*37 逃亡!!
「みんな!」
「シア!」
「おねーさん!」
「マスター!」
「お姉様!」
メグミさんの世界から出された直後、みんなの気配はすぐ近くにあった。なぜここに? という疑問などは後だ。タイミングが良いことにこしたことはない。
四人の仲間達が私の顔を見て安堵した表情を浮かべる中、私は必死の形相を浮かべた。
「逃亡!!」
全力で走れジェスチャーしながら、ぽかんとしてしまった仲間の背を叩く。説明している時間などない。教皇はすぐそこにいるし、メグミさんの体はまだ彼女に操られている。中身が私達の逃亡を手助けしてくれても肉体がそうさせてくれるわけではないのだ。
今がとんでもなくまずい状況であることは理解できたのか、一瞬体が固まった四人だったがすぐさま私が向かう方向へと走り出してくれた。
「シア? シア、どうしたの!? なぜ、私を見ないの? はじまりの聖女の光に浄化されれば、白き正しい聖女になれるはず――」
教皇が困惑の様子を見せたことも、私達が逃げの態勢を整える時間に繋がった。教皇としても私の行動は予想外だったらしい。たぶん私もメグミさんのことがなければ、メグミさんの骸と戦い、ベルナール様救出のためにギリギリまでねばって光明を見出そうとしただろう。
そのままいれば、教皇の狙い通り私は女神の光に焼き焦がされて都合のいい聖女になっていたかもしれない。
ゾッとする。
負けとか、かなわないとか、認めるのは難しい。ここで単に逃亡すれば、ベルナール様の救出はさらに困難になり、手遅れになる可能性がぐっと高まる。子爵の依頼も達成できず、私は……身近な人を失うことになるのだ。
また、失うの?
なんで私は、いつも失いたくないものを失っていくのだろうか。
今度こそ、今度こそと思いながら。
たくさん努力して、手を握りしめても、冷たくなっていく。
脳裏に浮かぶのは、シリウスさんの最期。
あのときは無力な子供だった。なにも知らされず、なにもできず……無謀なことをしてメアとセリを失った。
今はあのときより力はある。仲間もいる。
それでも、それでも……私は失う。
リゼの手が温かい。足の遅いリーナはレオルドが抱え、私はリゼの手を引いて走っていた。失いたくないものに順位をつけなくちゃいけない瞬間。
逃げるという選択。
選べない選択肢。
吐きそうなくらい自分の無力さが気持ち悪い。
唇を噛んで、血が出そうになって……。
「シア!」
背中を強く叩かれた。
「終わってない! まだ、なんにも終わってない!」
短い言葉だった。それでもルークがなにに対して言っているのかはわかった。
そうだ、まだなにも終わっていない。絶望するには早すぎる。あまりにも青い顔をしていたのだろうか、空いていた私の右手はルークに握られて、引っ張られた。
ギルド大会のときも思ったが、彼は他人の気持ちに寄り添うのが上手い。無意識かもしれないが、それが彼に対する安心と心地の良さを感じる一因だろう。
「ああ、ダメよシア! せっかくここまで整えたのに! また、またはじめからなんて。そんなことをしていたら間に合わない。世界は悪魔に穢されてしまう。世界は、この世界は滅んではいけない! 恒久の平和を、多くの人々が泣くことのない安寧を」
多くの人が泣かなければ、誰か一人が泣いてもいいのだろうか。
「笑いあいましょう! 隣人と、たわいない話をして幸せに眠るの。そんな当たり前な日々を守らなければいけないのよ!」
幸せな隣人達のために、その足元で屍になっている者がいてもいいのだろうか。
幸せを甘受するのは罪ではない。
犠牲が見えなければ、その笑顔に曇りはない。
知ってしまうから苦しくて、見えてしまったから罪悪感を感じる。見え方の差でしかない。
答えはきっと永遠にでない。
「シア、とりあえずどこへ走ればいいんだ!?」
「逃亡ってことは、聖教会から出るのか!?」
「たぶんっ」
ルークとレオルドに矢継ぎ早に聞かれたが、ルートは知らない。この秘密の地下墓地がどういう構造なのかもまったくわからないのだから。メグミさんの道は開くという言葉を信じるしかない。
『せ――いや、シア! 聞こえるか!?』
え!? こ、この声は!?
「カピバラ様!?」
もはや懐かしい気さえする、少年のような声音の聖獣カピバラ様の声が頭に響いてきた。カピバラ様が私のことを名前で呼ぶことはたまにあったが、多くは聖女と呼称されていた。だが聖女という単語を飲み込んで言い直した。
『俺様もよくわからないが、ようやくお前に通じた! 色々と聞きたいことはあるが、とりあえず精霊の道を開いてやるから脱出しろ!』
もしや、これが開かれる道か!?
まさか精霊の道を通ることになるとは思わなかった。前は魂の状態で渡ったけど、肉体ある身で大丈夫だろうか? まあ、そこから脱出しろというのだからなんとかなるんだろう。
「みんな、カピバラ様が手助けしてくれる! 精霊の道から脱出するわよ!」
目の前に柔らかな光が現れた。それは女神や教皇のもたらずものとは違った雰囲気を感じる。安心感のある光だ。あそこにさえ飛び込めれば――!
だが、そう簡単にはいかなかった。鮮烈な光の槍が行く手を阻み、私達は足を止めざるをえなかった。
「くっ!」
もう少しなのに。
「シア、お願い行かないで。あなたが白き聖女になれれば、正当な勇者と共に世界を救えるの。この先も、もっと先も……」
教皇からはすでに余裕の笑顔は消えていた。よほど私がここから逃げて到達する場所がお気に召さないらしい。
「大切にするから。私はあなたのお母さんで……お父さんも傍に……」
教皇の現在の体が、自分の産みの母親だということは衝撃的で、正直にいえばかなりショックだった。でもなんだろう、母親という存在が遠すぎるせいだろうかピンとはきてなくて、まるで的外れな懇願に聞こえた。
あまりにも冷ややかな視線になっていたのかもしれない。私の顔を見て教皇の顔は急激に歪んだ。
「もういい! なんて役に立たない娘なの! 体をよこしなさいっ、お前が使うよりも有益に使ってあげるから!」
仮面がはがれた感情むき出しのその顔は、なによりも教皇の本性をあらわしていた。穏やかな微笑みからはまったく意図が読めなくて不気味なだけの女だったが、その顔を見ればなにを考えているのか手に取るようにわかった。
滑稽にもみえる教皇だが、それでも私達では勝てない。勝つ方法、手段がない。なんとかしてここを切り抜け精霊の道に飛び込まなくては――。
「契約を行使する! この者達を全員殺しなさい!」
教皇の命が響き渡った瞬間、私は背筋に走った悪寒で咄嗟に反応し盾を展開していた。そこを抉るように刃が閃く。
何者かの攻撃。
一瞬、脳裏にカーネリアさんの姿がうつった。メグミさんが言っていた厄介な妨害者とは彼女のことだろうか。今までのことから可能性として一番に彼女を思い浮かべたのだ。
だが……。
「……やっぱりこうなるか」
「し、司教……様?」
口が渇く。カラカラと。
予想外と言えば予想外で。でも、ここにいてもおかしくはない人だった。
「レヴィオス、お前なら容易いでしょう。シアは、心臓だけを狙ってください。体は綺麗に残して」
教皇様の残酷な命令に司教様は是とも否とも言わなかった。だが、その手には黒い剣が握られ、殺気はこちらに向けられている。司教様と手合わせのような戦いはしたことがあった。そのときもそれなりの殺気は感じていた。殺されるかもしれないくらい、あの人はいつも怖い威圧感がある。だが、それとも今は違っていた。
その殺気になんの意思も感じない。
鍛えてやろう、とか。
叩き出してやろう、とか。
いつもどこかにその殺気の理由が彼にはあった。でも今はまったくない。ただ、私達を『殺さなくてはならない』という目的だけがある。教皇からの命令を遂行するという目的だけが。
「じょ、冗談ですよね!?」
冷たい目は、まるで知らない人のようだ。教皇を欺くための演技……にも見えなかった。
「本気……みたいですね」
「残念ながらな。契約は履行され、俺はそれを破棄できない」
司教様が教皇となんらかの契約を行ったという話は聞いた。その中身がなんなのかは教えてくれなかった。結果的に司教様が教皇の命令を聞くということは、そういう内容が含まれているのだろう。
冷や汗が止まらない。
心臓がうるさい。
メグミさんが言っていた教皇より強いと言っていたのはきっと司教様のことだったのだ。絶対的な敗北がすぐそこにあった。司教様は強すぎる。騎士団が束になっても勝てるかどうか想像すらできないくらいだ。彼と渡り合った経験があるのはイヴァース副団長だが、彼ですら司教様とタイマンするのは命がいくつあっても足りないとぼやいていたほどなのだ。
「武器をとれ、一秒でも長生きしたいならな」
反射的にルークは剣を抜き、リゼは身構え、レオルドとリーナは魔法を発動させた。敵が司教様だという頭が追い付く前に命を守る選択を体がした。
だが瞬きの間に。
「ぐあっ!」
ルークが乱暴に吹っ飛ばされ。
「にゅっ」
「きゃあ!」
「くそっ」
リーナとリゼを守ったレオルドごと、三人が後方に弾かれた。
瞬きの、一瞬で。
仲間達は全員、司教レヴィオスの剣の一振りで倒れた。立っているのはすでに私だけになった。
圧倒的すぎて声がでない。
一秒だって生き残ることが至難の業のように感じる。
「お前を終わらせてから、他の連中を送ってやる。仲間の死を見るのはつらいだろう。せめて、お前も苦しまないよう一突きで」
声に抑揚がなくて、この言葉を言っているのがあの司教様とは思えなかった。
偽物?
いや、本物だ……まぎれもなく。
歯がカチカチ鳴った。死への恐怖が全身をどうしようもなく震えさせる。
同時に、どうして? と疑問ばかりが胸中を支配していた。
思い出すのははじめて顔を合わせた日のこと。怖くて、怖くてしかたがなかったのに、どこか親しみが感じられていた。司教様が養父なんて死んでも嫌だと思っているけど、だからといって嫌いかといったらそうじゃなくて。シリウスさんの兄として、伯父のように親しく思っていて。
だからこそ、この状況が受け入れられなくて。
私は、視界が歪むほどに泣いていた。




