SS01 「それはちょっと長い話」
「それにはちょっと長い話があるんだ」
町役場の近くに小さな喫茶店がある。大きなイチョウの木が横にあるレンガ造り風の建物だ。
経営しているのは晩秋に咲く白い花のような女性。
細いジーンズと灰色のセーターを身につけ、ミドルのエプロンを腰に巻いている。
何故か自分のことは「マスター」と呼ぶように、と言う。
「マスターはどうしてここで店をやっているの?」
僕は尋ねた。昼過ぎの店内に客は僕一人だった。
その頃、僕は役場で昼休みの窓口業務を行うことが多かった。同僚とは別に昼食をとることになるので、昼の窓口業務は人気がないが、僕には願ってもないことだった。
「それには長い話があるのよ」
コーヒーを注ぎながらマスターは言った。いつもの時間のいつものやり取り。
だが、決してそれ以上は語ってはくれなかった。
店は古いが掃除が行き届いていた。親しみやすいがこびた所がない。店主の個性がそのまま約10畳の空間を満たしていた。転勤したばかりの僕にとって、それは心地よい空気だった。
朝の出勤時に彼女が店前を箒で掃いているのを見た。
時折、手を止めて道の向こうを眺める。隣町へ続く国道だ。挨拶するとビックリしたような目で僕を見た。ちなみに開店前はマスターと呼ばなくて良いらしい。下の名前で呼ばせようとするので凄く困った。
一度、マスターは古い友人の話をした。
遊園地に行く約束を破った男の話だ。
一緒にメリーゴーラウンド乗るって約束だったのよ、と彼女は笑う。
他愛もない昼下がりの他愛もない昔話だ。
だが、僕は知っている。その男というのが、喫茶店の持ち主だったことを。そして、彼がもうこの地上にはいないということも。同僚の昔話と役場の記録から得た情報だ。職権乱用かもしれないが、今となってはどうでもいいうことだ。
ある昼下がり、僕は意を決して喫茶店に向かった。
マスターは店の前の落ち葉を掃いていた。落ち葉が多くて嫌になる、と呟く。
時間を重ねた立派な木ですよ、と僕は答えた。
昔から街道の目印だったと聞きました、と。
……そうね。
マスターは微笑んだ。いつものランチ用意するわ、と言って店内に入る。
この一瞬が永遠に続けばいいのに、と僕は思った。
マスターがランチを用意している間、いつもの質問をした。
「マスターはどうしてここで店をやっているの?」
そう言いながらポケットの中のチケットが2枚あることを確認する。マスターの答えがないことに気づいたのは、その時だ。
視線を向けると彼女はコーヒーカップを持ったまま、止まっていた。その視線は窓の向こうに釘づけられている。落ち葉が舞い上がり、よく見えなかったが、そこに一人の男がいた。黒いコートを身に着け、手には鞄を持っていた……気がする。
「店をお願いね」
そう言うなりマスターはエプロンを外し、ドアへと走り出した。
名前を呼んだが、彼女は立ち止まらなかった。
「待って! 伝えたいことがあるんだ」
叫んだが、彼女はそのまま店から出て行った。
彼女を追って店を出る。
前の国道には誰もいなかった。
ただ、黄色い落ち葉が舞い降りるだけだった。
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「マスターはどうしてここで店をやっているの?」
ある昼下がり、役場に赴任して来たばかりだという女の子が尋ねた。
昼休みになると店を訪れて質問をする。
「それにはちょっと長い話があるんだ」
コーヒーを差し出しながら、僕は答えた。