19 誤魔化してんじゃねぇよ。
文化祭まで、あと一週間を切っていた。
放課後の教室は、慌ただしい声と紙の擦れる音で満ちている。誰かがペンキをこぼし、誰かが笑い、誰かがため息をつく。そんな喧噪の中に、いつものクラスの空気があった。
あまねはホワイトボードの前で進捗を確認しながら、手元のプリントをめくっていた。
相変わらず仕事をサボる人もいるが、注意する暇もない。誰か一人に構う余裕がないほど、準備は大詰めを迎えていた。
そのとき、机の端で作業をしていたさくらが申し訳なさそうに声をかけてきた。
「これから仕事だから抜けるね……ごめん」
「ああ、うん!さくらも仕事頑張って!お疲れ様!」
あまねは一瞬振り返って明るく声を張った。
「うん、ありがとう!」
さくらは少し笑って手を振ると、鞄を持って教室を駆けて出て行った。
その姿を見送った野木が、ぽつりとつぶやく。
「……さくらちゃん、相変わらず可愛いなぁ」
「ちょっと、手が止まってる!」
「ぎゃふっ!」
即座にあまねの拳骨が飛んできて、野木は机に突っ伏した。
「いってぇ……!手加減しろよ委員長!」
「文化祭前で忙しいのよ。集中!」
「は、はいぃ……」
そんなやり取りに、教室の端から笑いが起こった。
──その頃。
晴大は職員室を訪れていた。
ドアをノックすると、すぐに担任が顔を上げた。
「ああ、佐藤君。ちょっと外で話そうか」
「えっと……?」
何が起こるのか分からず、晴大は少しそわそわしながら廊下に出た。
二人で人気のない中庭へ向かう。秋の気配を含んだ涼しげな風が、ゆっくりと吹き抜けた。
「あのね、君の進路についてなんだが……」
「え……?」
思いもよらない言葉に、晴大は目を瞬かせる。
「どうして急に……?」
「あ……まぁ、ね」
担任はどこか言葉を濁すように笑った。
「五月に二者面談をしたのは覚えているかい?」
「……はい」
「そのとき、君は“東大理三に行く”って言っていたね。それは今も変わらずかい?」
「それは……」
言葉が喉の奥で止まった。
担任はそれを見て、ゆっくりと頷いた。
「うん。君の成績なら十分それも可能だ。でも、今日は“可能・不可能”の話をするために呼んだわけじゃなくて」
晴大は思わず顔を上げる。
担任の瞳は真っ直ぐで、どこまでも誠実だった。
「君が本当にしたいことは、他にあるんじゃないかと思ってね。もし、君が本当に望む進路があるなら、私たちは全力でサポートする」
その言葉に、晴大の胸が少しだけざわめいた。
目を伏せながら、静かに息を吐く。
「……ありがとうございます。でも、自分でもよく分かんなくて。自分は、何がしたいのか」
「そうだね。そういうもんだよ」
担任は優しく笑った。
「焦らなくていい。ゆっくり、自分の将来を見つけていこう」
「……はい」
しばらく沈黙が流れた。
風が木々を揺らし、落ち葉が二人の間をかすめていく。
「……理三に行くってのは、君の希望かい?」
「あ……」
少しの間を置いて、晴大は小さく首を振った。
「……父の希望です」
「それで良いのかい?」
すかさず担任が尋ねる。晴大は困ったように苦笑した。
「……分からないです。恥ずかしい話、これまで自分で自分のこと考えたことがなくて」
担任は晴大を静かに見つめる。
「漠然と、自分のやりたいことを自由にやりたい、そうは思うんです。でも、きっと上手くいかないんだろうなって。」
晴大は一つ一つ言葉を紡いでいく。その言葉の節々には自信の無さが表れているようだった。
「……きっと俺は、言われた通り勉強するのが一番良いんです」
晴大は苦しそうに笑ってみせた。
その顔を見た担任は、眉を顰めてじっと見つめ返した。
「……そんなことはない、そう言って欲しいか?」
晴大はハッとして顔を上げた。
そこにはただ、こちらを真っ直ぐと捉える瞳があった。
「佐藤、これはお前の人生だから、最終的に決めるのは自分だ。他人が何を言ったところで、お前が嫌だと言ったらそこまでだ」
そして担任は一息吸って、吐いた。
「他人に何かを求めるな。他人というのはな、親も含めて、お前の人生の責任を取ることは無い。親がこう言ったから、そんなの理由にならない」
担任の言葉は鋭く晴大の胸に刺さった。
晴大はしばらく何も言えず、黙って地面の小さな石ころを眺める他無かった。
その様子を見て、担任は少し笑ってみせた。
「佐藤は絵が上手なんだってな? 文化祭でもほら、背景を頑張ってくれているって」
「はい……そうですね……」
「それを何か将来の仕事にするとかは?考えてないのか?」
「え……?」
担任は何気なく言葉にしたつもりだった。
だがそれは、確実に晴大の心を動かした。
「あ……はい。はい、そうなんです。俺、絵が好きで、だから、その、俺、」
晴大は胸に浮かんだ(それ)を言葉にしようと口を開いた。だが、喉でつっかえて上手く言えなかった。
「……でも、やっぱり無理です」
晴大は(それ)を飲み込んだまま、無かったことにしようと試みた。
だがそれを、担任が許すはずもなかった。
「……そうか。本当に?それで良いの?」
その静かな言葉の圧に、晴大は思わず唇を噛み締めた。
「……良くないです。全然、良くないです。」
晴大は小さく深呼吸をし、呼吸を整えた。そして、言った。
「俺、絵を学びたいです。」
担任に少し気圧されながらも、晴大はその瞳をしっかりと見返す。
「……はい、わかりました」
担任は穏やかに頷いた。
──風が吹いた。
夏の終わりと、秋の始まりの匂いがした。




