*35 手作りの優しさ
「あらあら、お顔が真っ青よシア」
教皇は相変わらずニコニコしている。人間の感情がわからないのだろうか。女神そのものではないようだが、一部を宿していることで人間としてなにか不自然なのかもしれない。
……そういえば、前にカピバラ様の過去をのぞいたときに女神と思わしき人物を見た。あのときも、カピバラ様への言動に微塵の理解も感じられなかったのだ。
カピバラ様、そういえばずっと彼の声を聞いていない。呼んでいないから意識が通わないだけだろうか? それともやはり女神につくられた聖獣として今回の件には手出しができないのか。
「わ、私は……」
あまりの動揺に声がかすれる。
気持ちは決まっている。だが、言葉にするのがこんなにも重い。私は自分が何者なのか、どんな親から生まれて、どんな土地で育って、そして……捨てられたのか。気になったことがないなんて、そんなことはない。子供のころはずっと頭の片隅で考えていた。劣悪な環境だった孤児院だからか、自分を捨てたであろう親を恨んでもいた。でも年齢を重ねていくうちに、どんどん知ることが怖くなった。知らない方がいいんじゃないかと思うようになった。
……恐怖が勝った。
それからはずっと、知らなくてもいいと目をそらし続けてきたのだ。
ほらみろ、案の定だったじゃないか。
失った過去なんて、ロクなもんじゃない。
少しだけ期待してた。
もしかしたら私には優しい両親がいて、やむを得ず手放さなくてはいけなかっただけだったんだって。探し出せたら、笑顔で迎えてくれるかもしれないって。
そんな苦笑いしか出ないような淡い希望も消え去った。
どんな事情があったにせよ、実の母親は死亡し、その肉体をのっとられた。父親はわからないが、教皇の話では覚醒者であるらしい。私が覚醒者である以上、親のどちらかが異世界人の血を引いているはずだから父親が覚醒者でもおかしな話じゃない。
「あなたの望む聖女になんてならない! 贄のことを知って従えるわけないじゃない!」
このまま彼女の言葉を受け入れるなら、それは自己犠牲だ。私は世界のために、死が確定している使命を全うなんてできない。乗り越えられると、そういう希望があるならば仲間と共に挑むだろう。単純な話、最初はそうだったのだ。『あの』勇者なら、自滅するだろう。そして次の勇者が選ばれるだろう。それはもしかしたらルークかもしれない。新たな勇者の力となり、聖女に選ばれた責任を果たそう。
そういう話だったじゃないか。
「ふふふ、シアは本当に悪い子ね。あの男の血かしら? 忌々しい。聖女は白くとても優しい子。どの代もその光をいかんなく発揮してくれた。その中でも……そう、はじまりの聖女は『贄』のことを知ってもなお、世界のために尽くしてくれたわ」
はじまりの聖女……それは、メグミさんのこと?
「彼女ははじまりにして最愛の聖女。女神にも大切にされた世界のシステムを確立さた立役者。だから今も彼女の棺は一番大事に保管しているわ。強力な力を持っているけれど、一度も着替えたことがない体なの。一度使用してしまうと劣化が激しくなるから」
空間を漂っていた棺の一つがゆっくりと目の前に降りてきた。
白い棺。花の絵が刻まれた美しい棺だった。
「そうだわ、シア。はじまりの聖女に会ってみない? ええ、ええ、それがいいわ! 彼女と対面すれば、いくら悪い子でも聖女のなんたるかがわかるでしょう」
「!」
棺がゆっくりと開かれる。
恐ろしい予感に身が自然と竦んだ。カピバラ様の記憶から彼女の顔は知っている。穏やかで優し気な少女だった。でも、会うのは怖い。もう死体だからとかそういう意味じゃない。私は『聖女』と呼ばれた光と出会うのが怖かった。
身を固くしながら、どうしようもなく棺が開かれる瞬間を待つ。
棺の中には、記憶の通りの少女が眠っていた。あのときのまま、ただ寝ているだけのような安らかな顔で。生きているかのような錯覚に陥りそうになる。それほどまでに保存状態は完璧だった。
「おはよう、メグミ。さあ、ご挨拶を。そして出来の悪い後輩に指導をお願いね」
教皇の呪文のような言葉に反応し、はじまりの聖女……メグミさんは目を開いた。黒い髪に、平凡だけれど愛嬌のある顔。瞳は私と同じこげ茶。記憶のままの彼女。しかし、穏やかに微笑んでいた瞳には光が宿っていなかった。そこだけが違いで、生と死の分かれ目。
棺からふわりとメグミさんは地に足をつけて着地した。感情は読み取れない。そもそも、もう失っているのだろう。命があるとは思えないから。
私は咄嗟に杖をかまえた。手が震える。まさかこんな形でメグミさんと相対することになるとは夢にも思っていなかった。
「……たい」
「え?」
緊張の中で、小さな声が耳をかすめた。
「……たい。――り、たい」
その囁くようなか細い声は、メグミさんの口から発せられていた。
「まもりたい。まもりたい。まもりたい」
繰り返す言葉。感情も、魂も、自分というものを失った状態でもその言葉からは温かみを感じた。生前、彼女は本当にそう思っていたのだろう。彼女は守りたいもののために、必死だった……。カピバラ様と話していたときだってそうだった。
彼女こそが、本物の聖女。
はは……そうだね。クレフトが言った『偽物の聖女』はあながち間違いじゃなかった。
とんだ手違いだ。
メグミさんの手に聖女の杖が握られる。私とほとんど同じ、杖。だけど彼女が握ると本当に様になる。彼女のために作られた杖なんだと理解できる。
「――っく!」
メグミさんは瞬時に強化魔法を自身にかけ、杖を振って私に攻撃を仕掛けた。咄嗟の反応はこちらも鍛えているから、ほぼ無意識で防御魔法をかけて応戦した。
ガッと重い音が鳴る。
華奢な女、二人が杖でやりあっている音だとは思えないような響きだ。
「メグミ、さんっ!」
振り絞るように声をかけたが、彼女からの反応はない。体を教皇に操られているだけなのだろう。
趣味が悪いっ!!
思わず悪態がでてしまう。こんなのたとえただの死体だとしても殴りつけるにはかなり覚悟がいる。女子を殴るのだって抵抗があるのに、カピバラ様の記憶を見てしまったことでさらにやりづらい。
「まもりたい。まもりたい。まもりたい」
彼女の切なる言葉が、胸を痛ませる。魂はなくとも、体に染みつき残っている感情なのだろうか? メグミさんはなにを思って、世界のためなんていう酷い自己犠牲を選んだの? 聖女に選ばれるほどにまっさらで優しい人だったから?
ねぇ、本当に?
それだけで、そんなことができてしまう人間がいる?
わからない。
わからない。
わからない。
『そうだねぇ、はっきり言ってしまえば私もわからないんだよ』
遠くから声が聞こえた。
懐かしい声。
嗚呼、そうだ……この声はシリウスさんだ。私が彼の養子になって少しして、ふとしたことがきっかけでこんな質問をした。
『優しさがわからないんです。私、いつも人の顔を見て感情を読み取って、望んでいるであろう正解の行動をしています。だから優しい子って言われます。でも私はそうは思いません。シリウスさん、教えてください。優しいってなんですか?』
この質問はシリウスさんを大変困らせた。今にして思えば、シリウスさんは人間ですらなく、人間とはかけはなれた生命体であったアルベナだ。だからシリウスさんは悩んだ末にこう答えた。
『優しいは色んな人を手本にして、私はマネっこしたんだ。シアとあまりかわらないね。時間をかけて観察して、研究して、それっぽくしてみせた。私のはいわゆる手作りの優しさだ』
『手作り……』
『そう。人にあってしかるべきものではあるけど、生まれや環境、性質によって優しさは色々と形を変えたり、大きかったり小さかったりする。だから基準がどこにあるか、ずっと探しているけれど見つからなかったな』
シリウスさんは苦笑していた。自分が人間でないことを暗示していたのだろう。
『優しさを持つことに不器用なタイプがいる。私やシアもそうかもね。だからちゃんとしたことは言えないけど、そうだなぁ。自分で納得できる優しさ、というものを自分でいつまでたっても得られないなら……無理して得る必要はないと思う。でも一つだけ覚えていて欲しい。もしもいつか、君が優しいと思える人と出会い、優しいと思えることがあったのなら』
自分の持ちうるすべてのもので、同じように返すといい。だって鏡のようにそれと同じものを返せたら、それは紛れもなく優しいということなんだから。
私はその言葉に頷いていた。いまだに自分の中に優しさがあるかどうかわからない。その言葉の通りに、してきただけだから。でもいつの間にかそこに自分の感情が芽生えていたと思う。
ルークに対して、リーナに対して、レオルドに対して、リーゼロッテに対して。
ベルナール様のときだって。
私は繰り出されてきたメグミさんの杖を素手で掴んだ。
「!!」
光の奔流、聖なる力が激しく渦巻いている。だから素手で掴んだら、なんらかのダメージがくると予想していた。だけどまったくの逆だ。
メグミさんの力を感じる!
それと、なんでか回復してる!?
体に残った魔力の残滓か。それだけでも読み取れるものはある。
なんとなくメグミさんに対して苦手意識みたいな、正面から目を合わせられないような気まずさのようなものがあって、怖いと感じていた。だけど彼女の杖を勇気をもって握ってみれば、そんなことはない。
『…………シア』
声が、聞こえる。
『シア、シア……お願い、私の声を……』
記憶の中で聞いた、あの優しい声音が私を包む。
どうしてか、胸が痛くて、苦しくて……温かくて。
涙がひとつぶ、頬を伝って零れていった。