8 過去、現在、私たち。
夜の八時。
都内の芸能事務所「エテルネルプロダクション」の一室では、まだ明かりが落ちていなかった。
会議室の長机を挟み、数人のスタッフがタブレットや資料を前にしている。
その中で、菊田さくらは姿勢を崩さず座っていた。白いブラウスの襟元が、少しだけ窮屈に感じる。
「次の撮影スケジュールは、夏休み入ってすぐだから。学校との両立、無理しないように」
マネージャーの木村が穏やかな口調で言った。
「はい、大丈夫です」
さくらは微笑んで答える。
その笑顔が、ほんの少しだけ作りもののように見えたのは、長く彼女を見てきた木村だけが気づいた。
会議が終わり、スタッフたちが次々に部屋を出ていく。
さくらも軽く頭を下げて扉を開けた。その瞬間、廊下の明かりの下に、缶コーヒーを片手に座る男の姿があった。
「ヤッホー、さくらちゃん」
柔らかい声。
見ると、俳優の森下圭吾が笑っていた。
ライトブラウンの髪を無造作に整え、無遠慮なほど自然な笑みを浮かべている。
「森下さん……こんばんは」
「会議? お疲れさま。最近、学校はどう?」
その言葉に、さくらは目を瞬かせた。
思いがけない言葉に、ほんの少し間をおいてから、小さく答える。
「……楽しいです。普通の学校生活、久しぶりで」
「そう、普通ねぇ……。そういう時間、大事にしなよ。後で振り返ると、案外一番きらきらしてるから」
森下の声は軽い。けれど、どこか本気の響きがあった。
だが次の瞬間、空気が変わる。
「そういえば――前の学校、芸能学校だったよね。なんで転校したの?」
さくらの足が止まった。
息が、浅くなる。
頭の奥に、ざらついた声が蘇る。
――可愛くない。
――ウザいなぁ、あんた。
脳裏に、あの子たちの笑い声がよみがえる。
「……」
答えられない。
俯いたその肩に、木村の声が飛ぶ。
「森下さん、その話はやめてください。今は関係ないでしょ」
「ごめん、ごめん。気になっただけ」
森下は両手を上げて苦笑いしたが、視線だけはさくらから離れない。
そして、わざとらしく何気ない調子で言った。
「東堂結衣ちゃんと仲良かったって本当? この前のテレビでも、君のこと話してたよ。懐かしいって」
その名が出た瞬間、さくらの体が固まった。
唇の端が、かすかに震える。
「……そう、ですか」
顔を上げないまま絞り出した声は、掠れていた。
木村が、険しい表情で森下を睨む。
「やめてください。悪趣味です」
「別に悪気はないって」
「もういいわ。行こう、さくら」
木村はさくらの肩を軽く押して歩き出した。
廊下の奥、エレベーターへと向かう背中が小さく揺れる。
さくらは何も言わなかった。ただ、拳だけを強く握りしめていた。
――東堂結衣。
かつての友達。
けれど、いちばん残酷な言葉を吐いた人。
彼女の笑顔を思い出すたび、胸が冷たくなる。
***
一方そのころ、住宅街の一角にある佐藤家。
テーブルの上には、父と息子、二人分の夕食が並んでいる。
カチカチと時計の秒針が鳴り響く中、箸の音だけが静かに続いていた。
「テストはどうだった?」
父の声は低く、無駄のない響き。
「……まあ、悪くはないと思う」
「悪くないじゃなくて、完璧を目指せ。甘えるな」
「……ごめん」
短く答えた晴大は、味噌汁をすすり、視線を落とした。
父の口から、次の言葉が落ちる。
「それと――お前、最近絵を描いてないな」
晴大の手が止まった。
箸の先で豆腐をつまんだまま、少しだけ顔を上げる。
「……絵なんて、描いても意味ないから」
自分でも驚くほど、あっけなく出た言葉だった。
けれど、その瞬間、胸の奥がぎゅっと痛んだ。
父は何も言わずに頷き、食器を片づけ始めた。
晴大は無言のまま立ち上がり、食器を片付け終えて自室に向かう。
***
静かな部屋。
机の引き出しを開けると、奥にしまってあったスケッチブックが顔を出す。
それは、遠い昔、母が晴大に渡したものだった。
『自分の思うままに描いてね』
柔らかな声が、ふと脳裏に響く。
あの頃の記憶が、痛いほど鮮明に蘇る。
――でも、描いたところで何も変わらない。
晴大はスケッチブックを閉じ、ため息をついた。
代わりに、学校のカバンからもう一冊を取り出す。
その表紙には、少し汚れた鉛筆跡。
開くと、そこには、菊田さくらの横顔が描かれていた。
文化祭の準備で笑っていたときの表情。
無意識のうちに、何度も線を重ねていた。
――あの人は、どんな気持ちで笑ってたんだろう。
スマホを取り出し、検索窓を開く。
指が「きくたさくら」と打ち込む。
予測変換の候補に、指先が止まった。
そして、すぐにため息をつき、画面を閉じる。
「……同級生を調べるとか、変だよな」
小さく笑って、スマホを机の上に置いた。
――画面に映る彼女ではなく、目の前の彼女を見よう。
そして、自分も自分自身を――
――見よう。
〜小ネタ〜
・「エテルネルプロダクション」→菊田さくら、森下圭吾などが所属する大手芸能事務所。若手俳優を中心にドラマ、バラエティ、SNSなど多方面に力を入れることで有名。
・菊田さくらは今の事務所に中学3年生の頃に入所しました。緊張しながら廊下を歩いていると、明らかに下心ありありな笑顔で近づいてくる若い男性が……!!
そう、それが森下圭吾でした。




