「鏡」 vol.1
彼が高校生のとき、英単語帳で "earnest" という単語が出てきた。
真っ先に思い浮かんだのはアーネスト・ヘミングウェイの名前だった。
"earnest" は形容詞で、「まじめな」とか「勤勉な」とかの意味で、すごい名前だなぁと当時彼は感心した物だ。日本人であれば、「田中真面目」とか「佐藤熱心」とか「鈴木勤勉」とか、そんな明治時代の文豪にでもいそうな名前なのだから、当然と言えば当然のことではあった。
彼はヘミングウェイが、よっぽど勤勉な人だったんだろうと思った。
でなければ堂々と、こんな名前で作品を世に出せるはず無いではないか?
しかしあるとき彼は、村上春樹の新刊が、ヘミングウェイのとある短編に因んだ題名だったことを受け、取りあえず電子辞書で、彼の項目を調べてみる気になった。そこにあった名前に、彼は少なからず動揺した。
そこにあったのは"Ernest"の表記だった。しかも様々に調べていくと、ヘミングウェイの生涯は日本の社会的基準からして「まじめ」とは言い難いことも分かってきた。もちろん、彼の文学への姿勢はまじめな物であったのは確かなのだが。
そういえばこれと同じような経験を、何度か自分はしているのだということに彼は思い当たった。
例えば"ビートルズ"。これは勘違いした人には言わずもがな、"ビートルズ(THE BEATLES)"は"カブトムシ達(THE BEETLES)"ではないのである。音を掛けた洒落ではあったのだが、この思い違いを知った中学生のとき、彼は何だかとても恥ずかしかった。
英単語のテストで"elect" を "erect" と書き間違えることもすごく恥ずかしいことだが、これはそういう意味とはまた違った恥ずかしさがある。例えるなら、それは人生も半ばを過ぎた頃、カラオケでいつも歌い、マイ・フェイバリット・ソングだと自負していた曲の歌詞を、今まで間違えて歌っていたのだと気付いた瞬間のような恥ずかしさなのだった。
しかし、……と彼は思った。
俺には結局、おおよそ人生のフェイバリット・ソングなんてものは無かった、そんな気がした。
歌詞のない楽曲、古典派だろうが、ロココだろうが、もしくはロマン派の派手さであろうと、また異国の艶やかな歌曲も、シャンソンやバラード、パンクロックさえ、なんとも、自分には縁遠かったように思った。子どもの頃から耳に流れ込んできたポップ・ミュージックだって、なんだかそれは心を素通りしていたような気がするのだ。それがたとえ、どんなにこっくり、としていても。
彼は会社の帰りに、昏く梅雨空に沈んだ街で、傘を差しながらショー・ウィンドゥに立ち止まって中を覗き込んでいるところだった。アナクロな楽器が並んでいた。どれも赤いビロードに寝そべり、手ぐすねを引いて玄人女みたいな視線で、彼を誘っていた。彼はしかし立ち止まりながらも、それらへ夢中にはなれなかった。それらを見詰めるとき、彼の心にはどこか、寂しさがあった。
どうして立ち止まっちまうかな、と彼は自身の行いを責めた。いくら眺めたところで、意味などはないのに。彼は傘に当たり続ける雨粒が、そのリズムで彼の気持ちを変動させているんだと半ば戯れに考えていた。ガラスに映る自身の顔を見ながら、彼はミュージック・プレイヤのイヤホンを外した。
いや、彼はイヤホンなんて、付けていなかった。
そもそも彼は音楽など……。ショー・ウィンドゥに映る彼は、しかし恍惚としていた。楽器たちに陶酔している――。一瞬、そう見えた。彼は右手を上げた。鏡像も同時に、寸分たがわず手を上げた。表情を変える。鏡像も表情を変える。何か、じわじわと不思議かった。彼は息苦しさを覚えた。
首に手が掛っていた。彼の右手が首を這い登っていく。鏡の中の彼が、手を動かしている。それに釣られたようにして、彼の手も動いている。喉仏の上に、戸惑う自分の汗ばんだ掌を感じながら、こんな小説を昔読んだなと、彼は思い出していた。これも村上春樹だった気がする。一番怖いものは、自分自身なんだよ? とかいうような……。
よく考えれば、確かにおかしかった。明るいショー・ウィンドゥに、昏い外に立っている彼の姿がこんなにも、はっきりと映るはずがなかったのだ。
ドッペルゲンガーとは、綴りの違う鏡像なのかもしれない。