竪琴弾きと竪琴 走る
歌姫が公園でしょげている頃、セインヴァルカイトは走っていた。
粉屋の前を通り、大通りを出て、商人通りの裏道から八百屋を曲がる。
花街でもない限り、日が落ちる間際のこの時間帯は、1日の最後のかきいれ時。店先に足を止める人々の間を縫って走るのは、あまり速度が出せない。
「…ちょ、すんません。通して!」
セインは、狭い隙間に体を捻り入れ、大きな荷物を担いだ大工風の男をどうにか追い越した。
この街で一緒に行った場所を思い出しながらの人探しは効率が悪く、土地勘もないため時間ばかりかかってしまっていた。
もうすぐ辺りは夜になる。宿の主人に約束している開演時間も近い。
それよりも、うら若き少女がひとり出歩く時間ではなかった。
「あの、田舎娘。自分の村が平和ボケしてるからって、いつまでもボケボケしやがって!」
危機感のないミモザへの腹立ちを原動力に、セインは更に足を早めた。
親とはぐれた迷子の方がまだマシだと思う。
怪鳥の様に甲高く泣きわめく子どもの声は苦手だが、アレならまだ街の安全を担う警備隊の詰め所で保護されているものだった。
念のため詰め所をのぞいてみたが、その姿があるはずもな。自発的に保護されとけと悪態をついて詰め所の前を走りぬけ、ミモザお気に入りの雑貨屋にたどり着く。
覗き込んだ小さな店内は少女が好むレースやリボンに溢れていたが、見慣れた金糸雀色、人混みでも見つけられるに違いないその色はなかった。
膝に手をつき上がった息を整えながら、セインは舌打ちをする。
「……ちっ、ここも違うか」
店じまいをしている店主が汗だくのセインに驚いた顔をするが、構っている暇はない。
――どうして、セインは歌えるの。
泣きだしそうなミモザの声が耳に蘇る。
「歌えない」なんて、弱音でも言えない歌姫のプライド。そこから零れた、涙に似た音。
本当は歌えている、と言ってやれれば良かったのだろうか。
セインは目に入りそうな汗を乱暴に拭った。
けれど、「歌わせてやれない」なんて、弾き手として言いたくはなかった。
ミモザの歌は、空を目指して伸びる若木のようなものだ。
降り注ぐ音の光を、称賛する拍手の雨をめいっぱい浴びて。これからまだまだ伸びていく余地がある。
弾き手がセインでさえなければ、彼女は今頃歌姫として大きな名声を得ているだろう。
小さな村の小さな宿屋で、伸びやかに歌っていた村娘はもういない。
旅に出て――世界に触れてすぐ、まどろみから目覚め羽化するように才能の翅を広げた歌姫は、淡く消える初恋も、煮えたぎる恋着も、炎のような愛憎さえも、歌に乗せ描くことができるのだ。
(……歌わせる音が、俺の奏でる紫弦の竪琴でさえなければ、だけどな)
まるで、互いの足を引っ張り合うような状況。
つまづく小石から目を反らしたのは、ふたりとも。
「あいつ、本気でどこ行ったんだ」
ぐるりと街の名所や店を1周駆けて、定宿の前まで戻ってきてしまった。
宿の1階で夕食の準備をしている女将に尋ねても、ミモザの姿は見ていないという。
「あらあら、セイン。雨にでもあったみたいにずぶ濡れじゃないのー」
おっとりとした女将が、タオルを探しに行こうとするのを止めて、
「演奏前の準備運動中なんで、女将さん」
気にしないで、と手を振った。
思い当たる場所は全て探したが、その姿は全く見当たらない。
こうしてる間にも、紫弦がいう「無頼の輩」に絡まれているかもしれない。
竪琴の予知など聞いたこともないが、相手は不思議を秘めた伝説の魔器である。その上、目をつぶるにはミモザの前科もありすぎた。歌姫を強引に部屋へ連れ込もうとする酔客とのトラブルは数えきれないほどにある。
焦りばかりが募って、壁のひとつでも殴ろうと拳を握った時、
――ほろん。
その耳をかすめるように、小さな音が聴こえた。
セインにとっては聴きなれた音。星が瞬くような、といわれる甘い音色。
いつも自分が奏でる……奏でさせられている音だ。
――ほろん。
小さな、けれど決して聴き逃せない音。星彩の音色。
――ほろん。ほろん。
方角を示すように、ゆっくりと離れて行く幻音に、セインは顔をしかめる。
「野郎、元凶のくせに生意気な」
けれど、心当たりを探しつくした今、紫弦の持つ不思議の力に頼るしか道はない。
腹立たしいあの竪琴は、「ミモザの指輪を辿る」と言っていた。
持ち主として認められたセインでも、さっぱりとわからない理屈だが、あの竪琴は嘘は言わない。仕組みがわからずとも、ミモザを見つけるという結果さえ出せれば十分だった。
茶褐色の髪をいらだち混じりにかき混ぜる。
見上げる空には、すでに小さな星が輝き始めていた。時間はない。
「――わかった。さっさと連れていきやがれ」
ため息とともに苦く吐き出すと、導くように零れる音を辿って再び走り出す。
たどり着いた先は、大通りに面した広場だった。
公園を囲う石壁の近く。小さな長椅子の近くに、見慣れた背中を発見してセインはほっと息をつく。
金糸雀色のやわらかな髪が、夕陽を映して橙色に輝いている。
小さな肩。……彼女は小さな少女だった。そう、彼が思うよりも、もっと。
何度かためらってから、セインは彼女の名前を呼ぶ。
「――、ミモザ」
かすれた低い声、まるで鴉のようなと言われる自分の声は、緊張のためにいつもより聞き取りにくい。
振り向くミモザの表情が予想できなくて、セインは戸惑った。
(もしも泣いていたら――)
「……セイン?」
驚きに菫色の瞳を丸く見開いた彼女が、あたり前のように自分の名を呼ぶ。
「やっと見つけた」
セインは心の底から安堵の息をついた。