歌姫と竪琴弾き ふたを開ける
木の椅子に音を立てて座ったミモザは、腕を組んでふんぞりかえる。
つんと反らした顎。
まるで悪役のように見下ろす挑戦的な目が「さぁ歌ってみやがれ」と言っていた。
納得しないミモザが、セインに要求したのだった。
「だったらセインが歌ってみせなさいよ」
セインは深く深く深く深く、溜息をついた。
「何でこんなことに」
彼は歌い手ではない。それは掠れた声質だけではなく、技量の問題だった。
ミモザも恋歌が歌えないわけではない。ゆるく切ない恋心も、燃えるような激しい思いも歌い分けることができた。ただそれは、伴奏者がセインでなければ、という条件がつく。
セインはそれを教えたくなかった。この時ばかりは手の中の紫弦の竪琴を煩わしく思う。
低くぼやいた声を聴きつけた観客が、コツコツとテーブルの端を叩き、早く歌えと催促をしてきた。
苛々と尖った声がその可憐な口唇から飛び出る前に、竪琴弾きは弦をゆるく爪弾く。
ほろんと鳴る音の一粒に、ミモザが小さく息を飲んだのが見えた。
セインは静かに竪琴へ目を下ろす。
たった小さなひとつの音で、歌姫は口をつぐみ、身を任せ、そして歌う。彼女はきっと、他の誰より紫弦の竪琴を愛している――おそらく当の弾き手よりも、ずっと。
「始まりより早く 歌をうたおう」
セインは、囁くように言葉を乗せた。
ミモザは菫色の目を見開いた。歌い出しでわかってしまう。
低く掠れた声に背筋がぞくりと震えるが、決して不快ではなく……それは切ない恋の歌だった。
普段のセインからは考えられないくらい丁寧で繊細な言葉が、竪琴の音色に沿って甘く流れる。
紫弦の竪琴はいつもと同じように、胸に沁み入る音で鳴っていた。高鳴る鼓動には、伸ばした指先が星に触れそうな期待に似た苦しさ。
たやすく彼女を絡め捕るそれを紛らわせようと、息を詰める。この音は、ミモザが歌う時と変わらないはずなのに――
(でもセインは私みたいに、音に飲み込まれてない……)
自覚はあるのだ。恋の歌で、竪琴に惹きこまれすぎて、歌を見失ってしまうことを。
寄り添う音は香り立つように甘く感じられて、彼女の鼓動は勝手に高鳴った。
幼い頃からずっと憧れていた紫弦の竪琴への想いに飲み込まれてしまい、結果ただ慕うだけの、稚拙な恋の歌になるのだった。
まるで初めての恋をしてるみたいね。お伽噺みたいな、そんな恋の歌。
そう言ったのはミモザの歌に瞳を輝かせる少女と、色あせた思い出に目をつぶる大人だった。
普段から遠慮とは無縁のセインは、音が少し外れただけでも口うるさいのに、この事だけは言わない。
そのことに気付いたのはずいぶんと前のことだった。セインはなぜ黙っているんだろう。いつものけんかのように容易くぶつければ良いはずなのに、ミモザはそれをできずにいる。
手のひらで覆い隠し、それでも指の隙間からこぼれる不安に、気がつかないふりをしている。
調べに乗る歌声は、技巧で言えば稚拙で、その声質も決して歌には合っていないけれど。
ミモザが歌っても、こんなに心へ訴えかける歌にはならない。その確信があった。
いつの間にか膝の上で組み合わせた両手の指。右手の人差し指の指輪を抑え、爪が白く映るほど強く握りしめる。
この泣きたい気持ちが、甘く響く音の影響なのか思った以上に巧みな彼の歌に対する悔しさか、それとも胸に巣食う恋にも似た欠片なのかも……わからない。
「はちみつより甘い真珠の粒が 波間に溶けて泡になる前に どうか」
目を伏せていたセインが、視線を上げて観客を見た。
紺色の瞳が、ミモザを真っ直ぐとらえる。彼女は指先ひとつ動かせなかった。
「声に出せない あいの言葉 あなたに届ける 終わらない歌」
最後のメロディを竪琴が繰り返して、名残惜しむような和音だけが残る。
舞台で演奏すれば拍手喝采は間違いなかったが、ミモザは手を叩き讃えることはできなかった。
「……どうして?」
ぽつり、と落とされた声は涙に似た音がした。
演奏を終えたばかりのセインが、怪訝な顔をする。
「どうしてって、何が」
「どうして、セインは歌えるの」
「……歌えてねぇよ。声量も技巧も表現力も、商売道具には――」
「そんなことない!」
ミモザはかぶりを振った。
思いがけない強い声に、セインが口をつぐむ。
「そんなことないよ、だってセインの歌は心に響くもの!」
ぎゅっと握りしめた小さな拳を、自分の胸に当てる。どうしようもなく、震えるから……。
隠すように俯くミモザは、彼が言葉を探すように瞳を揺らせたに気がつかない。
「……ミモザ」
傍らの机に竪琴を置いたセインが、彼女に歩み寄る。
「――頭、冷やしてくる」
彼の手が肩にかかる前に、ミモザは弾かれたように走りだした。
ひとり部屋に取り残されたセインは、伸ばした手を引き戻して目を覆う。
苦々しい気持ちで舌打ちをした時、机に置かれたままの竪琴がほろんと小さく弦を揺らした。
弾き手のない竪琴は、途切れ途切れの音をひとつ、またひとつと震わせる。星彩のように瞬き、いくら手を伸ばそうとも人が触れることは叶わない音だった。
見えない指が緩やかになぞられる音の行方は、先ほどセインが歌った恋の歌。
不可思議な演奏を続ける竪琴を、彼は腕のひと振りで黙らせた。
音色の代わりに青銅の花瓶のような鈍い音を立て、紫弦の竪琴が床に転がるが――
ほろん。
――転がった先でなおもしつこく曲を奏でる竪琴を、今度は無言で踏みつけた。
更に不思議は続き、セインの靴は竪琴を素通りして床に着地する。
靴の下で幻のように掻き消える竪琴。セインは舌打ちをした。
「勝手に出てくんじゃねぇ」
低い声の本気の恫喝に、答えたのは星彩に似た声。
「主の口は、本に曲がりきっておる」
幻のように現れたのは、銀色の人型だった。高名な画家でも筆を投げ出すほどに整った眉目は、女性的なたおやかさを湛え、しかし若木の如く伸びた背はセインよりも高い。
ゆったり広がる袖を典雅に持ち上げ、笑みを浮かべる口元を覆う。真っ直ぐ流れる光の滝のような白銀の髪に、紫紺色のひと房があった。
「うっせぇ黙れ消えろ出てくんな」
「まったく……。けれど奏すれば恥じらう乙女にも似た明白さ」
「紫弦っ」
「なれば、常に奏でておけばよかろうて」
セインの怒気など綺麗に無視して、紫弦と呼ばれた男はにこりと笑ってみせた。
「我が主。歌姫に逃げられた気分はどうか?」
作りものよりも秀麗な相貌を忌々しく睨みつけるセイン。
「消えろ諸悪の根源」
「それは八当たりというもの」
「てめぇこそ、何の恨みだ!?」
「まさか我が主。忘れてはおるまい?」
微笑む薄い唇。しかし紫紺の瞳は深い色を宿したままだった。
セインは顔をしかめた。自分を主という割には扱いに難い相手が、何を言い出すかと身構える。
「7日前、歌姫に触れる不逞の輩を払うのに、我を投げたであろう」
「………」
「まさか主。忘れてはおるまい?」
ひくりと頬を引き攣らせる紫弦。
「……おお」
思い出したセインが、ぽんと手を打った。
それは7日前の夜。
ひとつ前の宿場町で歌っていた時だった。しつこく絡む酔客にミモザがキレて必殺の蹴りを見舞う前に、偶然手にしていたモノを投げたのだった。
その時ガツンと良い音を立てて男をのしたのは、セインが弾く紫弦の竪琴。
「お前、どこまでも頑丈なくせに何言ってんだ」
むぅと拗ねる姿に、セインはぞっとした。いくら美しい姿といえ、相手の性別は男である。
「……気持ち悪ぃ。攻城兵器の集中豪雨にも耐えきるヤツの心配なんかしねぇよ」
とにかく丈夫な竪琴なのである。そうでなければ、幾世にも渡って伝えられる神器とはなれない。
「主よ、強度の問題ではない。我を粗末に扱わぬと約定するが良いぞ」
「ヘコミもしなかったくせに」
「否。我の美しき第2弦に汚れがついた」
譲らぬ紫弦は、さぁ約定を、と迫る。
「さすれば歌姫の処へ案内しようぞ」
「ああ? お前に居場所がわかるのか?」
「如何にも。歌姫の右手の我の指輪。あれを辿ろう」
「待て、あれは俺がやった指輪でお前んじゃねぇだろ」
さらに正確に言えば、張替えた弦を欲しがるミモザがあまりにしつこくて、やむを得ず分けてやったものなのだが。
「我の弦に半輝石を編んであろう」
だからわかる、と紫弦は笑む。
「歌は言葉を超え、時を超えて通ずるもの。まして我が一部を身に纏う歌姫の居場所を知るのは容易きこと」
紫弦はセインを誘うように手を差し伸べた。
「さぁ、主よ」
差し出された白い手の平を見たセインは、瞬きの間に迷いの色を浮かべる。
けれど、結局かぶりを振った。
「ミモザだってガキじゃないんだ。そのうち自分で帰ってくるだろ」
「そうであろうか」
作り物めいた造作の瞳が、夕陽を受けて柘榴色に染まる。弓なりに持ち上がる唇。優美に広がった袖が、音もなく宙を翻る。
「たとえば、その身に危険が忍び寄れば」
「紫弦? ミモザに何かあったのか!」
「無頼の輩は何処にでも」
ほろん、と竪琴の和音が響く。
紫弦を名乗る男の姿は、幻のように掻き消える。
音の余韻も消える頃には、竪琴を持たない旅歌いがひとり、日暮れの街に駆け降りた。