*36 前の世界は捨ててきた
俗にいう精神世界、といった風の空間にいた。
教皇の秘密の地下墓地ではない、ぬくもりが感じられる質素な部屋。物は少ないが、写真立てが飾られ、綺麗な花もいけられていた。
「こんにちは、シアちゃん」
なにか一枚隔てたような声じゃない。直接、耳に届いた声。何度か聞いてはいるけれど、聞きなれはしていなくて、それでも胸の芯からじんわりと温かくなるような心地。
私の視線の先には、朗らかな笑顔を浮かべる黒髪の少女がいた。
「メグミ……さん?」
「うん!」
彼女は名を呼ぶと、とても嬉しそうに返事をした。年相応、きっと私よりも年下だ。若くしてこの異世界へやってきて、過酷な使命を運命づけられた。強制的に。そして彼女は使命を全うし、教皇の言う『美しい終わり』を迎えるために散っていった。
「あなたは……」
どうして、とか色々と聞きたいことはあった。だが、うまいこと言葉にならない。私は彼女になにが聞きたかっただろうか?
彼女の兄であるアオバさんのこと? それとも贄を知っていて使命を全うしたこと? 今の状況のこと?
ぐるぐる巡る。
「時間はあるよ。ここは時があってない場所だから。私だけの特別な場所で、あなたのいる世界の神でも干渉できない。なにかできるとしたら、私をここへ誘った異世界の神だけ」
いつの間にか私達の間にはテーブルがあって、見たことのない食べ物が並べられていた。その席に素直に座る。
「日本のスナック菓子。前にいたときは自由に食べられなかったけど、こういう世界ならなんでもありみたい。不思議、死んでからの方が自由みたい」
彼女はニコニコしているが、言っていることはなかなか重い。メグミさんのことはよく知らないが、カピバラ様から話を聞いたところでは、アオバさんとメグミさんはあまり仲が良くないということ。家族全体の仲もあまりよくなかったらしい。
「異世界に来て、こんなことになって……あなたは辛くなかったんですか?」
注がれたシュワシュワとはじけるジュースを飲んだ。なかなか喉に刺さる飲み物で若干咽る。炭酸飲料のようだが、お酒に混ぜるものより刺激が強い。色も黒いし、彼女にすすめられなければ口にすることはないような見た目だ。
「もちろんすごく大変だったよ。結局最後は死んじゃったしね。……お兄ちゃんとも仲直りできなかった」
スナック菓子を一つまみ持ち上げて、寂しそうに言う。
「最初はあんまり喧嘩しない仲だったんだ。お父さんとお母さん、いつもイライラしてて、些細なことで喧嘩してたから、私達まで喧嘩したらお家、大変なことになるでしょう? お仕事と喧嘩に時間をとられて疲れて、まともにご飯って用意してもらえなかったから小さい頃はお兄ちゃんがこっそり棚からお菓子を持ってきて二人で食べてたなぁ」
思い出のスナック菓子だったのだろう、懐かしそうに彼女は頬張った。
「そのあと両親は離婚して、私とお兄ちゃんは別々に引き取られた。連絡はとってたけど、会って話すってことはなかなかなくて、年に一回二回くらい。会うたびにお兄ちゃんはよそよそしくなっていって、中学にあがるころには、その少ない機会もすっぽかすようになっちゃった」
拗ねた口調ではあったが、怒っているわけではない。どうしてこうなっちゃったのかな、と寂しい思いが募っている様子だ。
「引き取ってくれたお母さんともうまくいかなくって、踏んだり蹴ったりだよ。多感な中学生……えっと、十四歳くらいの学生ってことね……が、抱えるにはなかなかヘビー。あーー!! って突然爆発しちゃって突発的に学校の屋上のぼってた。そっから落ちてこの世界からさよならしたくて」
「え!?」
「まあ、落ちなかったけど。落ちようとしたら、どこかから声が聞こえたの。この世界を去りたいなら連れて行ってあげようって」
なんだそれは。
新手の人さらいか?
「なにもかも嫌になってた私は、『こんなサイテーな世界からさよならできるなら、どこへでも行く!』って安易に答えちゃったよ。それがこの結果」
ひらひらと両手を広げて見せた。彼女の姿は淡く透けている。死人の姿。
「ファンタジーな異世界に来て、すごい力を貰って、聖女様なんてもてはやされて。すごい! 小説か漫画みたい! なんて最初ははしゃいでたなぁ。バカだよね、私なんて扱いやすい贄の一人ってだけだったのに。物語の主人公かヒロインになった気分で、魔物なんて楽に蹴散らせたし、仲間も優しかった……」
少し、思い出したことがある。
この世界、とりわけラディス王国には異世界からの来訪者が多い。そういう土地柄で昔からたまに迷い人が現れた。そういう人間は特別な力を持っていることが多く、特別な役職に就くことも多い。彼らに共通するのは、そのほとんどが元の世界に帰りたがらないということ。
『前の世界は捨ててきた』
多くの異世界人は、そう言うらしい。
前の世界は『クズ』で『サイテー』で……自分の居場所がない。
彼らはそれぞれ新たな人生をこの世界、この大陸で過ごしていく。特有のチートと呼ばれる能力を使い、それぞれに。
彼らに声をかけたのは、一体誰だったのだろう?
誰が、彼らをここへ導き、能力を与えたのだろう?
「現実は夢もロマンもない。小説は小説、漫画は漫画。一瞬、夢は見れたけど最後に待つのはハッピーエンドなんかじゃなかった。お兄ちゃんも……同じ」
炭酸の気泡が消えていく。
飲み食いしたい気分ではない。
「たぶん、都合のいい贄を作るよりもそうなりやすい人間を連れてきた方が楽だったんだよね。自暴自棄の人間を連れて来るなんてとても簡単だもの。聖女の本当の意味に気がついて私は絶望した。結局どこへ行っても私の居場所はなくて、自由に暮らせる世界なんてなかった。世界のために死ぬなんて、簡単にできない。私だって意地の悪い人間だよ! 死にたくないっ。死にたくなんてなかった! でも死ぬしかなかった! 自業自得だものっ、生まれた世界から逃げ出したいって願ったんだから」
悲痛な叫びがこだまする。
死にたくない。世界のためなんかに死にたくない。
そう繰り返す彼女は、理想の聖女の姿なんかじゃなかった。生にしがみついて、みっともなく泣きわめいているただの女の子だった。
「……私は、『美しく』死ぬしかなかった。誰もが思い描く理想の聖女の顔をしながら、みんなにお別れを言う。それが最期の仕事だった。女神のシステムを受け入れたとかそんなんじゃない。私は、みんなの記憶に理想の聖女としての自分を残しておいて欲しかった。本当の私なんて汚い人間の一人なんだから……聖女とうたわれた日から、私を見る周囲の目は理想を描いていた。私はみんなの理想で終わらなくてはいけなかった。それこそ自業自得。今度こそ、愛されたいと願ったわがままが生んだ結末」
「そうですか……なんかほっとしました」
「ふふ、そうだろうね。シアちゃんは、私よりもうちょっとダークサイドっぽいもん」
「悪かったですねぇ、ダークサイドで」
育ちが悪いもんで。
「でも私もそっちの方が好き。真っ白過ぎる人は緊張するから。でも嘘ってすぐバレるんだよね。お兄ちゃんにはお見通しだったのか、一緒に召喚されてきたお兄ちゃん、聖女だってもてはやされてうぬぼれてた私に嫌気がさしてずっと別行動してたのに、死に際に現れて私を見て悪態ついていなくなるんだもんね。あれじゃ、ただ死に際の妹に酷いこと言った兄としか見られないよ」
クスクスとメグミさんは笑った。
「昔っからそう。前は分からなかったけど、お兄ちゃんが年に数回しかない会う機会をすっぽかしたのも、私とお母さんのためだったし……。死に際についた悪態も、私を現実に引き戻して強い意思を残す結果に繋がった。お兄ちゃんがずっと導いてくれた、ここまで」
手を出して。
メグミさんに言われて、私は右手を前に出した。
「お兄ちゃんもわかってた。もう、どうにもできないって。私は死ぬしかない。それはいい、女神のいいように使われたのはこっち。でもだからといって、死人に口なし、反抗もなしに天に召されてなんてやらない。だから私はここへ、そしてお兄ちゃんは……帝国をつくった」
「は!? 帝国!?」
急に飛び出た言葉に、驚きを隠せない。アオバさんは賢者と呼ばれるほど強い力を持った異世界人だ。それくらいは知っている。だけど、帝国を建国した人とは情報がない。帝国自体、情報規制がしかれているし、その本質は他国では知るよしもないのだが。
「帝国は異世界人の国。女神に反抗し、贄から逃れるために築き上げた場所なの。いつか、女神に逆らう勇者、または聖女が現れるかもしれない。そんなとき力になるため、女神に一矢報いるために。シアちゃん、あなたがそのとき……あなたに私のチート能力を譲り渡す。この力は異界の神の力で、女神とはなんの関係もない。異界の神同士は共通点も協力関係もない。私をこの世界へ飛ばした神はただ転移させるというノルマをこなすだけの神だったから、女神にいいようにされることもないの。お願い、シアちゃん……この力をもらってちょうだい」
なんの力かわからないが、握られた手からは温かな力を感じた。これは癒しの力? だが、女神の力は感じられない。聖女の癒しの力とは別物のようだ。
「あなたは努力してきた。聖女の力に頼らなくてもあなはたすでに強い聖魔法を扱える。だからこの能力も使いこなせるはず。それにあなたはあの人の――」
世界が歪んだ。
彼女の言葉が途中で遮られ聞こえない。
「え?」
「…………シアちゃん、あなた達だけではまだ教皇すら倒せないと思う。かぴちゃんも聖獣である以上、女神に行動が制限される。どれだけあなたの仲間が強くなったといっても、教皇は強い。まだまだ力が必要。それにここには教皇だけじゃなくて、もっと強い妨害者がいる」
「妨害者?」
「この世界から出たら、すぐに仲間と共に逃げて。道は開くから! 私の力が譲り渡されれば、必ずお兄ちゃんも気づく」
メグミさんの力が私の中に流れ込んだ。
彼女は決死の覚悟でここに残り、私を待っていた。この力を渡して、先へ進むために。転んでもただじゃ起きない精神は私も好きである。
「でも逃げるにしても、ベルナール様は――」
そもそも彼をなんとかするためにここまで来たというのに、顔すら一度も見ていないのだ。今の状況で彼を救い出すことは不可能だとわかってはいた。だが、口に出さずにはいられなかった。
彼女はその問いには答えなかった。答えられなかったのか、あえて答えなかったのかはわからないが、強い瞳で私を見ていた。
背中が押され、私は現実に戻る気配を感じた。
現実に戻ったら、一目散に逃げなくてはならない。尻尾を巻いて。悔しいが、今はまだ対峙できるときでもなかった。道は開くと言われたが、一体どこへの道なのか。
大陸のほとんどに息がかかっている聖教会から逃れられる場所は――。
ひとつの可能性を思い浮かべながら、私は全力で仲間の気配を探った。




