禿げるところじゃった。ババアといえど、まだ禿げとうない……」
本当にこの子、いくつなんだろう。
自分の新たな名を胸に、なんだか体の奥が熱くなる感覚を覚えながら少女は「では行こう」と歩き出した。
「どこへ?」
「実はわし、世界を混沌で満たすため女神に喧嘩を売ることに決めての~」
……とんでもないことを言いだした。
「とりあえずヨコハマにいる強欲の化身を混沌の鬼にでも食わせようかと」
「はあ……?」
それがいいことなのか悪いことなのか、学のない僕にはわからない。だが、すごく物騒な響きであることは理解できた。
「それはまあそれとして、とりあえず君をなんて呼べばいい?」
「ん? ママでも母さんでも、ばあちゃんでもなんでもよいぞ? あ、自分ではババアというておるが、子に言われるのはくるのでババア呼びは嫌じゃ」
「……」
養子ということだからそれが普通はいいのだろうが。なんともいえない気分だ。そんな複雑な心境を読みとったのか彼女は少しだけ自分のことを教えてくれた。
「すぐは難しいよのぉ。わしは古くから色々な呼び名があったが、それのどれかでもひとまずは良い。……滅びの悪魔、混沌の魔女、瘴気の怪物、あとはえーっと……そうそう、これが一番通りがよいかもしれんな」
人々はよくわしのことを――――魔王、と呼ぶ。




