5 ある秋の夜
バイト帰り、秋人はビールのはいった袋を提げて、いつものようにゆっくりと歩いた。
もう長袖のシャツだけでは少し肌寒く感じる。秋が深まり涼しさから寒さへと変わっていくこの季節が、秋人は苦手だった。
空気も空も風景も明るい夏の色から秋の色に染まり行く、それだけなのにひどく感傷的になり、避けていた古い記憶がふとした瞬間に浮かんでくる。
そして、母が生きていた頃の家族を思い出す。もう戻れない日々……それがわかっているから、幸せな思い出は今の秋人には少しつらい。
秋人は、頑固で意固地で生真面目な父親が苦手だった。そんな父親から見た秋人も、何も考えず流されるように生きているように見えて、良く思われていなかったようだ。秋人と父親の相性は最悪だった。
二人の間に立つ母親がいなくなってから、秋人と父は顔を合わせれば、言葉を交わせば衝突していた。言葉が通じないのではないかと思うほど、分かり合うことができなかった。
そして、つまらないことで喧嘩して、秋人は家を出た。
最後に交わした会話はどんなものだっただろう。もう忘れてしまった。
高校まで育ててくれた実の父親だ。恩を感じているし、尊敬している部分もある。
嫌いな訳ではない……でももう会わないつもりでいる。
ああ、嫌になるなあ。
面倒を嫌う秋人は、心のざわめきにため息をついた。
二度と会うことはないかもしれないけれど、父も弟も幸せであるように。
そう願いながら月明かりの下、ぶらぶら帰った。
「通った感じどうかな」
ある日秋人は窓の横に太郎が通れる通用口を作った。
これから寒くなる。秋人の不在時に太郎が外で寒い思いをすることがないようにと、大家さんに頼み込んで、通用口のための穴を壁に開けることを了解してもらった。
この家の大家は近所に住む気の良い老夫婦で、若い秋人をよく気にかけてくれていた。
だから秋人が頼みに行った時も、夫婦で顔を見合わせて「どうしようかねえ」などと口にするものの、すぐに「まあ、好きにしてもらっていいんじゃないの」と返事をしてもらえた。アパートの作りは古く家賃は破格で、おそらく大家の生計をたてる目的のものではないのだろう。
お礼にといって、秋人は大家の家の立て付けが悪くなった箇所を、丁寧に修理してまわった。大家の住む家もまた古く、家のあちこちが傷んでいた。
「ありがとうねえ。あのアパートはどうせそのうち取り壊すんだから、好きにしたらええよ」
結局老夫婦には感謝されてお土産までもらい「また家を直しに来るから」と秋人は笑顔で帰っていった。
そしてペットドアを取り付けて、今は実際に太郎が通れるかを試しているところだ。
一度通ればそれで良かったのだがなんとなく楽しくて太郎は何度も行き来して、傍で秋人はにこにこしながらそれを見ていた。
「はい、問題なく通れます」
そうか、と秋人が太郎の頭を撫でた。
太郎は秋人と出会うまでの間、通りがかりの人間に頭をなでられることが何度もあったが、頭に手をかざされるのに少し恐怖を感じていた。でも秋人は少し後ろから優しく頭を撫でるので、太郎は恐怖を感じない。どちらかというと、とても安心する。
「今日はお酒を飲んでいないんですね」
「ん。飲むよー、これから」
ぼんやりと秋人はつぶやいた。お酒を飲んでいない秋人は少し寂しげで、上の空だ。太郎の目にはそう見えた。
「お酒ってそんなにおいしいんですか」
「おいしいよ」
秋人はそう即答したが、少し間を置いて言い直した。
「いや、本音を言うとそんなにおいしくないかしれないな。オレンジジュースの方が、酒よりたぶんおいしい」
「じゃあ毎日お酒を飲まないで、オレンジジュースを飲んだらいいんじゃないんですか」
そういうと秋人はもっともだと笑った。
「まあ気分の問題だよ」
今度は太郎が首をかしげた。
「よく、わかりません」
「毎日を生きるのに必要なんだろうねえ」
少しふざけた口調で他人事のようにつぶやいて立ち上がり、冷蔵庫からビールを取って戻った。
「飲まない夜は長いし、静かすぎて過ごし難い」
そう言いながら缶を開けた。
「ということで、今日も飲もう。乾杯」
と言って太郎の顔に缶を軽く当てた。太郎は突然の刺激に驚いて転がった。それを見て秋人は笑う。
この人はお酒がはいると楽しそうだけど、そうでないと不安定なようだ。
太郎はだんだん秋人のことがわかってきて、同時に危うさを感じるようになった。
「秋人さん、顔を引っ張りすぎです」
「お前よく伸びるなあ」
「や、やめてくだはい」
もう。やっぱりこの人は、何にも考えてないのかもしれない。
太郎の顔をいじってゲラゲラ笑う秋人を見て、わからなくなった。
本当にいたずらが過ぎるけど、でも優しい人だ。これは、間違いがないだろう。
太郎は秋人の持つゆるやかであたたかい空気が好きだった。
たまたま出会ったのが、この人でよかった。
太郎は心からそう思っていた。