■15 なにもない
どれだけ落ちたのだろうか……一向に底に辿り着く気配はなく、落ちていく感覚にも慣れてきてしまった。真っ暗でなにもない空間をひたすら落ちていく。目の前には不本意にも道連れにされたような形でソラさんがいるが、彼しか見えるものがない。
まったく明かりがないが、自分とソラさんの姿だけはハッキリとしている。
「あのー……いつになったら底に着くんです? っていうか、底についたらもしかして死にます?」
「死にはしないよ。普通の奈落とは違うからね。底にいつまでたってもつかないのは僕も疑問かなぁ……。それにこの奈落はまな板ちゃんの起源を辿るはずのもので、なにもない暗闇の世界を落ちていく予定じゃなかったんだよね」
それは、どういうことだ?
「なにもないってことかな? 人の生、なにもないはずがないんだけど……。本当になにもない。底にはまな板ちゃんのはじまりがあるはずで、でもたどり着けない。はじまりまでの間であるはずのものも、ない」
「私のはじまりが、ないってことですか? 過程すら?」
それはそれでおかしなことだ。私は今ここに確かに存在しているし、母親の存在は判明している。親から子が生まれる以上、はじまりもその後の過程もないはずがない。
「うーん、父さんの様子から推察すると、まな板ちゃんの起源を父さんは知っているはずだ。どこの誰の血筋で、どうしてこうなって今があるのか」
なにもないのが正しければ、起源を知るはずのアオバさんの言葉と食い違う。この奈落空間がおかしいと思うしかない。
「この奈落、本当に私の起源を知れる場所なんですか?」
疑いの眼差しを向けると、ソラさんは珍しく難しそうな顔をしていた。
「……失敗したかなぁ」
そう呟くと、指を鳴らした。
すると、落ち続けていた浮遊感が突然なくなって、固い地面に着地した。普通の地面だ。先ほど穴が開く前の場所。
「――ねえ、僕に仕事なんて押し付けたくせにおかしなことになったんだけど?」
不満そうな顔で睨みつけられたが、ソラさんが視線をよこしたのは私ではなく、私の背後にいる人物にだった。背中がヒヤッとして、心臓の鼓動が変に早くなる。振り向いてはいけない、見てはいけない、出会ってはいけないと、なんとなく思ったが引き付けられるように振り返ってしまった。
そこにはいつの間にか、人が立っていた。
中肉中背。背丈も高くもなく低くもない。白髪を肩ほどまで伸ばした人物は、感情がよくわからない表情を浮かべて静かに立っていた。
「確かめたくてね、ありがとうソラ。君が協力するとは思ってもみなくてちょっと驚いたけど。一応あの子にも頼んではいたけど、こちらが早かったね」
その人物から発せられる声音は、性別すら判別できない。
この人……人間じゃない。
すっと、そんなことを自然と確信してしまうほどその人物は浮世離れしていた。性別、年齢、そこに本当に存在しているのかすら、あやふやに思ってしまう。
「まぁ、僕も知りたいことがあったしいいけど……。ねえ、なんでなにもないの? まな板ちゃんって……えーっと、確かにそう、なんだよね?」
確かに『そう』?
「うん、間違いはないよ。私は直接見ているからね……。さて、置いてけぼりしてごめんね、シア。まずは名乗ろうか」
二人の会話を困惑した様子で見ているしかなかった私に、その人は視線を合わせた。
綺麗ともいえるし、怖いともいえるし、群衆に紛れたら見つけられそうにないともいえる。不思議な人物像。ふとすれば、その人と会ったという記憶すら失いそうで、おかしな喪失感にも襲われる。
「私の名は――『ノア』。魔人の長とも、邪神とも言われる存在……かな。私自身、そう呼んで欲しいと言ったわけではないのだけれど。君にはそう言った方が通りがいいと思う」
「ノア!?」
その名前に身構えてしまう。
ラミリス伯爵や魔人クイーンもその名を口にしていた。己で作ったわけではないようだが、その肩書はこちらに恐怖を与えるには十分だ。
「そんなに身構えないで、私は今回、君に危害を加えるつもりはない。ジャック達にも今回は君と協力するようお願いしている」
「……目的は、なんなんです?」
魔人とは何度かやりあってはいるが、結局のところ彼らが何者で、なにを目的に動いているのかこちらはまったくわかっていないのだ。ジャックはそもそも子供達を実験台にしていたり、クイーンも魂を抜き取るということをしている。絶対にいい目的なわけはない。
「目的……言葉にするのは難しいけど……そうだね、簡単に言えば復讐になるのかな」
「復讐……?」
何に?
「今はまだ、その話をしている時間はない。君が力を得て、女神をなんとかしてもらわないと困る。だから今回は協力を申し出る。君が力を得るための道を指し示そう」
……聖教会での一件は、ジャック達に助けられたし、帝国にも無事に来られた。けど、魔人達と協力するのはなかなか難しい。あまりにも未知だし、あまりにも凶悪な本性がちらちら見えているのだ。ノアもまたなによりも未知な存在だ。
不思議と凶悪な感じはしないが。
なんとなく、怖いとも思える。それがなぜなのかわからないが……もしかしたら、人間らしい感情が表情にまったくないからだろうか。まるでお人形としゃべっているかのような気分だ。
でも、またどこかで怖さを感じながらも、安堵も覚える。
妙だ、とても。
「私が怖い?」
「……怖くて、でも安心して、そしてすぐに記憶から消えそうで……なんとも言えない変な気分です」
「ああ、それはそうかもしれないね。私は一つではないから」
「え?」
ちょっと意味がわからないと首を傾げた。
「ノアは集合体なんだよね」
「集合体?」
静かにしていたソラさんが教えてくれた。彼は空気を読むということをしない人だが、今回はやけに大人しい。
「女神によって人生を狂わされた異世界人のなれの果て。死した魂の集合体。ひとりの人物じゃないから、あまりにも多くの人格と感情が混ざってはた目にはもう、無のようにも見える。だけど対すれば無とは真逆の印象が溢れるのさ。面白いよね」
面白くはない。
「待って、異世界人の魂の集合体? 魔人の長が? なんで……」
繋ぎ合わせれば、魔人を統括しているのは異世界人達ということになる。
「言ったじゃないか。目的は」
復讐だと。




