*閑話 暗い旅のはじまり
王都の繁華街として賑わう一画、強引な客引きや派手な店が多い中、少し奥まった路地を進んで行くと静かに酒を飲みたい大人が集まるバーがあった。
≪白ひげの隠れ家≫そう簡素な看板の掲げられた、ダンディな白髭のマスターが美味い酒をふるまうバー。綺麗な給仕もいない、弾む会話もない。それでも煩わしい世界から逃れてマスターの提供する酒を静かに飲みに来るコアな客が今日も外の喧騒をバックミュージック代わりに、酒を飲もうとやって来ていた。
しかし。
「おや? マスター、今日は休みかい?」
ちょうどクローズの札をさげていたマスターに客の一人が声をかけた。
「……ああ、すまないがしばらく休業することにした」
マスターの言葉は少ない。元々無口な人だ。ご老人だが体格がよく厳つい見た目だが、それでもにじみ出る穏やかな人柄が客に愛されてきた。趣味でやっていると以前聞いたことがあった常連の客は、不思議に思う。趣味とは言いつつも、酒はどれもうまいものばかりだし、律義に休日以外は休むことなくバーを開けていた。
「どこか具合でも?」
さすがにお年である、客はマスターの体調を心配した。
しかしそれにはマスターは首を振った。
「大事が起こってな……か、かぞく……に」
なんとも歯切れの悪い言い方だった。
「ご家族? 確かマスターには息子さんがいらっしゃいましたよね。数年前に亡くなられたと聞きましたが」
「……うむ」
険しい顔でうなった。
マスターは息子が亡くなって、事情があって王都で暮らし始めたらしい。もしやそれ絡みだろうか。
「息子……には、あれだ……娘がいて、な。一応……」
こっちも歯切れが悪い。
色々と事情がありそうだと思ってはいたが、お互いに詮索はしない。バーのマスターと客。わずらわしさから逃げてくるような客には突かれたくないことが多い。
「お孫さんの大事ですか……。マスターの酒が飲めなくなるのは残念ですが、ご家族をお大事に」
「……ああ」
ぺこりとマスターは頭を下げて、クローズが掲げられた店の中へと入って行った。
バーは、綺麗に掃除され、椅子もあげられていた。店じまい、もしかしたらもう戻ってくることはないかもしれない。そう思い、マスターは店舗の契約を終了させてきた。三ヵ月以内に戻らなければ、継続はない。
荷物はほとんどなく、ここへ来た時と同じ程度の荷物を背負った。
最後に、常に傍らに置いて眺めていた写真立てを手に取った。
それは二十年以上前に撮られた写真。
当時、まだ地方騎士でしかなかった年若いイヴァースと退役しギルドのマスターとなったが同じく地方騎士だったジオ。二人よりもさらに若い、見習い騎士だったジュリアス。ジュリアスに絡まれてうっとうしそうにしている黒髪の美少年は……海賊になる前、探偵業をしていた頃の司教レヴィオス。彼の隣で静かに微笑んでいるのは、アルベナの美少女セラ。
そして、さらにその隣にいる少年は。
「…………」
リフィーノの姓を与え、血の繋がらない親子になったその少年は、大人しそうな見た目からは想像もできないほど攻撃的で不安定だった。それでも人であろうと努力し、もがいた……きっと死の直前まで。
息子が、シリウスが死ぬ前、一度だけ遠くから彼とその娘となった少女を見たことがあった。
その光景は紛れもなく家族であったと、はっきりと言える。リフィーノの性、いつかくる断絶。姓は継がれても、我々はずっとは共にいられない。次代に血をつなげることができない者達、我々は因果のごとく家族との縁を奪われるもの。
それでも、リフィーノは継がれ、一時の家族の安らぎを覚え……また次へその姓を渡していくだろう。
いつかは終わると知っていても、その姓の温かさが必要な人間はいつの時代も現れるのだ。
マスターは写真を荷物の中にしまい、少しだけ名残惜し気に店を後にした。
繁華街の喧騒を抜け、商店街を進む。夕闇の中、孫娘が立ち上げたギルドの入った建物を見上げた。明かりはない、話が本当ならば彼女達は長い間ギルドを空けなくてはいけないだろう。一階の雑貨屋夫婦が、深刻な顔でなにやら話し合っていた。
賃貸がどうの、荷物の処分どうのと聞こえる。おそらく、彼女達はギルドの部屋のもしものときの後始末を雑貨屋夫婦に任せたのだろう。
さらに歩き進めれば、人通りはまばらになり住宅街を抜ければ人の気配すらもほとんどなくなる。王都への出入り口である門に詰めている騎士だけが遠くに感じられた。
「……グウェン殿」
静かに、そして低い声で名を呼ばれ振り返った。
「懐かしい名だ。久しぶりに聞いたせいで、反応が鈍くなってしまったな」
白ひげのマスター、グウェン・リフィーノは声をかけた人物に気がついて息を吐いた。門の近く、馬車の乗り合い所として使われている小さな小屋の手前で厳つい顔の男が待っていた。
「イヴァース、騎士の鎧を着ていないな……」
王宮騎士副団長イヴァース・テイラー。グウェンの旧知であり、現在もたまに店に来る男だ。
「話はつけてきました。副団長代理もジュリアスが務めます」
「……そうか」
グウェンは頭をふったが、拒絶しなかった。互いの気持ちはなんとなく察せられる。イヴァースにとっても今回のことは現在の身分を投げ捨ててでも自ら出向く必要があると考えたのだろう。
止める義理はない。
「グウェン殿、やはり目的地は……」
「帝国だ」
迷いない返答にイヴァースは頷いた。
「黄金の星姫の情報でも、その可能性は高いとのことでしたが」
「教会から逃れるなら帝国しかない。だが……帝国はあの子にとってそれほど優しいものではない」
「……グウェン殿」
門を出た二人は、馬車を買い、手綱を握って帝国へと出発した。荒い操縦だが、馬上で何日も戦場をかけた経験のある二人にとって、これは苦行でもなんでもない。
「王国では、ただ遠くから見守ることくらいしかできることはなかった。それ以上、関わるものでもないと思っていたが……帝国で祖父ヅラしても多少は許されるだろう、今更でも」
二人の間に沈黙が続く。
遠い過去に置き去りにしてきた、それでも大事なその思い出は色褪せても覚えている。
グウェンの手綱を握る力が増す。
「……どれほど手がかかろうと、人間でなかろうと……シリウスは大事な息子だった。あれを人の親にしたのがあの子ならば、どれほど罵られようが私は、行く」
「大丈夫ですよ、あの子は……真っすぐに人を見る子ですから。あいつほど面倒じゃない」
苦虫をかみつぶしたような顔で言うイヴァースに、ちらりとグウェンは視線を送った。
「そうか? 私は、よく似ていると思うが」
「ぜんっぜん似てませんよ。似てるとか思いたくないです、やはりシアはシリウスの娘以外の何者でもないです」
「……お前は本当に、昔からあれが苦手だな」
「苦手? そんな生易しいものではありません! 今回のことだってそうだ、あいつは昔っからああです。自分で勝手に決めて勝手に行動する。こっちの苦労も知らないで! なまじ一人でなんでもできやがるから」
隣の熱量が一気に増す。
グウェンは静かに息を吐いて、暗い空を見上げた。
(三十年前……お前は、傷だらけのシリウスを抱えて私の元へ転がり込んできた。必死な形相で、帝国兵だった私に剣を向け、弟を守ろうと)
いつだって、あれは大事なものを守る。
どれだけ自分が傷つこうが、まったく己を顧みることがない。
誰よりも強く、頑固で、優しい。
(私だけが知っている……お前の本当の名と正体を。背負うものが大きすぎる、ゆえに誰もお前を理解できないだろう)
「ひとつだけ、確かなのは」
「グウェン殿……?」
今夜、星は見えない。
暗い旅のはじまり、それでも迷うことはなかった。
「レヴィオス・ガードナーという男は、自分の命が一番軽い」
その言葉にイヴァースは、忌々し気に座席を殴った。