終章
冬の枯れ芝の上で私たちは倒れたままじっとしていた。
若宮さんはエビみたいに体を丸めた私をしっかりと抱き留めている。
彼女の心臓の鼓動が背中を通して伝わってくる。鳴ることを止めた私の心臓がそのリズムに共鳴するように再び脈を刻み始める。冷えきった体を血液が駆け巡っていくのを私は感じた。
「もう大丈夫。どこにも行かないよ」
私は言った。
若宮さんはこっくりと頷き、そしてゆっくりと腕をほどいた。
ゴロリと仰向けになると、さっきまでの手を伸ばせは届きそうだった低い空が、今は随分と高いところに見える。彼女が引き留めてくれなければ、私はあの煙突からあがる煙のように、空に溶けていったかもしれない。
しかし、葬儀の席で彼女の姿を見かけなかったのに、どうしてここに居るのだろう。
ジュンが倒れたあの日を境に壁が取り除かれたように若宮さんは私に近づいてきた。
「私たちはずっと一緒だったって言ったよね。でも私にはまったく記憶がないの」
彼女ほどの存在感のある人と、保育園から今まで一緒の場所に通っていて気づかないなんてことがあるだろうか。私が若宮さんの名前を初めて耳にしたのは高校に入ってからだ。同じ一年生にすごい人がいる。モデルみたいにすらっとした美人で、おまけにスポーツ万能なの。クラスメイトの一人が興奮気味に話していたことを覚えている。
「あなたはまるでそのことに気づかずにいた。でも西沢さんは知っていたのよ」
「ジュンが? でもジュンの口からあなたのことを聞いたことは一度もないわ」
「あなたの前で、私の話題をしたくなかったんだと思う」
私は病院で抱いた疑問を思い出した。ジュンが作った美少女ランキングに若宮さんの名前はなかった。
「なぜジュンがそんなことをしなければならないの?」
「私があなたに特別な感情を抱いていることを知っていたんでしょう」
彼女は私の目を見つめて言った。そして重大な告白をするかのように、一度息を吸い込んだ。
「西沢さんが現れるまで、あなたは私のたったひとりの友達だった」
私はしばし言葉を失った。彼女の言っていることはあまりにも馬鹿げていたからだ。
「何を言ってるの? 意味がわからない。いくら小さい頃のことでもそんなことを忘れるはずないでしょ」
「じゃ、お母さんのことは覚えている? お母さんが交通事故で亡くなったことは?」
私は答えに詰まった。
母が事故で死んだことは父から聞いて知っていた。しかし記憶があるのかと言えば、答えは否だ。まだ幼かったからよく覚えていないだけだと思い込んでいた。改めて振り返ってみると、自分には母にまつわる記憶がまるで無い。
母がどんな声で私に話しかけたのかも、どんな表情で私を見たのかも、何一つ覚えていない。知っているのは写真の母だけだ。母の死のショックが大きくて、記憶がすっぽりと抜け落ちているのだろうか。だとしたらなぜ今まで疑問に思わなかったのだろう。それとも私には最初から母なんか居なかったのだろうか。
「あなたは私のお母さんのことを知っているの?」
私は恐る恐る聞いた。きっとその扉を開けたら、もう戻れないかもしれないという予感がした。
「きれいで優しい人だった。私とあなたはいつも最後まで保育園に居残っていたの。お迎えが遅かったからね。そして、たいていはあなたのお母さんが先にやってくる。そのときのあなたはこれ以上、嬉しいことはないって顔をしていたわ。お母さんはあなたを見つけると、ギュッと抱きしめて、頬ずりするの。私はそれがとてもうらやましかった」
私にはまるで記憶の無い話だった。しかし、彼女が作り話をしているとは到底思えない。
「私の母親は自分の子供を愛せない人だったの。ネグレクト、知っている?」
初めて聞く言葉だった。
「育児放棄っていうのかな。母は子供の世話をなにもせず、お酒ばかり飲んでいたわ。私はいつも垢じみた服を着せられて、酔った母に叩かれないかとビクビクしていた子供だった。父がいたからそこまで酷いことにはならなかったけれど、それでも母と二人で家に居るのはとても怖かった。そんなんだから、保育園でも他の子供とコミュニケーションが取れなくて、いつもひとりだった……でもね。あなたとふたりでお迎えを待つ時間だけは別だった。別に何かを話すわけでもないの。ふたりで絵本を見たり、ぬいぐるみで遊んだりするだけなんだけど、あなたが傍に居てくれて、時々、ふと顔をあげて微笑んでくれるの。そうすると、幸せな気持ちになれた」
「ごめんなさい。やっぱり思い出せない……」
記憶の底をまさぐったところで、なにひとつ掴み取れるものはなかった。もどかしくて涙がでた。若宮さんは人差し指でその涙をなぞると、大丈夫だよという表情で微笑んだ。
「いつだったかな。私たちはいつものように迎えを待っていた。その日はとても憂鬱だった。父が仕事の都合で、来ることができず、母が来ることになっていたから。私はあなたのお母さんがずっと来なければいいと願った。いつまでもこの時間が続けばいいってね。でもあなたのお母さんはやって来た。あなたは私にさよならをすると、お母さんの胸に飛び込んでいった。そしてお母さんに手を引いてもらって歩き出した。私はとても孤独で不安だった。だから心の中で叫んだの『お願い。行かないで、一人にしないでって』、そしたらね。奇跡が起きたの」
「奇跡?」
「ええ奇跡。あなたは突然振り返ると、私の方に向かって走ってきたの。それから私の手にこれを握らせたの」
若宮さんはそういうと、スカートのポケットから、何かを取りだして私の手のひらにのせた。さくら貝だった。
手のひらに置かれた小さな薄紅色の貝殻を私はじっと見つめた。何の変哲も無い貝殻だが、見覚えがあった。私はそれを固く握りしめて目を閉じた。手のひらの肉に食い込む感触が、歳月を超えて私の記憶の一点に結びついた。
そうだ、声を聴いたんだ。振り返ると青白い顔をした女の子が膝を抱えて震えていた。それがとても可哀想で、私は自分の宝物を彼女のために置いていこうと思った。
母と海に行ったときに見つけたさくら貝。その子はそれをじっと見つめてから、ぎゅっと握りしめて私を見上げた。私はたまらなくなって彼女の頭をかき抱いた。
散り散りになった記憶の欠片が、いま私に向かって、降りそそいでくる。
「さっちゃん……」
思わず口にした呼び名に、若宮さんは涙で顔をくしゃくしゃにして、何度も頷いた。
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人は死んでもその思いを残す。それを魂と呼ぶのかもしれない。漂う魂はまた誰かの心に宿り、灯りをともす。ジュンは母の残した思いを受け取ったのだ。
年が明けて、私はジュンのお墓に来ていた。
「西沢さんはあのとき言ったのよ。レイをひとりぼっちにしないでと……」
ウィンドブレーカーを掛けようとした若宮さんは、何かに気づいたように口元に耳を寄せた。私は呼吸を確かめようとしてるのだと思ったけれど、ジュンはもう自分が助からないことを知っていたのだ。
ねえジュン、あなたはあの時言ったよね。悲しいことは全部忘れたらいいと、寂しかったら傍に居てあげると。私はあの時からママのことも昔のこともすべて封印し、あなたにその鍵を預けた。
でも私はもう大丈夫だよ。悲しいことも楽しかったことも、それは私の大切な思い出。心に鍵はいらない。
いつか「輪廻転生って信じる?」
あなたはそう言ったよね。私たちは何処かでまた逢えるのだろうか。
翌日、朝早く学校に出かけた。
グランドに出ると、若宮さんがトラックを走っていた。冬休みの間も彼女は大会に向けて練習を続けていた。背筋を伸ばしきれいなストライドを刻みながら、まるで自分の筋肉の躍動を楽しんでいるかのようだった。走るという桎梏から彼女は解放されたのだと私は思った。
私を見つけると、彼女はコースを外れてこちらにやってきた。
「ひさしぶり、調子はどう?」と彼女は言いながら、隣に腰を降ろした。
「まあまあかな。そっちは?」
「調子はいいよ……私は今までゴールのないレースを走っていたような気がする」
若宮さんはポツリと言った。
「今はあるの?」
「さあ? どうだろう。でもどこかに向かっては走っていると思う」
「なんなのそれ?」
私が笑うと、彼女もつられて笑った。
孤高で気高く、そして物悲しいまでに美しい彼女はもうそこに居なかった。私の隣で朗らかに笑っているのはごく普通の十七歳の少女だ。
「あのね。あなたの言ったことをずっと考えていた。西沢さんは確かに私にバトンを渡したのだと思う。でもね、私はそれを受け取らないことにした」
彼女はきっぱりと言った。
風が彼女の前髪を煽った。
「案外、おでこ広いんだね」
私がからかうと、若宮さんは慌てて髪を抑えた。
まだあどけなさが残る下級生がドリンクの入ったボトルを持って走ってきた。
息を弾ませながら、その子はボトルを渡した。
「ありがとう」
若宮さんがそれを受け取ると、彼女は小さくお辞儀をして走り去った。
若宮さんはその後ろ姿を優しい目で見ていた。
「後輩?」
「うん」
「可愛い?」
「うん、可愛いよ」
若宮さんははにかみながら言った。
「私も走ってみようかな」
「ほんと?」
「うん、ほんとだよ」
私たちはもうすぐ高校三年生になる。