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「つめたい震るえ」

 

 

 

 

 

「ねぇ、心臟みたいでしょ、兄さん」



  弟の聲に、俺はそっと顏を上げる。



「テーブルの置き時計さ、時計の針が6のところで痙攣して、

 いつまでも先に進まないんだ。

 いつもはあの時計のせいで、夜になるととてもうるさいけれど、

 今日は屋敷の中で、この部屋がいちばん靜かだね。

 それに、いちばんひんやりしてる。

 兄さん。僕、ここが好きだな。

 ……いつものここは、あまりすきじゃないけれど」



   俺はそうか、と答えて手元に目線を戾す。

   蝋燭の燈に照らされた本のページの、その表面に影が、

   ゆらゆらと搖れていた。

   外は嵐だった。



「もしかしたら、中の水晶(クォーツ)が昏睡してるのかもしれないね。

 うふふっ ぼく、いつもクォークって言いそうになるよ。唇がバカなんだ。

 アッ、また鳴っているね。

 今夜はずっとこんな雨かな。

 雷の音が、蛇の鳴き聲みたい。

 きっと、すごく機嫌がいいんだ。

 いまのぼくみたいに」



   弟は微笑む。

   大きな眼は潤んでいて。

   今日、彼は饒舌だ。

   いつもの翳りのようなものも見えなかった。

   しかし何か、響くのは――部屋に響くのは何の音だろう?

   耳に障る音――奧齒に響くような、これは(こえ)なのか?


    …………ジ…………ジジ ……っ …………ジ……ジ……ジ



「……何の音か氣になる?

 そうだと思った。

 この雷の音でも、掻き消えないものね。

 兄さんは嫌いだと思うけど、ぼくはこいつが、

 いとしいくらいに好きだから」



   弟は手に握っていたそれを見せた。

   蝉――俺はヒッ、と聲を上げてしまう――蝉だ。何の蝉だろう?

   赤黑い身體に、翅は、濕ったような(しろ)だった。

   俺は視ながら、弟から逃げるように後ずさった。



「大丈夫、もう飛べやしないよ。

 もう、ふつうに鳴けてもいないし。

 疲れ果てているんだ、このセミ。

 ――まるで幼蟲に戾ったみたいだね、這ってばかりでさ」



   蝉は弟の手から放され、古い木のテーブルの上で、

   のろのろと足を動かした。

   それは腹の下で、ぐずぐずと、求愛の聲を上げ續けた。

   身體の震えが、震える蝉の姿が、その向こうにある置時計の、

   その痙攣する針と奇妙にシンクロしていた。

   電池の切れかけた時計は、

   まるで蝉から拔き取られた心臟のようで。

   (それの送り續ける液體は、時という名前なのか。)



「兄さんも、わかるんだね。

 そう、セミは繋がってる。

 セミも、痙攣をしてる。

 まだ死にたくない、って……」



   弟は蝉を見ながら、笑うように、眼を細める。

   じゃあ、電池が切れたらセミは、死んでしまうのか――と俺は訊ねた。



「いや、兄さん、

 魂が、震えている」



   ああ震えている、震えているな。

   震えているが、これではじきに、止まってしまうのじゃないか?



「いや、そうではないんだ」



   なぜ? 替えなければならないよ。電池を替えれば。

   そうすれば、蝉もまた、助かるのではないのか?



「でも電池を替えたらセミは死んでしまう」



   俺は、違うと思う。

   嫌いな蟲だが、醜い瞳をしているが。

   これは、ねじまき仕掛けの少年 なのだ。

   不在なのは少女なのだ。

   巡る電子の不足が時計を殺すのならば、

   やはり蝉を殺すのもまた、その不足なのではないのか。



「不足ではなく、不在でもなく、

 それはまして不快でもない、單なる安定することへの抵抗なのです。

 兄さん。

 化學反應はいつか終わらなければならない。

 エントロピィは增大するしかない。

 そのことが、ぼくたちを不在の少女へと驅り立てるかもしれない。

 でもね。

 ぼくが目覺めるたびに泣いている譯を、

 翳りのある眼球の理由を、

 どうして少女が理解できるというの?」



   俺は、おまえに、

   ただ幸せになってほしいと……。



「電池が切れることは無い。セミが鳴こうとする限り」





   婚約者とは、昨日から連絡が取れなくなっている……。






    閑さや岩にしみ入る蝉の聲  芭蕉

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