*30 人間にならないで(sideベルナール)
――気持ちが悪い。
ここに来たときから、ずっと。
胸の奥がざわつく。
なにかが、俺の横を恐れるように過ぎ去っていく。俺には見えざるものを見る力は元々ない。感じることもなかった。だが今は……。
震える影が見える。
可哀そうに、迷い込んだのだろうか。こんな場所に。弱く儚い闇など、この地の鮮烈な光に焼き焦がされる。光にのまれた先にはなにもない。
――無だ。
一切の無だ。
己がなにものかも思い出せない。
そこにいるだけの無になり果てる。ガリオン大聖堂に彷徨う者は、そうやって無に堕ちた聖者だ。穢れのひとつもそぎ落とされた。
無。
無垢じゃない。
無。
震える影に、一つの影が現れた。
今にも光に焼かれそうになっている儚い影にその影はそっと寄り添った。儚い影は泣いたように思えた。
『――おかあさん、おかあさん』
母親にすがる子供のように。
女性の形になったその影は、儚い影をあやした。そして深く抱きしめると、儚い影はその影にのみこまれていった。母の腕に抱かれるように。
影はこちらを振り返った。
『……私が……見える?』
俺は答えなかった。しかし、視線がその答えを物語る。
この孤独な塔に押し込められてから……いや、本当はもう少し前から『影』の存在を感じとっていた。
『人形でしかないあなたが、私を入れる器でしかなかったあなたが……感慨深いものです』
ゆっくりと影の形が揺らぐ。崩れるわけではない、さらにはっきりとこの目にうつりはじめたのだ。黒いシルエットは、長い白髪に青白いほどまでの白い肌、血のように濡れた両目、美しい女性の姿へと変貌した。
「……アルベナ」
『そう、私はアルベナ。あなたの中のアルベナ』
わかっていた。
ずっとただの言い伝え、おとぎ話のように聞いていた血の話。俺はずっと、その血が本物だとしても兄上に受け継がれているものと思っていた。
だが、家系図を見て気がついてしまった。
書き直された、その前の本当の家系図の真実。
「俺は……いや、≪本物のベルナール≫は、とっくの昔に死んでいるんだな」
アルベナは、憂いを帯びた瞳を隠すように目を伏せた。
「……俺は、誰だ?」
『…………』
答えはもうでている。
なんども言われた。周囲の人々は冗談交じりに言っていただろう。ただの陰口だと思っていただろう。だが、誰もが真実を口にしていたのだ。
「お人形。人間そっくりに作られた、お人形。クレメンテの理想そのものの美しいお人形。物言わぬお人形」
『……ベルナール』
「違う。それは俺の名ではない。俺は≪何≫? 誰がなんの目的で≪人形≫を作った?」
アルベナは答えない。
「器、そうだ器。クレメンテにはアルベナを封じておくための器がベルナールが死んだことで失われてしまった。兄上は、アルベナを封じておくにはなにかしらの弊害があった。いつか継げる器が現れるまで一時しのぎで人形は作られた……?」
『……ベルナール』
「だが、継げるはずだった弟は壊れてしまった。俺が人形のくせに壊してしまった! 壊れるのは人形の方だったのに!」
『――ベルナール!』
気が狂いそうだ。
まともな正体だとは思っていなかった。自分がおかしいとは理解していた。それがずっとなんなのかわからなくて、兄上を模倣して人間の振りをしていた。
真実は、いつも残酷だ。
人間になりたかった。
まともな人間になりたかった。
おかしい、おかしいと言われて、それでも兄上はずっと俺を守ってくれた。
弟だと。
でも違ったんだ。
俺は、俺は。
優しい兄上を騙す、舞台で踊るのがただ上手いだけの人形だった。
あなたの大切な、本物の弟は死んでいるのに!
「俺は誰だ?」
「俺は誰だ?」
「俺は誰だ?」
「俺は誰だ?」
無意識に口からこぼれる問いかけに応えるものはいない。
壊れかけの人形だ。
なにも感じなかった、本物の人形だった。でも今はこんなにも苦しい。自分がなにものであるのか、己の存在価値を見出そうとする。
どうしてこんなに胸が苦しく痛いのだろうか。俺は魂すらも持たない人形なのに。
『……ベルナール、私が見える?』
アルベナが穏やかにそう言った。
視線をあげれば、少し不安そうな彼女の顔があった。それは、俺も、もしくは本物のベルナールも知らないかもしれない母親の顔だった。
「……見える」
『見えている? そう、見えている。私が、アルベナが見えている。アルベナは≪呪い≫、人の精神を蝕み壊していく。私が見えるのは、人間だけ。壊れてしまうのも人間だけ。人の心が、私を見つめ、私を感じ……壊れていく』
アルベナの赤い瞳から涙が零れた。
『愛しているわ。愛しているわ。かわいい私の子供。アルベナの傲慢が、強欲が、嫉妬が、憤怒が、悪食が……愛が、あなたを壊しても。私は愛、愛のアルベナ。……ねえ、私が見える?』
「……見える」
『どれくらい?』
「はっきりと、美しい白く赤い人」
アルベナは膝を折った。
祈るように腰を曲げて、両手で赤い瞳を覆った。大粒の涙が指の間から零れ落ちていく。
『苦しいでしょう。痛いでしょう。なにも感じない人形のままならば、あなたは私を見ることもなく、器としていつか壊れたでしょう。苦しくも痛くもなかったでしょう。けれどあなたは私が見える。見えてしまった。それは人形が≪愛≫を知ったから。優しい兄から親愛を。忍耐強い幼馴染から友愛を。たくさんの愛を与えられた人形は、もうただの人形ではない。
――最後の愛を知らないで。
欠けたままでいて。近くても不完全ならば、すべてが呪いに蝕まれることはない。≪人間にならないで≫ベルナール。誰かの何者にもなってはいけない』
痛いほど、アルベナの訴えが刺さる。
意味を理解してしまった。思えばずっと、それがなんなのかよく考えてこなかった。考えられなかった。かけちがえたボタンのように、ちぐはぐで。
『ベルナール様は、なんでそういう色ごとになるとポンコツになるんです?』
訝し気なシアの顔が浮かぶ。
かけちがえていることに気がついてはいけないと、どこかでわかっていたのだろう。兄上を模倣して、上手に舞台で演じていたのに、そういうことだけは一切上手くいかなかった。
「!」
胸が熱い。
これは物理的な熱さだ。なんだろうかと胸元を探れば、それが自分の少ない魔力で作った魔石だと気がついた。
……シアにお守りにと渡した魔石。
彼女に危機が訪れれば、それが伝わり少しでも守護の力が扱えるもの。
今はただ、彼女が近くに来ていることを示している。
相変わらず、だ。
なんだかんだと言って、あの子は優しい。
ひねくれていて、イタズラ好きで、損得勘定を天秤にかけられる。聖女らしくない聖女。彼女を通してならば世界が見えた。色もなにも、薄くてわかりづらかったものが見えていく。
……人間に近づいていく。
わざと、無意識にかけちがえさせたボタン。
直す順番を本当はもう知っている。
ああ、でも。
「……怖い」
自分は誰かと問いかけながら、返事をされるのが怖い。
だから、≪鍵≫を落とした。
シアは辿り着くだろう。真実の近くまで。そして、事の大きさをしるだろう。彼女は天秤を使える。なにをとるのがいいのか、わかる。多くの大切なものを失ってきた彼女だからこそ、シビアに。
追い込むようなルートを残した。
だが。
「……怖い」
とても、今までで一番彼女がここに来ることを怖いと思う。
恐怖か。
人間ごっこでも、人間に近づけば恐怖も強く感じるのか。感情に振り回される人間をいつも遠く見ていた。感情に振り回されることがない人形には、理解しがたい。冷めた目で人間を見つめていた。
今は己が感情に振り回されている。
滑稽だ。
「――人形でいい。名前なんてなくていい。価値もなくていい。生きてない。偽物の心臓は止める。なにもない、最初から」
がんばって生きる意味がなくなってしまった。
偽物だと人形だと、突き付けられた今となっては。兄上の弟だから、精一杯生きられた。恥じない生き方をしようと思えた。だけど違った。あの人の弟はもうどこにもいなかった。
光に奪われる。
全部。
**************
アルベナは鍵を握りしめて、そしてシアの傍に落とした。
その鍵が、彼女をどう動かすだろうか?
『見捨てて、救って。犠牲にして、助けて。生贄にして、取り戻して』
相反する願いが、アルベナの口から紡がれる。
『嗚呼、ラメラス。あなたにはわからないでしょう! 私の苦しみを愛を、簡単に引き裂くあなたには! 私はあなたを恨みます。この感情が大地を穢しても、人を壊しても。ベルナール、かわいそうなお人形。あなたを本物の人間にしてあげたかった。リーゼロッテ、かわいそうな器。あなたを自由にしてあげたい。愛しているわ。愛しているわ。それでも私は、壊してしまうでしょう。
忘れられない感情があるのです。
取り戻したいものがあるのです。
嗚呼、私も狂ってしまっている。きっとはたから見ればただの怪物。醜い怪物……』
歌が流れる。
アルベナの歌が。
だがそれはお世辞にも綺麗とは言えない。
「なんて耳障りな歌だ」
アルベナの背後に、いつの間にか男が立っていた。
右目を眼帯で覆った隻眼の男。教会の聖服がまったく似合わない男。
アルベナは男を睨みつけた。
『酷い男、あなたがこの大地で一番醜い』
「……そうだろうな」
男の手には黒い剣が握られていた。魔法剣、魔導と剣のどちらの技量もなければ使えない稀なる魔法剣士。魔法剣士は稀ではあるが、器用貧乏で強い人材はほとんどいない。だが、彼は別だ。
『ベルナールを壊すの?』
「……さあな。どっちに転ぶかは俺にもわからん」
アルベナは目を閉じた。
そして。
『汝に、問う』
「……」
『大勢の人のために、一人の犠牲は必要か?』
男は、司教レヴィオスは――答えた。
「必要だ」
たった一言だけ。
次の瞬間には、アルベナの影はレヴィオスに斬られ消えていった。
「――様? し――様、~~~~!! 司教様っ!」
「おわっ!?」
耳元で鳴り響いた怒声に驚いて司教はふらついた。
視線を下にすれば、むくれた白銀の美少女がいる。
「私の中のアルベナの調整をしてくれるって言ったのに、ぼーーーーっとして! 私ずっと吐きたいのがまんしてるんですが!? 今すぐにでもトイレでぶちまけてお姉様達のところへ行きたいんですが!?」
「……おいおい、仮にも皮が美少女の小娘が口汚ぇ」
本調子ではないリーゼロッテは、地下墓地調査についていけず司教と共に部屋に戻っていた。リーゼロッテは司教に対策を強化してもらってすぐにでも追いかけようと考えていたが、とうの司教が部屋についてからぼーーっとしていた。
司教はため息をついてから頭を振った。
「……具合が、悪いか?」
「よく見えます!? っていうか、吐きたいって言ってますよね!? 本気であなたの服に吐きますよ!?」
「やめろやめろ。……そうか、まだ具合悪いか」
司教は少し考えるそぶりをした。
「あれだけして具合が悪いか。お前は本当に根性座ってんな。前ならきっと、具合も悪くはならなかっただろうよ」
「え?」
どういうこと?
リーゼロッテが首を傾げた。
「己の中のアルベナと戦っている。だからこそ具合が悪い。絶対に受け入れない、自分の意思を常に保っている。戦わずに折り合いをつければ、吐き気もおさまる」
「ま・け・ま・せ・ん・が!?」
「引きニートのくせに、どんどん負けん気が強くなるなぁ。どっかの小娘に似るなよ」
「うぐっ!」
司教から容赦のないデコピンをくらってリーゼロッテは額を抑えて蹲った。
「に、ニートじゃないもん……」
「反抗するトコそこ? まぁいい。薬の量を増やす。根本的な解決にはならねぇーぞ、お前が敗北を認めるまではな」
ふくれっ面のまま、リーゼロッテは薬を受け取った。
その顔を見て、司教様はなぜかリーゼロッテの頭を撫でた。
「ふああぁ!?」
「いやぁ、若いっていいなぁ。無茶がきく」
「ふ、ふん! おじさんは若作りしててもお年ですもんねっ。縁側で茶をしばいていたらいいんです!」
「罵り? それ、罵り? 罵りの語彙どうした」
「ああああ! 頭をぐりぐりしないでぇーー!」
髪の毛がぐちゃぐちゃになった! これだから女心の分からないおっさんは! とリーゼロッテがぶーぶー文句を言っている横で司教はごろりとソファに横になった。
「司教様? 疲れてるんです?」
「……ああ、そうだな……疲れてる」
静かに目を閉じていく。
「くっそ……疲れた」
眠りに落ちていく司教を見ながら、リーゼロッテはなんだか少しだけ怖くなった。そっと近寄って呼吸を確かめる。
なんだか、このまま眠って永遠に起きてこないのではないかと。
「司教様……あなたは――
お姉様になにを隠しているのですか?」




