17 他人だけど、他人なので。
時刻は夜八時を少し回っていた。
夏祭りの余韻がまだ肌に残るまま、佐藤晴大は玄関の扉を静かに開けた。家の中は、祭りの熱気が嘘のように冷たく沈んでいた。
「……ただいま」
その声が、妙に響いた気がした。
靴を脱ぎ、リビングへと足を踏み入れる。そこには、灯りのもとで静かに椅子に座る父親の姿があった。
無言のまま、こちらを見ている。
――あ、まずい。
晴大の背筋に小さな冷気が走る。
何事もなかったように振る舞おうとしたその瞬間、低い声が空気を裂いた。
「遅かったな。……楽しかったか?」
その一言に、晴大の心が止まる。
一瞬だけ、「あれ、許してくれるのか」と錯覚した。けれど次の言葉で、その淡い希望は音を立てて崩れた。
「……勉強もしないで、よく楽しめたな?」
晴大は、息を呑んだ。
ゆっくりと顔を上げると、父親の表情は微動だにしない。
怒鳴り声ではない。けれど、その静けさこそが何より怖かった。
「……勉強は、行く前にもしました。これからも、します」
声が震える。
父親は、淡々とした口調で言葉を重ねた。
「当たり前だ。お前が遊んでいる間にも、ライバル達は勉強しているんだ」
その足音が、ゆっくりと近づいてくる。
硬い床に響くたびに、晴大の心臓がひどく跳ねた。
目の前で、父親が立ち止まる。重たい影が覆いかぶさるように、晴大の身体を包み込んだ。
「お前が俺の忠告を無視して勝手な行動をとるなんて、初めてだな?……どうした、悪い友人にでも脅されたのか?」
「……いえ」
「そうに決まってるだろう!?」
父親の声が頭のすぐ上に響いた。それが余計に怖かった。
「俺の子が、そんな親不孝者なわけないだろう?」
喉が詰まる。反論なんてできなかった。
何を言っても、どうせ届かない。
ただ怖くて、動けなかった。思考が真っ白に消えていく。
「……勉強、してきます」
その一言を絞り出した途端、父親の口元がふっと緩んだ。
「そうか、頑張って」
その笑顔が、なぜかいちばん痛かった。
晴大は逃げるように自室へと向かった。
扉を閉める音がやけに大きく響く。
そのままベッドに顔を突っ込み、枕をぎゅっと抱きしめた。
――嫌だ、嫌だ、嫌だ……。
唇を噛んでも、堪えられなかった。
止めようとしても、勝手に涙が溢れた。
目を閉じれば、父親の無表情と笑顔が交互に浮かぶ。
もう何が本当の「正しさ」なのか、分からなかった。
***
――そして、現在。
白いカーテン越しに夕方の光が差し込む保健室。
晴大の話を聞き終えたさくらたちは、しばらく言葉を失っていた。
「そんな……」
新宮あまねの声は、かすれていた。
野木駿介は拳を握りしめながら、うつむく。
「そんな……お前さぁ……どうしてもっと早く……」
悔しそうに唇を噛む。怒りなのか悲しみなのか、自分でも整理できない表情をしていた。
さくらは、拳を強く握った。
「……許せない」
その声は小さいのに、はっきりと響いた。
しばらくの沈黙のあと、あまねが穏やかに言った。
「……ありがとう。教えてくれて」
晴大は、小さく頷いた。
「……だから」
その声は震えていたが、どこか決意を含んでいた。
「だから、もう俺のことはほっといてください。俺、皆んなが妬ましくて、まともに会話なんてできない」
その言葉に、さくらがすぐ反応した。
「……嫌だ!! そんなこと言われてほっとくなんて最低だよ!」
「そうだぞ!お前をほっとくのが最善策だとは思えないしな!」野木が続く。
しかし、晴大は首を横に振った。
「……ありがとう。でも、他人の言葉なんて信用できない」
場の空気が凍りつく。
晴大は少し間を置いて、静かに続けた。
「菊田さん、前に母親の話しましたよね?」
「え、あ、うん。絵を教えてくれた……」
「……そうです。あの人もね、同じこと言ってくれてたんです。『いつでも味方だから』って。でも、結局は嘘だった。突然、僕を置いて出て行った」
誰も言葉を返せなかった。
張り詰めた沈黙の中で、晴大の手が小さく震えていた。
その手を――さくらが、そっと掴む。
「君が信じなくても結構です!」
いきなりの強い口調に、三人とも目を丸くした。
「いや、そうよね!?信じてた人に裏切られるのはショックよね! だから別に、私たちを信じなくても良いですよ?別に、ね!」
さくらは真剣な顔のまま言い切る。
「でもね、私たちは勝手に側にいるから! 君が信じようが信じまいが、どうでもいい!!」
晴大は、驚いたように目を見開いた。
「だからね、ずっと一緒にいるから!」
さくらは続けた。
「君が可哀想だからじゃないよ! 私がそうしたいからだからね!」
鼻息を荒く言い切るさくらの姿に、晴大は思わず
――笑ってしまった。
その笑顔は、涙の後にようやく見えた、小さな光のようだった。
「そうよ」とあまねが微笑む。
「さくらは急成長を遂げたんだからね。佐藤君、貴方もしっかりしなさい。1人で抱え込むのが本当に自分の為になるのか、考えるべきよ」
「そうだそうだ〜! ちょっとぐらいクソガキ晴大になった方が良いと思うぞ!!」と野木が笑う。
晴大は少し照れくさそうに、でも確かに笑っていた。
「……うん」
その後、四人は並んで保健室を出た。
夕暮れの光が校舎の窓を金色に染めている。
教室に戻ると、クラスメイトたちが心配そうに駆け寄ってきた。
「佐藤、大丈夫だったか?」
晴大は、少し驚いたように目を瞬かせる。
でもすぐに、柔らかく笑って――
「うん、大丈夫」
その「うん」は、どこか新しい一歩の始まりを感じさせるような、まっすぐな声だった。




