開示-壱-
週明けの日。
今日は朝からパラパラと雨が降っていた。
「そういえば、天気予報で豪雨かもって言ってたっけ。」
そう呟き、旅館の窓から外を眺める1人の女性。
彼女の名は芙蓉槐。
この旅館【都雅】の支配人代理だ。
今日から旅館は貸切となる為、朝もゆったりと時間が流れている。
忙しくなるのはお客達が来てから。それまではコーヒーの味でも楽しもう。
そう思いながらカップに口をつけた時、不意に彼女の後ろから声がかかる。
「おはよう芙蓉君。今日の準備はもう平気なのかね?」
「っ・・。おはようございます、支配人。準備は万全です。」
振り向く事をためらい、顔を背けたまま挨拶する。
槐に声をかけてきた男、旅館の支配人で、
名は二之宮成治と言う。
彼女の事を余程気に入っているのか、
二之宮は仕事以外でもしょっちゅう声をかけてくる。
無論彼女も、それが好意ではなく己の欲望を満たす為だと知っている。
だからこそ、あまりにも馴れ馴れしいこの上司には、心底イライラしていた。
「先日のような、朝からよろしくない言葉を私に言うのは、ご容赦下さいね。」
槐は吐き捨てるように伝えながら、背後の気配を無視してコーヒーを飲む。
誰の目から見ても、早く何処かへ行ってくれという気持ちが伝わる程だ。
その意を汲み取ったか否か、支配人は溜め息をついてから返事を返す。
「そう邪険にしないでおくれ。
・・まぁ私はちょっと用事があるのでね。午前は任せて失礼するよ。」
「えっ・・・?」
意外な返答に思わず振り返った。
いつもの支配人なら、邪険にしようが付き纏ってくるのに。明日は槍でも降ってくるのか?
「あと1時間もしないうちにお客様がご到着なさる予定ですが、それまでには?」
「すまないが戻れないと思う。お客様への対応は、君と百瀬君に任せるよ。」
百瀬君とは、槐と同じ立場であるもう一人の副支配人のことである。
元々都雅にいた副支配人は百瀬だけだったのだが、
女性の視点からの意見を密接に聞き入れたいという
支配人たっての願いで、槐が選ばれたのが一年前の話。
以降百瀬は元から呼ばれていた相性で、槐は代理と呼ばれるようになったのだ。
「今日は料理長たってのご希望で、都雅では初めての貸切なのですよ。
もっと支配人らしい自覚をお持ちになって下さい。」
槐は目線を合わせ、上司だと構わずハッキリと告げる。
真面目・誠実な仕事をこなす彼女にとって、
職務放棄とも見て取れる支配人の言葉は理解出来なかった。
「午後からはちゃんと仕事をするさ。それじゃ、頼んだよ。」
「あ、ちょ・・支配人!」
立ち上がって呼びかけた槐を無視しつつ、二之宮はそそくさとロビーを離れてしまった。
「・・・ふぅ。参っちゃったな。」
そう呟きながら槐はソファーに座りなおす。
今更悔やんでも仕方ない。どうしても止めたければ無理にでも止めるべきだった。
しかし普段から疎んでいる上司。
彼女からすれば、負担は増えたとしても、
上司がいないという事態のほうが遥かに精神的に楽だった。
放棄するならすれば良い。私もそのほうが楽だ。
そう思い、またコーヒーを口にする。
入れすぎた豆の、ツンとくる程の苦味が彼女を冷静にさせていた。
支配人がロビーを去って数十分後。
受付カウンター奥の暖簾をめくって、
長身強面の男性と、痩身で柔和な顔立ちの女性が出てきた。
そのうち男性のほうがソファーに座っている槐に気付き、向かってくる。
女性も後から付いてきた。
「代理、おはようございます。」
「たっくん、女将、おはようございます。」
槐は向かってくる2人に気付くとすぐ立ち上がり、会釈をしながら挨拶を交わす。
たっくんと呼んだ男性は、先程支配人が言っていた百瀬君。百瀬拓である。
女将と呼んだ女性は、都雅で勤めてもう二十年になる女将、桐生さと美。
百瀬は強面で、一見とっつきにくそうな外見をしているのだが、
実は人は見かけによらないの言葉を生き写したかのような好青年である。
いや、好中年と呼ぶべきか?
二之宮以外から”たっくん”と呼ばれ、本人も訂正を求めないので、いつの間にか
呼び方がそれで定着してしまったらしい。
槐も例に漏れず、年上にも関わらずたっくんと呼ぶことに慣れてしまっていた。
桐生は、十年程前に仲居から女将になったベテラン。
しかし支配人が女将の意見をあまり聞き入れず、ほぼ全ての事柄に対応させてもらえない
光景が目立ったりする苦労人でもある。
立場と評価があまりに伴っていないため、一見すると辛そうに見えてしまうのだが、
当の本人はそれらをおくびにも出さず、常に笑顔が耐えない。
槐から見れば、仕事上尊敬出来る人ではあるが、それ以上に人が好過ぎるという印象である。
「たっくん、支配人は午前中、用事のために対応が出来ないそうです。」
「えっ・・何故ですか?」
早速、仕事上の報告を始める槐。百瀬はそんな槐の報告第一声に目を丸くする。
「さぁ・・。用事とだけ。詳しい事は私もさっぱり。」
「そうですか・・。じゃあ、僕等だけでも頑張りましょう。」
えぇと頷き、今日の予定を話し始める。それを傍目で見ながら、桐生が
「相変わらず、たっくんは切り替えが早いのね、羨ましいわ。」
と呟いた。2人にはその言葉は耳に入らず、淡々と仕事の話を続けていた。
時刻は少し経って、現在午前十一時手前。
3人は仕事の話を詰め終え、ロビーに座りながらくつろいでいた。
「もうすぐお客様がお見えになるわね。そろそろ外へ出ましょうか。」
桐生がそう言って立ち上がる。槐・百瀬も続いて立ち上がった。
「そうですね。じゃあ主催でもある料理長を呼んできますよ。」
百瀬がそう言って厨房に向かおうとしたが、遠目から来る人物を見て立ち止まる。
「ぁ、たっくんおはよう!女将と代理も!」
そう言いながら近付いて来たのは、今百瀬が呼びに行こうとした料理長、国府田義章だ。
国府田は女将の桐生と同期である。
入ったばかりの国府田はまだ見習い同然だったが、
桐生が女将になる時、供に料理長に昇進した。
真面目な時や大事な時は丁寧なのだが、普段はとても気さくな人である。
「国府田君、丁度今たっくんが呼びにいこうとしてたのよ。」
「おぉそうだったのか。手間かけさせなくて良かったわ。」
桐生と国府田は、同期ということもあってか大変仲が良く、長く友人としてやっている。
その為お客のいない会話では、こうしてタメ口で話すことも珍しくない。
「お迎えする人は揃ったようですし、外へ出ましょうか。」
そんな2人を見つつ、槐が切り出す。皆軽く頷き、先に歩き出した槐に続く。
役者が揃いつつあることを、知る由もなく。
今回は登場する人物達の名前や、軽い背景となりました。
次回の更新は・・・恐らく不定期です。
申し訳ありません(汗)