潮先
どんどん強くなる、潮の匂い。少し湿り気を帯びた風。
この道をもう少し進めば、防砂林の合間から海が見えるはず。
そして記憶のとおり、木々の間に海が見えた。騒がしい夏と厳しい冬の間の秋の海は、とても静かだ。
「うわあぁ、海だ〜っ」
海に向かうと聞いてウキウキとしていた少年は、その青さに歓声を上げる。
普段ならば、はしゃぐ弟子をたしなめる青年もまた、その青に足を止めた。
そんなふたりの連れを微笑んで見ていた女性は、海風に前髪を乱されて…何かを思い出したのか、苦く笑って襟足を撫でる。短い髪の触り心地に、小さくため息をついて。
「どうした?」
常とは違う様子の彼女に気づいたか、青年は問いかける。
「ううん…ちょっとね…」
問われた女性は、ごまかして体ごとそっぽを向く。腰に吊るした一対の短剣が触れあって音をたてる。
「ちょっと…何だ?」
無表情がデフォルトの、その深い色の瞳は心配をたたえている。
あれ、こんなに心配性だっかな…青年の追及に、剣士は小さく笑って答える。
「昔みたいに髪が長かったら、絡まって大変なことになってたろうなって思って」
「え、髪が長かったんですか?」
海を眺めているからと放っておかれた少年が、剣士の言葉に反応して振り返る。
「そんなに意外? あたしだって髪くらい伸ばすわよ」
腰くらいはあったかなぁ、と呟く剣士を珍しそうに見つめる師弟。
女剣士の顏がむうっとむくれていく。
「そ、そういうんじゃないんですけど…
ただ、ちょっと想像出来なかっただけで…」
「ふーん?
じゃあ、あなたは――」
あわあわと両手を振り回して否定する少年をひと睨み、ならば師匠はどうだと視線を動かせば、青年はすたすたと街道を歩いていた。
「って、あなたどこ行くのよっ!?」
「野宿がいいのか?」
「う…」
ギャンと噛みついてきた声を煩そうにやり過ごした青年は、たった一言で剣士を黙らせた。
トロトロ遊んで、町に辿り着けなくてもいいのか? と問われ、わかったわよと剣士は呟くと、少年を促して歩き出す。
「けどねぇ、声くらいかけてよ」
それでも青年に向かって毒づくことを忘れない剣士は、早足で青年を追い越す。小走りで剣士についてきた少年は、青年と剣士の間で速度を落とした。
なんとなく、この位置が三人にとって落ち着く並びかただった。
「あの」
落ち着いたところで、少年の知りたがりな性格が働き出す。
「どうして髪を切っちゃったんですか?」
好奇心になら何回も殺されそうな少年に、まあ仕方ないかと剣士は苦笑する。
「んん…まあ、いろいろあって…」
「男にフラれたか」
「あなた、賢者のくせに発想力貧弱」
賢者と呼ばれた青年は、貧弱呼ばわりに眉ひとつ動かさない。
「じゃあどうして…」
「魔法使いになりたいなら、もう少し洞察力つけたほうがいいかもね」
食い下がった魔法使い(見習い)の少年も、ざっくりと言葉の刃で斬りつけられた。
「理由は単純。その時邪魔だったから、よ。
…それよりも…」
淡々と答える言葉は、嫌そうな呟きに変わる。
「今夜はあそこで泊まりかぁ…あと半日あれば、隣村までいけるのに…」
その言葉に、
「宿屋がないんですか?」
「遊んでいたのは誰だ?」
魔法使いと賢者は同時に、しかし彼らの性格そのままの反応をして剣士を笑わせた。
「宿はあるわよ?
遊んでいたのはあなたも同罪。
あたしがここを通過したかったのは…」
見えだした街の門を、目を細めて眺める。
「前にこの町に来た時の思い出が、あまりよくなくって」
語尾を濁したまま町に入る剣士に続く賢者は、貝にでも当たったかと推測する。
食いしん坊なのだ。彼女は。
ふむ、と納得する師の気配に、たぶんそれ違いますと突っ込めない弟子。
食いしん坊なのは否定しませんと肩を落としながら。
「この宿屋、変わってないなぁ」
町の目抜通りの途中で足を止めた剣士が、一軒の建物の前で感慨深げに呟く。
「…ここですか?」
「そう。ここがこの町でたった一軒の宿屋よ」
「民家でしょう?」
「町の規模も小さいし…あるだけ立派よ?」
古ぼけた、それでも宿屋の看板を見て、少年は目を丸くする。
宿もない町や村もあるぞ…そう師に言われて呆然とする魔法使いを置いて、さっさと宿へ入る賢者。
剣士は魔法使いの背中を押して、入るように促す。
潮風でベタつく髪を気にしながら。