〇41 仕事をしたら負け
「し、死ぬかと思った……。久しぶりに無様な泣き姿さらしそう」
「無様に泣くなら今がちょうどいいだろうね。大人になったらもっと難しくなるから」
すでに天井なんてあってないものと化している聖堂の上から愉快な会話が響く。視界を上にすれば、そこには右腕に雑に抱えられたアギ君が。アギ君を軽々と抱える彼の左手には愛用のリュートが握られていた。
え? 待って、見間違い?
あの人が、こんなところにいるわけが----。
「あ、まな板ちゃん見つけたー。生きてるー?」
「誰がまな板だぁーー!!」
その失礼な呼び方、間違いない。
ソラさんだ。
ソラさんは、ひらりと上から降りて軽やかに着地した。そして、ぽいっと雑にアギ君を放り投げた。
「ぎゃふっ」
「アギ君大丈夫!?」
床に転がされたアギ君は、くぐもった声をあげてからぴくりともしない。
「だいじょぶくないよ……半死半生みたいなもんだ。生きてるのが今も不思議」
「風雷の坊やは賢すぎるがゆえに、突拍子もない事態での頭の処理は苦手みたいだねぇ。安心していいよ、話の通じる時の僕は他人にとって厄介かもしれないが、かわりにあらゆる災厄から身を守る盾になる」
反対に話の通じないときの彼をどうこうできる人間もいないし、どちらにしても他人にとって厄介なだけの人である。
でも今は不躾なツッコミはしないておこう。どうやらソラさんが来てくれたことで、アギ君にとっても私達にとっても最悪を回避できたようだ。
【メリル ヤッカイナ モノ ヲ ツレテキオッタ ナ】
「私のせいにしないで。アレの行動に予測をたてようとするだけ無駄よ。あたったら災難と思ってやりすごすしかない類のものだわ」
心底忌々しそうな少女の声音が響き、歪んだ空間から異質な姿をした少女が現れた。長い黒髪に赤い薔薇の飾り、漆黒のドレス。まるで葬式に参列しているかのような色で、どこか深淵を思わせる。彼女の両目は革製の目隠しで覆われていた。あのときとはまるで違うが、声と目隠しの特徴、伯爵のセリフで察した。
メリルさんか。
「残念ね、伯爵。あなたの目的が達せられたのなら、ノアも一目置いたかもしれないけれど……あなたは基準を越えられなかったみたい。私としては、他人に振り回されたあげく壊れたあのバカ男より、使徒にふさわしいと思ったのだけどね」
あの人のお気に入り基準がわからない。と呆れた様子で言うメリルさん。こっちとしては知らぬ名があちこちで出てきて理解ができなかった。しかし、ノアという名は伯爵の口からもたびたび登場してはいた。
主、とも。
見た目や魔力の感じからも、メリルさんはジャックと同じ魔人だろう。ならば、伯爵が主と仰ぎ、メリルさんが口にするノアという人物は、少なくとも魔人の仲間でかなり高い地位にいる者なのかもしれない。
冷たい汗が手のひらにじんわりと染み出る。
伯爵一人でも厄介なのに、ここで魔人がでるのはさらに厄介だ。こちらも戦力的には申し分ないのだが、怪物と魔人を相手にするにはいささか分が悪い。
「アギ君、伯爵の回復装置の方は?」
「壊してきたよ。解除中はずっとソラさんがメリルさんの相手してくれてたから……めっちゃ生きた心地しなかったけど」
「僕でも三十分はかかりそうな術式を五分もかからずに解除してしまったのには驚いたよ。貴重な人材だね。さすがに魔人相手に一人で守るのは限界があるから、十分オーバーしたら捨てていこうと思っていたけど」
「さすが俺! 優秀で良かったあぁぁぁ!!」
アギ君がやけっぱちになっている。そうとう怖かったんだろうな、がんばったよ君は。今回のMVPはアギ君で決まりだ。
「なら、伯爵はもう無敵ってわけじゃないわね」
「人体を色々といじって無茶をしていたようだからね、放っておいても自壊するだろう。死の間際の捨て身はあなどれないだろうけど」
やはり伯爵は、己を怪物に変えたさいに相当無茶なことをしていたのだろう。伯爵は元はただの人間のはずだ。ありえない力を引き出そうとすれば、それだけ体に負担がかかる。それを補っていたのが、アギ君が解除した装置だったのだとしたら、伯爵はすでに終わりへ向かうだけの存在になってしまった。
メリルさんの様子からみるに、彼女としても伯爵を助けるメリットはないと言っているようなものだ。伯爵もそれがわかっているようで、呻きながらも拳を床に叩き下ろした。
【ナニモカモ ウマク イカヌ】
【マジン 二 ナレレバ モット リ ガ エラレタノニ】
魔人になれれば?
それってどういうこと? 魔人って種族のことではないのか。だが、現にメリルさんもサンドリナさんの娘だったことを考えれば、人が魔人に転じることがあるということが立証されているようなものだ。
頭が痛くなる。私が持っている知識は、どれもこれも本当に正しいのか?
本当に女神の神託により聖女が選ばれ、聖剣が勇者を選び、魔王を倒すことが正しいのか? 大前提とされているものが、もし間違っているのならば……。
私とはなんだ? 聖女ってなんだ?
なぜ、私が聖女になっている?
ひとつ疑問に思ったら、なにもかもが信じられないような気がしてきた。
頭痛い。
頭痛い。
痛い。
痛い。
痛い。
『----死んではダメよ。なにがあっても生きて。生きて、生きて、生き抜いて。どれほど辛くても、死にたいと強く思うことがあっても、絶対に死んではいけない』
すべてを乗り越え、いつか私に会いに来るの。
私の愛しい××××。
顔の見えなかった、おぼろげだった……あの女の姿が浮かび上がる。
そうだ。あのとき、あの『鬼のような形相をした女』は----。
私を見て、優しく微笑んでいた。
鬼の形相などではなく、美しい顔で、穏やかに微笑んでいた。
慈愛に満ちた瞳で微笑んでいた。
…………それが、私にはとても----恐ろしいものに見えたのだ。
まるで鬼のような形相に見えたのだ。
だから、私はあの女を鬼のような形相の女として覚えていた。
どうして今、それを思い出したんだろう。
痛い、痛い。頭がすごく痛い。割れるみたいに。
「まな板ちゃん」
「まな板って呼ばないでください」
「具合が悪そうだけど、口はきけそうだね。魔人の気にあてられてる、力が封じられている以上、負担は大きくなるからね。今までのようにはいかない」
「……そう、ですね」
この悪い夢みたいな記憶は、魔人の気にあてられているからなのだろうか。気分が悪い方へと落ち込むように誘われているかのようだ。
「さあて、編成を組もうか。伯爵は捨て置いていいけど、魔人は別だからね。術式を解除されても伯爵をさっさと捨てずに撤退していないところをみると、彼女はまだ別の目的が残っているみたいだ。達成されるのは嫌な予感しかしないし、さっさと追い払おうね。僕も早く自由になりたいし、仕事は嫌いなんだよ。仕事をしたら負けの人生だから」
この人、本当に根っからのニートだな。
「メリルさんの口ぶりだと、どうも人の魂を欲しがってるみたいなんだ。それもなんか優秀っぽいの。魂なんて形のないもの、どう扱うかは知らないけど」
今回の事件は、どうやらメリルさんの魂集めという裏があったらしい。詳しいことは後にするとして、一番厄介な魔人と対峙することにする。
「えーっと、じゃあ赤ノッポ君とママさん--あ、誰かに似ていると思ったら君は我が親友の弟君じゃないか! 久しぶりだね! 大きくなったね! 会えて別に嬉しくもなんともないけど、再会したからには祝福しないとね、ベル坊や!」
「ちゃっかり隠れていたのに、相変わらず目ざとい人だな……。それとベル坊やはやめてくださいとあれほど--」
「君は昔から可愛げもなければ人間味もなかったけど、ちょっとは人のようにはなったじゃないか。それともそれは表を飾っただけで、実質なにも変わらない壊れたお人形のままなのかな? ベル坊や」
呼び名に関して苦言を呈しようとしていたベルナール様の目が眇められた。睨んでいるようにも見える。変わらずソラさんは、話が通じていそうで通じない。今は通じるようにしているようだが、やはり基本的には通じない人だ。
「ま、ママさんって私かしら?」
「赤ノッポ……は、俺だよな」
ソラさんに指名を受けた、ママさんことサラさんと赤ノッポことルークが戸惑いながらもソラさんの元へと集う。どうやらソラさんとベルナール様を含めたこの四人が戦いのかなめになるらしい。
「私、あまり自分で戦うのは好きじゃないのだけど……ふふ、いいわ相手をしてあげる。私はノアの使徒、魔人クイーン。愛しいものを手に入れるまで、私はなんでもして、なににでもなるの--だから、ね?」
あやしげに微笑んだ彼女の視線の先に、私とリーナに抱きしめられたままのリーゼロッテがいたことを私は気づいた。
ずっとどこか心の底にこびりつくようにしてある不安が、のど元へ向かって這い上ってくる。
私はできるかぎり強く、リーゼロッテを抱きしめ直した。