9 体育館、2人の間のバスケットボール。
昼休みの体育館は、静かだった。
外では駆け回って遊ぶ生徒の笑い声が響いているというのに、ここにはボールの転がる音も、掛け声もない。
新宮あまねは、ほんの少し肌寒い空気を感じながら扉を押し開けた。
「野木、早くしてよ。昼休み終わっちゃう」
「わかってるって。忘れ物取りに来ただけだから」
野木駿介は軽い足取りで更衣室の方へ向かう。
あまねはその後ろを追いながら、苦笑いを浮かべた。
――まったく、またバスケ部のユニフォームでも置きっぱなしにしたんでしょ。
やがて野木が手にバスケットボールを持って戻ってくる。
あまねが怪訝そうに眉を寄せると、彼はニッと笑った。
「なにそれ。忘れ物ってボール?」
「いや、これはついで」
「……は?」
野木はドリブルをしながら、あまねの前にボールを差し出した。
「ちょっと、シュートしてみてよ」
「はぁ? 無理よ。私そういうの――」
「元・女バスだろ〜? いけるいける!」
からかうような声に、あまねの頬がぴくりと動いた。
あの頃の記憶が、少しだけ胸の奥をくすぐる。
けれど、今はもう関係ない――そう思いながらも、彼の視線に押されて、仕方なく両手でボールを受け取る。
「……ちょっとだけだからね」
「お、やったね」
軽く構えて、リングを見上げた。
深呼吸をひとつして、シュート。
ボールは、リングの手前で落ちた。
あまねは苦笑し、眉をひそめる。
「ほら、言ったじゃない。無理だって」
「でも綺麗だったけどなぁ、もう一回!」
「もうしない!」
ぷいっと顔を背けたあまねに、野木はおかしそうに笑った。
床を転がるボールを拾い上げ、そのままシュート。
綺麗な弧を描いて、ネットの中に吸い込まれる。
「……何よ、自慢?」
「違う違う。ただ、懐かしくて」
「懐かしい?」
「ほら、中学のときさ」
その一言で、あまねの動きが止まった。
ふと目を細め、遠くのゴールを見つめる。
記憶が、静かに巻き戻っていく。
* * *
――あれは、中学一年の春だった。
新しい体操服の匂いと、体育館の埃っぽい空気。
友達に誘われて、あまねは女子バスケ部に入部した。
“みんなでやれば楽しいよ”という言葉を信じたかった。
けれど、初日から体は思うように動かない。
ボールを追いかけるたびに胸が苦しくなり、咳が止まらなくなる。
「だ、大丈夫? 新宮さん」
「うん……ごめん、ちょっとだけ……」
そう言いながらも、何度も咳込む。
周囲の視線が気になった。
自分だけが遅れていること、自分だけができないことが、何より怖かった。
――なんで、私だけ。
部活の後、ひとりで体育館の隅に座り込むことも多かった。
あの頃のあまねは、いつも自分を責めていた。
そんなある日の放課後。
あまねはバスケットボールを横に置いて、隅の方にちょこんと座っていた。チームメイトは各自、休憩や自主練に励んでいる。
すると突然、隣の男子バスケ部のコートから「おい」と声が飛んだ。
顔を上げると、こちらをじっと見つめる少年が立っていた。
汗をかいた額に髪が張り付き、手にはボール。
「大丈夫?」
その声は、思っていたよりずっと優しかった。
「え、あ……うん」
あまねが立ち上がると、少年は少しだけ笑った。
まだ声変わりも終わっていないような、幼さの残る笑み。
「なんか、めっちゃ咳してたから」
「平気。私、喘息なの。ちょっと走るとダメになるんだ」
「そっか。でも、無理すんなよ。ちょっとずつでも、やってれば上手くなるし」
「……本当?」
「うん。俺がそうだからな。最初はボールもまともに扱えなかった。でも、続けてたらちょっとだけ上手くなった」
その言葉に、あまねは少しだけ笑った。
その少年――野木駿介は、ボールを軽く放ってみせた。
ボールはリングに当たって跳ね返る。
「ほら、まだ外すし」
「ふふ、確かに」
「だからさ、その、お互い頑張ろうぜ」
その笑顔が、眩しく見えた。
胸の奥で、何かが温かく灯った気がした。
* * *
――記憶が戻ると、体育館には静かな昼の光が差し込んでいた。
あまねはぼんやりと、ゴールを見上げる。
「……あのときのこと、覚えてたんだ」
「そりゃ覚えてるよ。あのあとすぐ、お前泣きそうになってたじゃん」
「泣いてないし」
「本当かなぁ〜?」
野木が笑いながら言うと、あまねは小さくため息をついた。
けれど、その口元にはほんのり笑みが浮かんでいる。
「結局あの後、すぐバスケ部辞めたよな」
「まぁね。身体と相談した結果」
「うん、それもアリだな」
野木は少し間をおいて、真面目な声で続ける。
「まぁこれからも、無理せず、だな」
不意にそう言われて、あまねはピタリと止まった。
顔を上げると、野木が穏やかに笑っている。
どこか、あの中学生の頃の面影をそのままに。
「……分かってるわよ」
その声は少しだけ柔らかくなっていた。
2人の間を、ボールが転がっていく。
昼の光が差し込み、体育館の床に淡い影を落とす。
その静かな空間に、あまねの小さな呟きが溶けた。
「――懐かしい、本当に」
野木は何も言わず、ただ頷いた。
ボールを拾い上げ、リングへと軽く放る。
ボールは再び、綺麗な弧を描いて吸い込まれた。
その瞬間、あまねの胸の奥に、あの春の匂いがよみがえった。
そして、自分でも気づかないほど小さく、微笑んでいた。
〜小ネタ〜
・中1のときの野木は今より小さくて可愛かったそうです。あまねは、あの頃の野木を返せと嘆いています。




