11 ムンレク
ぼんやりとした表情で下川は歩き、『ムンレク』という看板のかかった店にはいった。
「いらっしゃいませ」
下川は店員の声ではっとして我に返った。
そうだ、ムンレク。俺はここに来ようと思っていたんだ。……それと、なんだったっけ。何かあった気がするが思い出せない。
商品を見ながら中にはいっていく。あたたかみのある手作り風の雑貨が置いてある、こじんまりとした店だ。
何気なく顔をあげると、レジで作業している店員の顔が目にはいった。優しい雰囲気の可愛らしい女性だった。
思わず下川は店員に見とれてしまう。
下川は近くにあるコップを手に取って、レジに向かった。
「ありがとうございます」
店員は顔をあげて、笑顔を見せた。
やわらかいその笑顔に、下川の心は強く揺さぶられた。
「ご自宅用ですか?」
「はい」
応えながら顔を逸らして、顔が赤くなるのを隠した。
店員は箱を取りだしコップを丁寧に梱包する。
「あの」
下川は思わず少し大きな声をだしてしまった。緊張しているようだ。店員は顔をあげて、笑顔で応える。
「俺、下川っていいます」
突然の自己紹介に、きょとんとした顔をした店員に、下川は焦ってしまう。
「いや、怪しい者ではなくて、なんていうか」
頭をかきながら、柄にもなくナンパのようなことをしている自分を恥じて、どうしようどうしようと考えた。
「あ、そうだ。俺、築町三丁目のコンビニで働いてるんです」
店員は驚いたような顔で下川を見た。
「そこで、岡田秋人っていう人が働いてないですか」
今度は下川が驚く番だ。下川にとって謎の人物である秋人の名前が出て、不安がよぎる。
「います。あのもしかして……おかさんの彼女さん、ですか?」
恐る恐る聞いてみる。店員に声をかけるという慣れない行為に、緊張してなんの配慮もできずうまく立ち回れない。
「いえ違います、ただの友達です」
慌てて否定する店員の言葉に下川は安心して、店員の顔がほんのりと赤くなっていることに気づかなかった。
共通の知り合いがいるということで、お互い少しリラックスする。
「秋人くんて、どんな風に働いているんですか」
今度は店員から話を聞いてきた。よし一歩前進、などと下川は思ったが、ざっくりした質問になんと答えようかと少し迷う。
「おかさん、あ、岡田さんのことなんですけど。どの時間帯でもちゃんとやることやって、しっかりしてるからみんなに頼りにされてますよ」
「へえ、そうなんだ」
店員は話をきいてはにかんだ。嬉しそうにしている。下川はまだ話を続けようとしたが、店員の名前をきいていないことに気が付いて、話を変えた。
「あの、良かったら名前を教えてもらえないですか。さっきも言いましたが、俺は下川です。下川亮」
「私は、渡辺はるかです」
快く答えてもらって、とりあえず下川は安心した。これなら、もしかしていけるだろうか。
「渡辺さん、仕事が終わったらちょっとコーヒーでも飲みに行きませんか。近くにおいしいお店があるんです。いや、あの、おかさん。そう、おかさんって飲み会に誘っても来ないし、自分のことも話さないしよくわからないんですけど。まあそんなおかさんを肴にコーヒーでもどうですか。いや、僕この後ひまでしょうがなくて。良かったらで、いいんですけど」
下川は焦りを隠しながら、初対面の人間に声をかけることを恥じながら、はるかともっと話をしたいという一心で誘った。
はるかは下川の下心に全く気付かず、秋人の知り合いという安心と、秋人の話を聞きたいというはるかの下心が手伝って、誘いを受けることにした。はるかは秋人のことでいっぱいで、他が目にはいらないのだ。
「今日なら仕事の後予定がないので大丈夫ですよ。あと三十分くらいで仕事は終わります」
「ほんとに、やった」
下川は正直に喜びを口に出した。
「それじゃあ、終わったらここに連絡ください」
携帯のメモをはるかに渡して、下川は店を出た。
下川は浮かれながら、軽い足取りで歩いた。気を緩めるとスキップしてしまいそうだ。
やっぱり店の名前をだしてよかった。あいつの言ったとおりだったな。あいつの……あいつ?あいつって、誰だっけ?
下川の頭に一瞬公園と、そこにいる誰かの影が浮かんだが、すぐに消えてしまった。
あれ……?
立ち止まり、ぼんやりした頭を正すように、軽くこぶしで頭を叩いた。
俺、今何か考えてたけど、なんだったかな。
下川の頭にかかっていた靄がとれてすっきりする頃には、公園の前にいた誰かの影は記憶から消えていた。