表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
30/30

脱走と豪華な監禁生活

 祭の賑わいを背に、馬車はゆっくりと屋敷へ戻っていった。

 夜風が少しひんやりして、アリアはふわりとストールを羽織る。


 屋敷に戻ると、玄関前でキースが静かにアリアを振り返った。


「……楽しかったか?」


 その問いに、アリアはぱっと笑顔になって、スカートの裾を揺らしながら一歩前へ出た。


「はいっ!キース様、ありがとうございました! とっても楽しかったです!」


 その言葉に、キースの険しかった表情がふっと緩んだ。

「それは良かった……」

 一拍置いて、視線を少しだけ逸らしながら呟く。


「……エミリア嬢の言葉、気にしてないか?」

 キースの問いに、アリアは少しだけ目を伏せて、ゆっくりと首を振った。

「平気です。……守られている現状は、事実ですから」


 そう言って笑おうとしたけれど、その笑みはどこか寂しげで――強がりだった。


 キースは一瞬、言葉を探すように視線を逸らし、それからぽつりと口を開いた。

「……悪かったな。俺が傍にいたのに、不快な思いさせた」


 エミリア。

 祭の途中、現れた令嬢。

 アリアより少し年上で、美しく、優雅な振る舞いが印象に残っていた。


(あの人……やっぱり特別な人なのかな……)


 アリアは少し俯いてから、勇気を出して口を開いた。


「……大丈夫です。私、気にしてませんから……その、キース様の……彼女さん……?」


 ――間。


「……は?」


 キースの眉がピクリと動いた。

 まるで、とんでもない冤罪をかけられたかのように、目元がぴくぴくと引きつっている。

(違ったのかな?)

 アリアは、咄嗟に両手をぶんぶん振った。


「ち、違うんです!そ、そういう意味じゃなくて!ただちょっと……雰囲気が……あって……その……!」


 キースは数秒黙っていたが、深く息を吐くと、アリアの頭をぽんと軽く叩いた。


「馬鹿か、お前は」


「えぇっ!? 馬鹿って言いました!? ひどい!」


「……アイツとはただの顔見知りだ。勝手に決めつけるな」


「そ、そうなんですか……?」


(あんな綺麗な人なのに……本当に……?)


 少しだけ、胸の奥に温かい何かが広がっていくのを感じながら、

 アリアは安心したように微笑んだ。


「じゃあ……よかったです」


「何が“よかった”なんだか」


 キースはそうぼやきながらも、どこか気が抜けたように微笑んでいた。



 夜の静けさがようやく訪れた頃、アリアはふわりとベッドに身を投げた。

 心地よい疲れと、胸いっぱいの幸せ。


「……ふふっ、今日は本当に楽しかった……」


 グレイソン様から花贈りのストールクリップをもらったこと。

 街の光、音楽、甘いお菓子、はしゃぐ人々――

 すべてが夢みたいな一日で、頭の中はまだふわふわしている。


 灯篭の光がゆらり、ゆらりと浮かび上がり、幻想的な景色を作り出していた。人々はそれぞれの想いを紙に託し、風に乗せて天へと送り出す。


『大切な人達が幸せでありますように……』


 読み返すことはしなかった。ただ、その願いが空に届くことを信じて、そっと灯篭の底に結びつける。


 小さな囁きとともに、アリアは灯篭を放した。

 空気を含んだ灯篭はふわりと浮かび上がり、いくつもの光とともに夜空へと舞い上がっていく。


 まるで、星と星とが会話するかのように――静かに、優しく、そして確かに。

 アリアは見上げたまま、ほんの少しだけ、微笑んだ。


(……届きますように)


 風がやさしく頬を撫で、祭りの終わりを告げる鐘が、遠くで静かに鳴っていた。

 そんなことを思いながら、祭りの賑やかな音楽の残響を夢に引きずったまま、アリアは静かに眠りについた――。


 ──そして、翌朝。


「ん……んん……?」

 朝の光が差し込む中、アリアはゆっくりと目を覚ます。


 頬をむにっと押しながら、アリアは鏡の前へ。

 アリアは鏡に映る自分に笑いかける。

「今日はお庭で過ごそうかな……」


 キースが任務で屋敷を離れた朝。


 屋敷はどこか、いつもより空気が軽いような、けれど寂しさが滲むような――そんな静けさに包まれていた。

 朝食を済ませたあと、アリアはお気に入りの白いケープを羽織り、手に一冊の本を持って庭へと足を運んだ。


 キース様がまた不在……。

 そう思いながらも、静かな屋敷の庭に広がる静寂は、どこか落ち着く時間でもあった。


 アリアは庭のベンチに腰を下ろし、膝にブランケットをかける。


 書物を広げていた。陽光が木漏れ日となって揺れ、空気は澄みきっていて、吐く息は白く、けれど冬の陽射しが頬をやさしく撫でる。

 使用人も控えているが、穏やかなひととき——のはずだった。


 アリアは庭のベンチでページをめくる手を止めた。

 風に揺れる花々の香りと鳥のさえずり……そこに混じって聞こえる、微かに緊張を含んだ使用人の声。


「待ってください、本日キース様が不在でして……」


「……何か揉めてる?」

 眉をひそめたアリアは、庭の入口へと視線を向けた。

 使用人を制しながら屋敷へ入ろうとしている。

「それは好都合ではないか……」

 深いグリーンのマントを纏った男。

 背は高く、帽子の下から覗く金髪に、切れ長の瞳――どこか威圧感を纏っていた。

「まさか“黒の騎士”がいない時間に、これほど幸運とは……。聖剣の乙女殿、お噂はかねがね——」


 アリアはとっさに立ち上がる。


 キースの屋敷に、堂々と“彼が不在であること”を狙ってやってきた人物──

 その余裕と確信に満ちた態度に、胸の奥がざわつく。


(誰……?どうして私に……?)


「……どちら様ですか?」

 アリアの声は震えていないが、その指先にはわずかに力がこもっていた。


 男は、まるで舞台の幕が上がるように、一歩、ゆっくりとアリアに近づきながら名乗った。


「初めまして、アリア様。突然の訪問、失礼いたします……キース殿の従兄、フォルカー・レンベルクと申します。少々だけ、ご挨拶を」


 けれどその眼差しは好奇と欲を隠しもせず、アリアを舐めるように見つめている。


 アリアは思わず一歩後ろに下がった。

 だが男は、彼女の警戒をまるで楽しむように微笑んだ。


「王都の誇り、その象徴たる貴女に。聖剣の“主”をまだ選ばれていないとか……これは、我々にも希望があると見てよろしい?」

 男が一歩近づくごとに、アリアは後退した。


(この人も…主と………?!)

「……申し訳ありません。ご用件があるなら、キース様にお伝えください」

「ふっ、あの男は貴女を抱え込むのが早すぎたようだ。乙女の心は、誰にも縛れぬはずでしょう?」


 アリアの手がピクリと震え、羽織っていたケープの布を、無意識に強く握りしめた。


 直後。

「……失礼ですが、お引き取り願えますか?」

 庭の隅に控えていた騎士が、一歩、踏み出す。

 緋色のマントに、黒の騎士団の紋章。キース直属の副隊長、ミランだった。


 低く抑えたその声には、微かに怒気が滲んでいた。


「ここは“聖剣の乙女”の安息の場であり、遊覧の場ではありません。

 あなた方の軽率な言葉は、護衛の名のもとで警告に値します」


「 私はただ……アリア様にご挨拶を……」


「次があれば、命令となります。……それでもよろしいですか?」

 その一言で、空気が凍りついた。


 フォルカーは僅かに目を見開き、すぐに静かな微笑を浮かべた。


「……ご忠告、痛み入ります。

 さすが黒の騎士団、剣の代わりに言葉でも容赦がない」


 そう言い残し、彼は優雅に、そして慎重にその場を後にした。


 静寂が戻る。


 アリアは小さくため息をつきながら、そっと胸に手を当てた。


「ありがとうございます……助かりました」


 ミランは無言のまま、わずかに頷いた。そして、言葉少なにこう告げる。


「気にしないで下さい」

 ミランは淡々とした口調でそう返し、アリアの視線を避けるように視線を逸らした。


「……あの方は、一体……キース様の従兄って……本当ですか?」


 その問いに、ミランはわずかに眉を動かしたが、すぐに表情を戻す。

 そして、静かに答える。


「フォルカー・レンベルク。確かに、キース様の従兄にあたります」


「フォルカー殿は、“外見”こそ上品で社交的ですが……

 内面は、まるで“毒蛇”のような人物です」


 思わず小さく目を見開くアリア。

「毒蛇……」


「彼は“あなた”に興味を持っている。……それも、非常に……好ましくない形で」

 アリアの指が、スカートの上でぎゅっと握られる。


 ミランは一歩だけ彼女に近づき、低く、穏やかに続けた。


「ご安心ください。今後、彼が勝手に屋敷へ立ち入ることはありません。……もし二度目があれば、正式に排除します」

 ミランの瞳が、一瞬だけ鋭く光った。

 けれど、その感情の波はすぐに消え、静かに戻る。


「……私が、“聖剣の乙女”だから、ですか?」


 ミランは頷きかけて、ふと逡巡し、そして短く返した。


「……それだけでは、ありません」


 その言葉の意味をアリアが問い返そうとした瞬間、ミランは一礼して静かに距離を取った。


「お部屋にお戻りください。……私はもう少し、見回りを続けます」


 アリアは黙って頷き、少しだけ寂しげに微笑んだ。



 夕暮れの橙が屋敷を包み込み始めた頃。

 重い扉が軋む音を立てて開くと、黒いマントを翻したキースが中へ足を踏み入れる。


 待機していたミランが、すぐに足音も静かに近づいた。


「お戻りですか、キース様」


「……ああ。報告は?」


「ひとつ。昼下がり、屋敷にフォルカー・レンベルク殿が訪れました」


 キースの足が止まる。

 冷たい空気が、その場に広がる。


「……アイツが、ここに?」


 ミランは一歩前へ進み、淡々と続ける。


「アリア様に“ご挨拶”と称して接触を試みました。

 幸い深く関わる前に、私の方で追い払っております」


「……奴はどんな様子だった?」


「笑っていました。上品に、柔らかく。けれど、明らかに“狙って”いました」


 キースの目が細まる。

 まるで獲物を前にした猛獣のように、深く、鋭く。


 ミランが静かに問う。

「アリア様には、どうなさいますか?」


 しばしの沈黙のあと、キースは低く命じた。


「──呼べ。俺の部屋に、今すぐ」


「かしこまりました」


 静かな室内に、重い空気が流れていた。

 キースの背後で扉が閉まり、アリアは立ったまま待っている。


 キースは窓際からゆっくり振り返り、低い声で告げた。


「……今後、屋敷の警備を強化する。

 それと……アリア嬢。明日以降、しばらく屋敷からの外出は控えてもらう」


 言葉は短く、感情も抑えられていたが、

 それでもその口調には“絶対に従え”という圧があった。


 アリアはわずかに俯く。


 キースの視線がアリアを射抜く。


「近いうちに式典がある。それまで大人しくしていてくれ」

 キースは静かに顔を上げた。


 沈黙が落ちる。

 アリアは視線を落としたまま、じっと考えているようだった。


 そして、小さく唇が動いた。


「……はい」


 それは、従順な返事でありながら、どこか“心が離れていくような”響きだった。



「……それと明日の夜、俺は来られない。別件で出ることになった」


 背を向けたまま、淡々と。


 アリアは一瞬だけ顔を上げたが、すぐに「わかりました」と小さく答えた。


「代わりに、ミランをつける。彼は信頼できる男だ。何かあれば、遠慮なく頼るといい」


 その声には、いつものように強さと優しさが同居していた。

 アリアは少しだけ戸惑いながらも、静かにうなずいた。


「……ありがとうございます。ミランさんには、いつも丁寧にしていただいてます」


「ミランは人付き合いは不器用だが、任務は完璧にこなす。君に何かあれば、必ず俺のところに知らせが来る。……だから、心配しなくていい」


 キースの言葉は穏やかだったが、その奥には微かな不安と、守る者としての責任がにじんでいた。

 アリアはその言葉に安心しつつも、どこか寂しさを感じていた。


「……キース様がいない夜って、初めてですね」


 そうつぶやいたアリアに、キースは少しだけ目を細めた。


「一日だけだ……」


 そう言って、彼は扉を閉めていった。



 翌朝。

 窓から差し込む光も、廊下を流れる風も、昨日と同じ。

 同じ部屋、同じ景色、同じ沈黙。

 変わらない日々に、アリアは少しずつ不安を募らせていく。


「……このまま、ここに閉じ込められるの?」

(式典まで?それとも……ずっと……?)


 守られているという安心感のはずが、次第に重く、息苦しいものに変わっていく。

 自室の窓から見えるは景色は、まるで別世界のようだった。


「主」――

 またその言葉が、頭の中に残響のように残る。


(誰が“主”だっていうの……)


 誰かを選ぶ。従う。生涯を捧げる。

 まるで契約のように、運命が一方的に決まっていく。


 キース様は優しい。守ってくれているのも分かっている。

 けれど、屋敷から出してもらえない。どこに行くにも護衛が付き、行動は制限される。

(私、まるで――監禁されているみたい)

 アリアは胸元をぎゅっと掴んだ。息が苦しい。


(このままじゃ、“乙女”でいるために、アリアでいられなくなる)


 ほんの少しでいい。ただ、息ができる場所がほしい。

 自分の足で、自分の意志で、歩いてみたい。

 ストレスと閉塞感で、アリアの心にじわじわと不満が広がっていた。


「少しだけ……外に出てみたいな……」


 そのときふと、アリアの脳裏に浮かんだ。

 ――今日はキース様、屋敷に来ないって言ってたわ。代わりにミランさんが警護にあたるって。


 彼女の唇が、ほんの少しだけ綻ぶ。

「……確か、バレリアンティーがあったはず……」


 バレリアン――神経を落ち着かせ、眠気を誘う薬草。

 彼女は目を細め、小さく呟く。


「これをミランさんに飲ませれば……今晩、外に出られるかもしれない」


 胸の奥に、小さな火が灯る。

「ふふ、大丈夫、大丈夫。バレなければ問題ないんだから」

 それは不安や恐れではなく、自由への一歩に踏み出すための、静かな決意だった。



 夜。


 屋敷は静寂に包まれ、重厚な柱時計の針が、眠りの時間を静かに刻んでいた。

 アリアは部屋の窓辺に立ち、外をそっと見つめる。


 風は冷たく、月は高く、誰もが眠る時間。

 そして――彼女の小さな計画が動き出す時間だった。


 夕食後、アリアは準備しておいたバレリアンティーを、さりげなく門番のミランに渡した。

「お疲れさまです。……これ、あたたかいお茶です」

 笑顔を作りながら、震える手を抑えるのに必死だった。

「アリア様、ありがとうございます」

「寒いから、温かいうちに飲んでくださいね」

 そう言うと部屋に戻ったアリアは、扉を閉めた瞬間、背を預けるようにして静かに息を吐いた。


(飲んでくれる……よね……?)


 手のひらにはまだわずかに震えが残っていて、自分の大胆さに今さらながら戸惑っていた。

 それから数時間――

 窓の外から、やがて聞こえてきた。いびき混じりの寝息。


「……今だわ」


 アリアはそっと部屋を出た。

 足音を殺しながら、廊下を進む。寝静まった屋敷の中、心臓の鼓動がやけに大きく響く。


 ――バレリアンの効果が切れないうちに、門を抜けなければ。


 手に持った小さなランプの明かりが、不安げに揺れる。

 けれど、彼女の足は止まらなかった。


 玄関を抜け、警護の詰所の前をすり抜けると、門番のミランがぐっすりと眠っていた。

 重たい門は、少し力を入れれば開いた。


 外の空気が、ひんやりと肌を撫で……秋の終わり、冬の始まりを告げる冷気――でも、今はそれすら心地よかった。


「……やっと、外に出られた」


 夜の街は静かだった。

 月明かりの下、アリアは楽しげに小道を進んでいた。

 頬をなでる夜風、静かな闇、自由なこの感覚。まるで夢の中にいるみたいだった。


「ふふ、ほんと、どうしてもっと早く抜け出さなかったのかしら」


 その瞬間——


「……随分と楽しそうだな」


「……キース様!?」

 アリアが振り返ると、そこには、黒い外套を羽織ったキースが腕を組んで立っていた。

 その瞳は冷たく光り、まるで逃げた罪人でも見るかのようだった。


「俺が留守の間に、抜け出したのか。感心だな、アリア嬢」


「ち、違っ……ちょっとだけ、散歩を……!」


「嘘をつくな。門番を眠らせて抜け出す“散歩”があるか?」


 言葉を返せず、アリアは固まった。


「……帰るぞ」

 キースは一歩、アリアに近づいた。その気配に、彼女の心臓が跳ね上がる。


 逃げようとしたアリアの腕を、キースが強く引き寄せた。


「今度は、本当に閉じ込める」

 その声は低く、静かで、それ以上に恐ろしい響きを持っていた——。


「今、来たばかりなのに!」

 アリアは必死に声を上げて、キースの腕を振り払おうとした。


 けれどキースは容赦なく、彼女の手首を強く握りしめる。

 その力に、アリアは一瞬、顔をしかめた。


「だったら、これ以上遅くなる前に帰るぞ!」

 キースの瞳には怒りと、なにか別の感情——焦りのような色が混じっていた。


「痛い……キース様、離して!」

 アリアは必死に訴えるが、キースの手はびくともしない。


「お前が勝手に出ていくからだ。俺に怒る資格がないとでも思ってるのか?」


 その声に、アリアは言葉を失った。

 強く握られた腕の痛みよりも、その言葉の重さが胸に響いてくる。


「俺は……お前を守りたいだけなんだ」

 キースの声が少しだけ震えた。


 それでもアリアは、その“守り方”が納得できなくて、瞳を伏せた。

「……そんなの、私の自由なんて、何もないじゃない」


 しんと静まり返った夜の道に、二人の感情だけが激しくぶつかっていた——。


「……そうだな」

 キースは少し間を置いて、真剣な表情で低くそう呟いた。


 その一言に、アリアの表情がぱっと明るくなる。

「じゃあ!……許してくれるの?」


 だが、その希望の芽は一瞬で踏み潰された。


「足掛けでもして、部屋から出られないようにしないとな……」


「……いきなり怖いこと言わないでよ!」

 アリアは眉をひそめて抗議したが、キースは一切の笑みも浮かべずに言い放った。


「お前には、まだ“自分がどれだけ無防備か”が分かっていない。だから、俺がやるしかない」


「な、何それ!私、子どもじゃないのに!」


「そうだな。子どもじゃない。だからこそ——危うい」


 アリアは口を噤んだ。

 キースの真剣な目を見て、何も言い返せなくなってしまった。


「……戻るぞ、アリア嬢」


 そう言ってキースは、少し力を緩めた手でアリアを優しく引いた。

 アリアは不満そうに唇を尖らせながらも、抵抗する気力を失っていた。


「…………。」


 アリアは渋々キースに手を引かれ、屋敷への道を戻っていく。

 夜の静寂が、二人の足音だけを際立たせた。


「……まったく、抜け出したのが誰かに見られていたら、どうするつもりだったんだ」


 キースの声は冷たくもなく、怒ってもいなかった。

 けれど、その低く抑えた声には、確かに不安が混じっていた。


 アリアは俯きながら、口を尖らせる。

「……ちょっとだけ外に出ただけよ。誰にも会ってないもん」


「“たまたま”だ」


 キースは短く返した。それ以上は何も言わず、アリアの手を離さなかった。

 やがて屋敷の門が見えてくると、ミランが焦りながら出迎えた。

「ご無事でしたか……」


 その声は、あまりにも切実だった。

 アリアは戸惑いながらも、小さくうなずく。


「ミランさん……ごめんなさい、私……」


「いえ……私の不手際です……まさか眠らされるとは……」

 ミランの声が悔しさに滲む。


 屋敷の門をくぐり、アリアをその腕に抱いたまま足を止めたキースは、振り返りざまに冷たい声で命じた。


「――ミラン。カノンと、キャロルを呼べ。すぐにだ」

 その声音には、有無を言わせぬ力がこもっていた。


 ミランはハッと背筋を伸ばす。


「……ただちに!」


 敬礼と共に、その場を駆けていくミラン。

 その背中を見送りながら、キースはアリアの顔を見下ろした。


「アリア嬢、ここから出ることは許さない」

 キースの声には揺るぎない決意が込められていた。


 それはつまり、監禁を意味していた。


「な、なんでそんなに厳しくするのよ!」

 アリアは驚きと反発の色を隠せず、キースを睨みつける。


「お前の身を守るためだ。それ以上の理由はない」


 アリアはキースを睨みつけるように振り返る。


「監禁だわ、本当に……!信じられない!」


「信じられないようなことをしたのはお前だ。まずはそこから自覚しろ」


「うぅ〜〜っ!」

 悔しそうに唸るアリアの後ろ姿を見送りながら、キースは静かに目を伏せた。


 屋敷に戻ると、キースは無言のままアリアを先に歩かせた。

 重苦しい沈黙の中、扉が閉まる音だけが響く。

 アリアの部屋前で足が止まる。

「中へ入れ」

 低く、静かな命令の声。アリアはおそるおそる自室の中へ入った。


「罰だ。今夜はここから出すつもりはない」

「えっ、まさか……本当に閉じ込める気ですか!?」


「当然だ。お前がそうさせた」

 彼の表情は相変わらず冷たい。だが、その瞳の奥にかすかな苦悩の色があった。

「門番を眠らせて、夜の街に一人で出る。どれだけ危険なことか分かっているのか?」

「でも……私、ただ……」


「……お前がいなくなったと知って、俺がどう思ったか、想像もつかないんだろうな」


 その言葉に、アリアは息をのんだ。

 キースの声は低く、押し殺すようだった。

 怒りというより、傷ついた獣のような、切実な響きがあった。


「反省しろ」


「明日は?」


「……俺の許可が出るまでだ」


「ひどい……」


「そう思うなら、もう二度と抜け出そうなんて考えるな」


 コンコン、と控えめなノック音。

 キースがその扉を開ける。

 二人の女性が静かにアリアの部屋へと足を踏み入れた。


「カノン、キャロル。来たか」


 キースの声に応じて、彼女たちは一礼し、アリアの前に進み出る。

「この二人がお前の面倒を見てくれる」


 キースの背後から現れたのは、雰囲気のまったく違う二人だった。


「はじめましてっ!カノンですっ!わぁ、お会いしたかったです」

 明るい茶髪でツインテールの少女が元気いっぱいに手を振る。


「キャロルと申します。ご安心を、アリア様。こちらでの生活はすぐに慣れますよ」

 対照的に、キャロルは落ち着いた笑顔を浮かべながら深く一礼する。


「えっ、メイドさん!?二人も!?」


 アリアはキースの方を向いて驚く。


「アリア様は“聖剣の乙女”なんですから、私たちがぜ〜んお任せ下さい!」


「今日から、アリア様の身の回りをお世話させていただきます」


「なにこの豪華な監禁生活……!」

 アリアが呆れたように呟くと、背後のキースが冷たく言い放った。


「誤解を招く表現はやめろ」


「……いやいや、誤解じゃなくて、もうほぼ事実じゃない?」


「後は頼む……」


「かしこまりました!」


「俺は、お前を守る。……たとえお前が、それを望まなくても」

(これで、少しは……守れるだろうか)

 そう言って、扉の向こうに消えていった。誰にも奪わせない。

 それは彼の、誓いにも似た想いだった——

 部屋に戻されたアリアは、ベッドの上にふてくされるように転がった。

「……はぁ、なんでこんな目に……」


 窓の外はもうすっかり夜も更けて、屋敷は静まり返っていた。

 カノンも心配そうに彼女の様子を見にきたが、アリアは毛布にくるまって見ようとしない。


「アリア様、なにかお持ちしましょうか? 甘いお茶とか……」


「いらないわ……ありがとう、カノン。でも、少し一人にしてて」


「……かしこまりました」


 そっとドアが閉まり、アリアの部屋に再び静寂が訪れる。


(どうしてキース様は、あんなに怒るの?!)

 アリアは無意識に窓の外に目をやり、そこで立ち止まる。


「……セドリック」


 ぽつりと呟いたその名前は、自分でも意外だった。


 どうして今、彼の名前が出てきたのか分からない。

 けれど——胸の奥に、小さなざわめきが広がっていく。


(あの人なら……きっと)


 キースとも違う。

 厳しく叱ることもなく、甘やかすこともなく。

 ただ静かに、見守るような眼差しを思い出す。

(……セドリックなら、私の話を聞いてくれる気がする)


 アリアは瞼をそっと閉じ、ベッドに横になりながら、天井をぼんやりと見つめて小さく呟いた。


「……明日には、キース様の機嫌……直ってるといいな……」


 まぶたが重くなり、視界がゆっくりと霞んでいく。


 ふわ、とベッドの上の柔らかな空気に包まれながら、アリアはそのまま眠りに落ちた。


 夜の静寂が屋敷を包み込み、アリアの寝息だけが部屋に微かに響く。


 ――そして、朝。


 アリアはもぞもぞとベッドの中で身を起こし、まぶしそうに目を細めながら伸びをした。


「んーーっ……朝がこんなに早いなんて……」


 すると、カーテン越しに柔らかい朝日が差し込み、元気な声が響いた。


「おはようございます、アリア様!」


 笑顔のカノンが、朝の挨拶とともに窓を開け放ち、爽やかな空気を部屋に呼び込む。


「……あっ、おはようございます……」


 アリアは寝ぼけまなこで返事をしたものの、そこで――はっとした。


(忘れてた、私の為にキース様が使用人をつけてくれたんだわ…)


 ベッドの中でそっと頭を抱えるアリア。

 カノンがにこにこしながら支度を手伝う中、アリアはそっと窓の外を見た。


(……でも、私「この部屋から出るな」って言われてるんだったけ……)


 昨日、脱走まがいの外出がバレたせいで、キースに半ば怒鳴るように言われたあの言葉が、耳に残って離れない。


「……うぅ……やっぱりまだ怒ってるのかな……」


 ベッドの端にちょこんと座り込んだアリアは、膝を抱えて顔を伏せる。


「アリア様、朝食お召し上がりますか?」

 カノンが気を遣って声をかけてくれる。


「……うん、お願いします……」


「かしこまりました!」

 カノンが軽やかに部屋を出ていくと、アリアはひとり残された部屋で、ぽつりと呟いた。


「監禁ってほどじゃないけど……これじゃ、お屋敷の中の囚われ姫ね……」


 苦笑いしながらも、その胸にはモヤモヤとした感情が残っていた。


(キース様…… こんなふうに部屋に閉じ込められて、謝ることも、話すこともできないなんて――)


 そのとき、ふと扉の前で誰かの気配がした。


 コン、コン――


 ノックの音にアリアはびくりとした。


 だけど、扉の向こうから聞こえてきたのは、静かな女の声だった。


「アリア様、お着替えをお持ちしました」


「……あ、ありがとう、キャロル……」


 アリアはキャロルが差し出した服に目を丸くした。


「わぁ……すごく、可愛い……」


 胸元で緩く結ばれたリボンは、ふとした仕草でほどけてしまいそうなほど繊細で、そこにほんのり色香が漂う。それでいて、少女らしい愛らしさを決して失っていない。


「お部屋で過ごすのであれば、締めつけすぎず、でも品もある……そんな装いが良いかと思いまして」


 キャロルが微笑むと、アリアは顔を赤らめて頷いた。


「……じゃあ、これにします。ありがとう、キャロル」


 着替えを終えたアリアは、鏡の前でくるりと一回転してみた。たっぷりとした布地がふんわり広がり、まるでおとぎ話の中の姫のよう。裾にあしらわれたレースが動きに合わせてゆらゆらと揺れ、まるでアリアの心を映しているかのように、柔らかな光を受けてきらめいた。


「かわいい……ううん、ちょっと子供っぽい、かも……?」


 頬を染め、胸元のリボンにそっと指を触れる。

(あれ……私、楽しいって思ってる……? 監禁されてるのに?)


 そんなことを考えてしまう自分に気づき、アリアは思わずクッションに顔をうずめた。


「……なに考えてるの、私……!」


 キャロルはその様子を微笑ましく見守っていた。


「アリア様は、そのままで十分魅力的ですよ」


「えっ……!? ち、ちがっ……いえ……ありがとうございますっ……」


 ますます真っ赤になるアリア。


(……)


 そんな想いが、胸元のリボンのように、ゆるく、でも確かに結ばれはじめていた――。


 ノックとともに、カノンは静かにアリアの部屋の扉を開けた。

 手にはトレーに載せられた温かな朝食が揺れている。


「アリア様。朝食をお持ちしました」

 柔らかな声に、アリアは微笑んだ。


「ありがとう、カノン」


 カノンがトレーをベッドサイドのテーブルに置くと……。

「アリア様、キース様からのご報告がありました。明後日に辺境伯領の式典が行われるそうです」


 アリアはぱちりと目を覚まし、少しだけ身を乗り出して訊ねる。

「明後日……」


 キャロルはうなずいた。

「はい。キース様はその準備に忙しくされているそうです」


 アリアが朝食を口に運びながら、ふと呟いた。

「式典……セドリックに会えるかしら?」


 その言葉に、カノンとキャロルの目が一気に輝いた。

「――えっ!?」


「えっえっ!? もしかして“あの”セドリック様ですか!?」

 カノンとキャロルが両側からアリアに詰め寄ってくる。


「え?え? う、うん……?」


 興奮した様子で、カノンが両手を合わせて瞳を輝かせた。

「知らないのですか?セドリック様って……昔、戦場の貴公子って呼ばれてたんですよ!」


 キャロルも負けじと身を乗り出す。

「凛としてて、剣技も美しくて……冷たいけど、それがまたいいんですの!」


 アリアは俯きながら、小さな声で呟いた。

「え……っと、戦場の貴公子?」


 その言葉に、キャロルが誇らしげに頷き、ゆっくりと語り始めた。


「セドリック様は『戦場の貴公子』と呼ばれていました。冷静で優雅な立ち居振る舞いの中に、揺るぎない強さがある方です。」


「彼の剣さばきはまるで舞踏のように美しく、その姿を一目見ようと多くの兵士や貴族が集まったとか……」


 カノンも頷き、声を重ねる。


「それに、ただ強いだけではなく、部下たちを誰よりも大切にし、戦いの中で決して見捨てない優しさも持っているんです」


 カノンとキャロルがキラキラと目を輝かせながらセドリックの素晴らしさを語っているのを、アリアは優しく微笑みながら聞いていた。


「そうなんだ……私、全然セドリックの事知らないのね…美化されてて別人みたい…ふふ」

 アリアが柔らかく言うと、二人は目を丸くしてこちらを見た。


「え?アリア様、どういうことですか?」

 キャロルが首をかしげる。


「だって……セドリックは、確かに頼りになるし優しいところもあるけど、意外と毒舌なところもあるんだから」

 アリアは少し照れくさそうに言った。

「私のことなんて、“ぽやぽや無自覚天然”だの、“守る手間ばっかりかかる残念なお嬢様”だの……平然と言うのよ?……皆が思ってるほど、完璧じゃないと思うわよ?」


「えええっ!?」


「アリア様……それは恋の否定ではなくて……ツンデレの予兆では……!?」


「な、なんの話!?」


 キャロルとカノンの空想は暴走気味だったが、部屋の中には久しぶりに、心の温まる笑い声が満ちていた。


 アリアは微かに笑みを浮かべ、少しだけ胸が温かくなるのを感じていた。

「ふふ、キース様に怒られたけど、こうしてお話出来る相手が居るっていいわね」


「アリア様にとって、私たちがお話相手になれているなら嬉しいです!」


 アリアは窓の外をぼんやりと見つめながら、小さく呟いた。


「……キース様の機嫌、後で……ちゃんと謝りに行かないと……」


 そう言いながら、アリアは胸の前でそっと手を組んだ。


 すると、キャロルがにっこり微笑む。

「きっと大丈夫ですよ。キース様、アリア様のこと、本当に大切に想っておられるもの」

 カノンも勢いよく頷いた。


 わいわいと笑い声が響く部屋の中に、明るい陽射しが差し込んでいた。

 式典を前に、どこか浮き立つような心の高鳴り。


 三人の間に、ほんの少しの期待と安堵の空気が流がれた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ