■11 とても嬉しかった
憧れは、確かにあった。
壁一枚に阻まれた、その先には優しいぬくもりがあるのだと信じていた瞬間があった。
だって、私はなにも知らなかったから。
そこはとても安全で、あったかくて、笑顔が絶えなくて。
……幸せで。
大人の男女が言い争う声が響く。
幼い少女は膝を丸めて縮こまり、もう少し年上の少年が少女を守るように抱き抱えていた。怒声が止まらない。少年少女に浴びせられているわけでもないのに、二人はとても怯えた様子で部屋の隅にいた。
時折、なにか物が壊れる音がする。
びくりと体を震わせる。
大人の男女は、二人の父親と母親だった。
でも、その光景に私が空想していた姿はまるでなくて。
……なんの地獄だろうと思った。
『これが、現実だよ』
呆然とその光景を眺めていた私に、いつのまにか幼い少女がそう語りかけてきた。
『家族があったかいものだなんて、嘘。血の繋がりがあれば、家族になれるなんて嘘。なにも知らないあなたが羨ましい。私はあんなものいらなかった。ない方がマシだった。あの二人が出会わなければ、結婚しなければ……私は生まれなかっただろうけど、ここに生まれて良かっただなんて一生思えない』
言葉のひとつひとつに棘があり、冷たさがある。
『あなたの想像する、そんな家族はいるかもしれない。でも、私には残念ながらなかった。今でもいえる。家族なんていらない。……お兄ちゃんも、私という存在に縛られてしまったから』
あ。
そこで私はこの兄妹が誰なのか悟った。
メグミさんとアオバさんだ。
これは夢で、私がこんな夢を見るのはきっと私の中に宿ったメグミさんの力が影響しているに違いない。私は、そういうものに影響されやすい体質みたいだ。
『はじまりの聖女が、聖女らしいイメージだなんて笑えるよね。本人は上っ面をとりつくろうのにただ必死だっただけの小娘だよ。生まれた世界から逃げ出して、異世界の女神に体よく利用されて……復讐心にかられるままに優しい兄を縛り付けるようなことをした』
それは……密かにメグミさんとアオバさんの間で交わされたものだろうか?
帝国をつくったというアオバさんの目的はやはり、女神への……。
『私の魂は、女神の元へと召されたけど……心は置き去りにしてしまった。魂が光の下で消滅したっていうのに、心が残るなんて不思議だよね。女神への復讐心だけは、永遠に残り続ける』
恨みや憎しみは、重く淀むから消えることができないのかな。そんな風にメグミさんは苦笑した。
『こんなの見せちゃってごめんね。憧れは綺麗に輝いてこそ憧れなのに』
「……いいえ」
憧れていても、現実をまったく知らないわけじゃない。ここまで生きてきて、うまくいかない家庭があるのは理解している。けど、生々しい現場を見るのはやっぱり息苦しい。
「私だって現実は最悪も最悪でしたよ。実の父親は未だに不明ですけど、実の母親は遺体を教皇にのっとられて使われてるんですから。実の両親が私を捨てるに至った理由もなにも判明してませんが、絶対ろくでもないです。……知りたくないです正直。もう、なにも知りたくない。実の両親のことなんて聞いてどうしろっていうんです? 今更、教えないで欲しい。欲しくもない、しかも腐ったものを無理やり口に押し込められた感じ。吐き出したい。全部、吐いて土に埋めてなかったことにしたい」
ずきり、ずきりと頭が痛む。
なにかを思い出そうとすると頭の一部が痛くなる。これは警告なのか、生理的に受け付けないからなのか。
「普通でいいんですよ。普通に生きて、普通に幸せだなって感じられて、年取って死ねれば。それ以上なんてあんまり考えられない。そのために色々と模索したり、若干汚い手を使ったり使わなかったりして。ギルドで疑似家族作って、自分の足りなくて満たされなかった部分を満たした気分になって。守ってるふりして守られてる。みんな私を優しい子とか言うけど、全然そんなことない。私だってとりつくろうのに必死。ねえ、メグミさん……」
私の愚痴を、誰にも言えない汚い言葉をメグミさんは、笑いながら聞いている。彼女が不快に思わないのは、たぶん私達はどこか似ているからなんだろう。
「私の人柄のランク、わかります?」
『うん、わかるよ。Cランクだね!』
「……ですよねぇ」
いいランクだとはみじんも思ってなかったが、なかなかに低い。平均的にBランクが多く、それ以上がいい人柄だと言えるだろう。Cランクは残念ながらちょい悪ランクだ。
『劣悪環境の名ばかり孤児院出身にしては、高い方のランクだと思うけどね? ルーク君は特殊というか、人に恵まれたというか。そうでもなければCランクにすら届かないなんて子、たくさんいるよ』
それはそうかもしれない。私も、あのままシリウスさんや司教様に出会えなかったらCランクなんて笑い飛ばせるくらい極悪人間になっていた可能性もある。
『環境は人を簡単に変えるよ、シア。周囲の環境に影響されない人間はほとんどいないから。私もさ、愚痴ってはいるけど、女神の策略だったとしても聖女として勇者達と冒険したあの時間はかけがえのないものなんだ。私はあの時間だけ、聖女になれていたと思う。聖女たろうと頑張ってはいたけど、それでも体面を保てたのは勇者達が信頼できる頼もしい仲間だったから。だから私が死んで、ひどく悲しんだ彼らが立ち直ってその後を幸せにすごしてくれたのは、とても嬉しかった』
メグミさんの語るその顔は、とても穏やかだ。
あたたかな光が差し込んできて……。
「あ……」
『もう、朝かな? シアは起きるの早いもんね』
「はい。もう、行きますね」
『うん。おしゃべりできるのは奇跡みたいなものだから、またねとも言えないけど。機会があれば、また』
手を振ってメグミさんと別れて、私は目を覚ました。
「あああああーーーー!!!!」
珍しい声の絶叫が、屋敷中に響き渡って私はうっかり昼食の準備をしていた手からお玉がすべり落ちてしまった。
なにごと!?
私と違ってあまり大絶叫しないルークの声に、私はお玉を片付けることもせずに玄関ホールへ走った。ホールにはすでに絶叫に驚いたのだろうレオルドとサラさん、私の後ろから遅れてリーナとシャーリーちゃんが顔を出す。おじいさまとイヴァース副団長は今日もでかけていて、リクは今日はまだ顔を出していない。
ルークが驚いた顔のまま口をぱくぱくさせている相手は、玄関の扉を開けた手前で行儀よく佇んでいた。家主の許可がない限り、無作法に立ち入らないといわんばかりの綺麗な立ち姿で品の良さを感じさせる。
身長は向かいにいるルークより低いがそこそこ高く、髪型はきっちりと整えていて眼鏡をかけた容姿はとても頭が良さそうな、穏やかな面立ち。容姿も身なりも清潔感があり、一切の嫌悪感を抱かせない徹底した整え方だった。
商人……かな?
なんとなく、そう思った。
「ふふ、お久しぶりですねルークさん。ギルド大会以来でしょうか」
「あ、あああ、あんたは! えー、えっとなんとか商会の商人!」
「なんとかではなく、アルヴェライト商会の代表、ヴェンツァー・アルヴェライトです」
にっこりと爽やかな営業スマイルを浮かべた男は、どうやらルークの知り合いの商人らしい。
「ルーク、知り合い?」
首を傾げながら顔を出すと、二人ともこちらへ視線を向けた。
「ああ、そのギルド大会決勝で馬で突入してギリギリ間に合っただろ? あの馬を貸してくれたやつ」
「はじめまして、暁の獅子ギルドマスター・シアさん。私は帝国を拠点に様々な地で商売をさせていただいているアルヴェライト商会代表、ヴェンツァー・アルヴェライトと申します。ギルド大会の折は、ライラ・ベリック殿の依頼で、ルークさんを手助けさせていただきました。無事間に合ったと聞いて、ほっとしましたよ。遅ればせながら大会優勝おめでとうございます」
「え、あ、ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げた。
少し話は聞いていたけど、この人だったのか。
「あのー、それでアルヴェライト商会が私達になにか?」
「あなた方がわけありで帝国入りしたと小耳にはさみまして。ご縁もありますし、もしもなにかお困りごとがあれば、お力になりたいと思いまして」
すっと出されたのは名刺だった。
「ここにご連絡いただければいつでも、どこでもかけつけて困りごとの解消に尽力いたしますので、どうぞごひいきに」
にっこり営業スマイル。
お、おう……。
一回、ライラさんが依頼してできた縁だというのに、なかなか商魂たくましい人だ。しかもヴェンツァーさんって代表なんでしょう? 偉い人がわざわざ自分の足で営業しにくるなんて行動力の塊だ。ルークに直接馬を貸したりしに行っているし、自分で行動して商売をするタイプなんだろう。見た目は完全にデスクワークっぽいのに。
「ちなみにアルヴェライト商会は、多岐に渡る商品を提供しておりまして。前にお貸しした馬もしかり、各国各地の食材やアイテムから、モンスターのレアドロップ品などなど扱っていない商品の方が少ないくらいだという評判をいただいております」
「そ、それはすごいですね」
押しに弱いわけじゃないけど、圧に若干負けそう。
「そうそれと」
ヴェンツアーさんは、少し声を抑え低めの声で私の瞳を覗き込むように言った。
「様々な情報も商品となっています。黄金の星姫との連携もしていますので」
はっとして、視線を彼と合わせた。
黄金の星姫は、ラディス王国王家の三つ子姫が代表のはずだ……。
「彼女達は表面上の情報に踊らされることはないでしょう。……我々と協力するのも一つ手とお考えを」
にこっと笑ったその顔は、少しいたずらっぽい。
少し緊張していたが、その繋がりをちらつかせるのは卑怯だと思いながらもほっとした。
「ありがとうございます、ヴェンツァーさん。なにかあったら、頼らせてもらいます」
彼から素直に名刺を受け取ることができた。
嬉しそうな彼は果たして商売がうまくいったからなのか、別のなにかがあるのか。
頭と口がよく回る人間を簡単に信用するのはよろしくないのだが……。
「ヴェンツァーさん」
話を終えて、屋敷を出ようとしている彼に私は声をかけた。彼は少々不思議そうにこちらを振り返る。
「ギルド大会での件、本当にありがとうございました。あなたがいなかったら、ルークは間に合わず私達は優勝できていなかったかもしれません。こちらも遅ればせながら、お礼を」
深々と頭を下げると、彼の驚いた気配を感じて、それから。
「商売ですので」
できる商売人の、自信に満ち溢れた声が響いた。




