灯籠と花と、願いの行方
キースの屋敷で、アリアはふと目を覚ました。
重たいまぶたをゆっくりと開くと、静まり返った室内が月光に照らされ、淡い青に染まっていた。
セドリックが傍にいない――その事実に、胸の奥がじわりと痛んだ。
――昨日まで、ずっと一緒にいたのに。
アリアはそっとベッドを抜け出し、ひんやりとした床を素足で踏みしめる。
寝間着の裾を引きずりながら廊下を歩くと、どこまでも静まり返った屋敷が、妙に広く感じられた。
――こんなにも、静かだっただろうか。
心細さを紛らわせるように、アリアはバルコニーの扉を開いた。
夜風がすぐに頬を撫で、秋の終わりを告げる冷たい空気が体温を奪っていく。
夜風に誘われて、バルコニーに出ると、秋の終わりを告げる冷たい風が頬を撫でた。
もうすぐ冬が来る――そう思うと、ひときわその冷たさが身にしみる。
「……セドリック……っ」
それでも、どこかで彼を想ってしまう自分がいる。
セドリックの声が、温もりが、あの静かな瞳が恋しくてたまらなかった。
「この生活、早く慣れないと……」
この屋敷に一人。セドリックがいなくなって、私は本当に一人になった気がした。
「……寂しいよ……」
まるでそのことを、今日になってやっと理解したかのように。
アリアは膝を抱え、その場にしゃがみ込んだ。
ぽろりと、ひとしずくの涙が頬をつたう。
(朝が来れば、きっと……)
この心の寒さも、少しは紛れるかもしれないと思い、寝室のベッドに戻る……。
明るい光が差し込んで、忙しさに気を取られれば、孤独も霞んでくれるかもしれない。
そう思って、再び目を閉じた。
(……だから、もう少しだけ)
朝が来るまでの、あと少しの間だけ。
寂しさに沈まないように、自分を包むように――もう一度、眠りについた。
アリアが次に目を覚ました時、屋敷にはもう活動の気配があった。朝食の準備が進んでいるのが、廊下越しにも伝わってくる。
カーテン越しに揺れる陽光が、寝台の上のアリアに優しく降り注ぐ。
彼女はゆっくりと目を開けた。
「……朝、……」
小鳥のさえずり、屋敷の廊下で響く使用人たちの足音。
心はどこか置いてきぼりのままだった。
(こんなはずじゃなかったのに……)
王都に帰ってきて――それは、夢のように楽しみにしていたはずだった。
ドレスの選び方、パーティの話、聖剣の乙女としての立場。
新しい日々はもっと明るくて、少しだけ“普通”に近いものだと思っていたのに。
(思ってたのと、違う……)
アリアは着替えを済ませ、鏡の前でゆっくりと髪をとかした。
いつも通りの仕草なのに、なぜか今日は、それがとてもぎこちなく感じた。
(どうしてだろう……こんなに苦しいのに、誰にも言えない)
手のひらを見つめながら、心の中で誰かに問いかける。
「私は……何を望めば……それが叶うの?」
けれど、答えは風の音のように遠く、返ってこなかった。
居間の方へ足を向けると、キースの姿が目に入った。
ソファに腰かけ、書類に目を通しながら、相変わらず無駄のない動きで朝の時間を過ごしている。
「おはようございます、キース様」
アリアが声をかけると、キースはゆっくりと顔を上げた。
「……あぁ」
その声は低く、そして冷静だった。
まるで昨日までの出来事など何ひとつなかったかのような、凛とした態度――
でも、それがキースなのだとアリアは知っていた。
(いつも通り……だね)
心の中でそう呟く。
けれど、アリアの視線がすっと彼に向くと、キースはほんのわずかだけ眉をひそめて、ふっと小さく息をついた。
「顔色が悪い。……寝られなかったか?」
「……いいえ。ぐっすり、でした」
思ってもいない嘘が、自然と口をついて出た。
キースは少しだけ視線を逸らすと、立ち上がりながらぽつりと呟いた。
「……まあ、無理に笑うくらいなら、泣いてるほうがマシかもな」
「えっ?」
その背中は、アリアの痛みに気づいていながら、あえて深くは触れない――そんな優しさを滲ませていた。
「朝食、食べるだろ。無理して笑うな。……お前、顔に出るんだから」
アリアは一瞬、目を瞬かせる。
それから、思わずふっと笑ってしまった。
キースはやっぱり、キースだった。
無愛想で、脅し口調で、なのに……いつだって真っすぐに心配してくれる。
「ありがとうございます、キース様」
「礼はいい。さっさと来い。冷める」
そう言って、彼は先にダイニングへと歩き出した。
その背中に、アリアはそっと手を伸ばすような気持ちで、後を追った。
「朝食が終わったら、話がある」
パンを口に運んでいたアリアの手が、ぴたりと止まった。
「……話? なんでしょうか?」
何気ない言葉のはずなのに、キースの声音はどこか硬くて、心の奥に小さな波紋を落とす。
普段は感情をあまり見せないその男が、「話」とだけ言ってくるのだから――どうしても気になってしまう。
「食え。今言っても、喉通らなくなるぞ」
「……そんな、怖いことなんですか?」
問いかけるアリアに、キースは少しだけ目を伏せて、口をつぐんだ。
その沈黙が、かえって不安を煽る。
(もしかして……何か、決まったことがあるの?)
まるで、自分の知らないところで何かが動き出しているような、そんな予感。
けれど、キースの横顔からは何も読み取れなくて――アリアは仕方なく、再びパンに手を伸ばした。
ほんのり温かいはずの朝食が、少しだけ味気なく感じられた。
朝食後、キースは席を立ち、アリアに向き直る。
「お前には使用人を一人……いや二人つける。今はまだ調整中だ。適任が見つかり次第、屋敷に配属する」
「え……?」
「セドリックがもう傍にいないんだ。さすがに、誰もいない状態はまずいだろ」
その言葉に、アリアの胸が一瞬だけ痛んだ。
(やっぱり、もう……セドリックは帰って来ない……)
「……はい。ありがとうございます」
「あと、門番には黒の騎士団から数人を常駐させる。屋敷の防備は、俺が責任を持つ」
淡々と、でも明らかにアリアの安全を第一に考えた決定だった。
けれどキースの口調はやっぱりぶっきらぼうで、どこか棘すらある。
「……キース様は、優しいですね」
「は?」
「いえ、なんでもありません」
思わず微笑んだアリアに、キースはふいっと顔を背ける。
「……変なこと言うな。俺は、当然のことをしただけだ……。それまでは、この屋敷でおとなしくしていてくれ」
その言い方はあくまで命令口調だったけれど、アリアにはわかった。
(この人の優しさは、いつも――まっすぐで、不器用)
不安定な今の状況で、自分が無用な危険に晒されることを避けたいという、キースなりの配慮だと。
「……わかりました。ご迷惑をおかけします」
「迷惑じゃない」
即答だった。
「……俺が、守る。それだけだ」
アリアは思わず息を呑んだ。
冷たい口調なのに、まっすぐなその言葉が胸に響く。
「はい、キース様」
キースの話は続く。
「今後の予定だが――明日フェスルクシ祭がある」
キースは何気ない口調で言ったが、その視線はちらりとアリアの表情をうかがっていた。
「……!」
アリアの目がぱっと輝く。キースはその反応をちらりと視線の端で捉えて、小さく口元を動かした。
「行きたかったんだろう?」
その一言に、アリアの表情が一気にほころぶ。
「はいっ……! 行きたいです!」
まるで子供のような素直な返事と
ぱっと表情を輝かせたアリアに、キースの口元がわずかに緩む。
「フェスルクシ祭、当日グレイソンが迎えに来る事になっている」
「キース様は……行かないのですか?」
アリアがそう問いかけると、キースは少しだけ目を伏せてから答えた。
「……祭りはグレイソンに任せてある。俺は先に仕事を片付けてから……夜に合流する」
「……わかりました」
ほんの少し、声が沈んだ。
その気配にキースはわずかに目を細めると、付け加える。
「……遅れても、必ず行く」
低く抑えたその声に、不器用な優しさがにじんでいた。
「祭りが終わってから……数日後、辺境伯領で功績の式典が行われる予定だ」
「式典……?」
アリアは思わず声を上げた。祭りの話題からの急な展開に、顔に戸惑いが浮かぶ。その反応を、キースは横目で見て、わずかに頷いた。
「辺境伯領での掃討戦の成功を祝うものだ。領主を始め、騎士団、それに支援部隊に対する功績の称賛……形式的なものだがな。お前も同行することになる」
「わ、私も……?」
「聖剣の乙女だからな」
静かで、しかし揺るぎない口調。アリアは思わず背筋を伸ばした。
「……お城に、また行けるんですか?」
「……ああ。ただし、今回は少し事情が違う」
キースは一呼吸置いてから、低く告げた。
「他国の王族も招かれている。領の軍事的成功は、この先の均衡にも影響する。形式だけの式典に見えて、実際には外交の場でもある」
「が、外交……」
アリアは目を丸くした。キースの言葉が、思った以上に重々しく感じられる。
「安心しろ。お前は深く関わらなくていい。ただ、聖剣の乙女として“そこにいる”だけで意味がある」
その言い方に、アリアはほんの少し息を呑んだ。
「その分、警備は厳重になる。お前も勝手な行動はするなよ」
「しませんっ。……たぶん」
キースは思わずため息をつく。
「……“たぶん”が一番信用ならない」
アリアは苦笑しつつも、どこか嬉しそうに頷いた。
「……キース様のご負担にならないように、配慮します」
素直にそう口にしたアリアに、キースはほんのわずかだけ目を細めた。
「それでいい。――他に気になることは?」
問いかけられ、アリアは少しだけ口を迷わせてから、控えめに尋ねた。
「えっと……その……ここにいる間、私は何をすればいいんでしょうか?」
その言葉に、キースは一瞬だけ沈黙し――それから口元をわずかに緩めたように見えた。
「余計なことするな。お前が動くと、俺の仕事が増える」
「……っ、遠回しに役に立たないって言われてる気がします」
きゅっと唇を引き結んでうなずいたアリアに、キースはふっと目を細めた。
「……まったく、面倒な女だ」
「え? 何か言いました?」
「いや、何も」
アリアには聞こえなかったが、キースは心の中で小さく付け加えていた。
(……どこにいても、お前が無事ならそれでいい)
その言葉に、キースはわずかに目を細める。
「……まぁ、せいぜい“俺の手が届く範囲”にいろ」
「……はい」
少しだけ怒ったような声音。でもそれはきっと、彼なりの“守る”という意志の現れ。
「明日、グレイソンが迎えに来る。昼頃には支度を済ませておけ」
「わかりましたっ、……ちゃんと準備しておきます!」
アリアは弾かれるように立ち上がり、胸の前で手をぎゅっと握りしめた。
フェスルクシ祭――
(やっと……やっと行ける……!)
その後、アリアの一日は、落ち着きのないまま過ぎていった。
クローゼットの前でうんうん唸りながら、何度も服を入れ替えては鏡の前に立つ。
「この水色の……ふわっとしてて秋らしいかな? でも、こっちの方が……季節にあってる?」
何度も服を出しては身につけ、鏡の前でくるりと一回転してみせたり、髪型を考えたり、髪飾りやリボンを引き出しから出して並べたり。
一つ一つの小物が、明日の祭りでどんなふうに映るか、想像するだけで胸が躍った。
髪飾りも、靴も、バッグも、すべてが悩ましくて楽しい。
ほんのり暮れ始めた空の色を眺めながら、アリアはベッドに座り込み、心が満たされるのを感じた。
その夜―――
アリアは、興奮で眠れなかった。
「楽しみすぎて、もう寝られないかも……!」
こんな風に「明日を楽しみにして眠れない」なんて、いつ以来だろう。
「そうだ、明日は……『花贈り』もできたら、きっと素敵よね」
呟いてから、笑みがこぼれる。
心の中で、明日の祭りの風景がきらきらと蘇るようだった。
「……ふふっ」
ぽわっと笑って、布団にくるまる。
(どんな一日になるんだろう……美味しいもの、きれいな飾り、グレイソン様の笑顔――)
ベッドに身を横たえながら、窓から流れ込む夜風を受け、そっと呟いた。
「明日は、楽しい一日になりますように……!」
その願いが夜の静寂へと溶けていき、アリアはやがて、楽しみと高鳴る胸を抱いて、アリアはようやくまどろみに落ちていった。
フェスルクシ祭――王都最大の収穫と祝祭の祭典の日。
街は朝からざわめきに包まれ、窓の外には色とりどりの飾りが風に揺れていた。
彼女が纏っていたのは、クリーム色の長袖ブラウスに、ダークブラウンのチェック柄ワンピース。
胸元のリボンは蝶のようにふんわりと結ばれ、どこか少女らしい無垢さと可憐さを印象づけていた。
その上から肩に軽く羽織ったストールは、優しい色合いの織り模様で、秋風を感じさせる柔らかな揺れを見せている。
軽やかに歩くたび、裾がふわりと揺れ、まるで祭りの気配と一緒に彼女の心が踊っているようだった。
屋敷の執務室では、キースとグレイソンが今日の動きについて打ち合わせをしていた。
机の上には警護の配備図と祭の会場地図。ふたりの声は落ち着いていても、その内容は周到で抜かりがない。
――コツ、コツ。
廊下の先で、小さく靴音が鳴る。
一度、通り過ぎる。
また少しして、戻ってくる。
……そして、また行った。
「あれは……アリア嬢ですね」
書類に目を通しながら、グレイソンがふっと笑った。
「……落ち着きがないな。子供か?」
キースが眉をひそめ、扉の向こうの気配に目を向ける。
「可愛いですね、楽しみにしてたのでしょう」
その声はどこか優しく、少しだけ甘やかすような響きを含んでいた。
キースは視線を外し、窓の方に顔を向けながら静かに言う。
「……楽しみにしてるのは、別に“祭り”とは限らんがな」
「ふふ、それは警護のご本人としてのお言葉ですか?」
「……どうだろうな」
短く答えたキースの横顔には、いつもよりもわずかに複雑な影が差していた。
廊下でアリアは、リボンの先を整えたり、鏡をのぞき込んだり、また廊下を歩き出したり――
まるで大事な初舞台を待つ子供のように、執務室の前をそわそわと何度も往復していた。
ノックではなく、まるで迷子の子猫が「ここにいる」と静かに鳴くような存在感。
(忙しい、よね……でも、やっぱり……)
アリアは、固い扉の前で行きつ戻りつしていた。
扉の向こう側では……。
「アリア嬢を待たせすぎるのも悪いですね。キース、そろそろ……」
くすりと微笑むグレイソン。
キースは扉の方へ歩いて行き、渋々といった様子で小さく頷いた。
「……入れ」
予想もしていなかったその一言に、アリアは一瞬だけ固まった後、ぎくしゃくと身を正した。
次の瞬間、重い扉がゆっくりと開き、キースの姿が現れる。
「そんなところでウロウロされると、こっちが落ち着かない」
呆れたようでいて、どこか呑み込みきれない笑みを片隅に宿したその表情が、アリアの心臓をさらなる速さで鳴らせた。
「し、失礼します……!」
アリアはそっと足元を見て、裾をつまみながら控えめに言った。
顔を覗かせたアリアは、いつもより丁寧に髪を結い、淡い紅を差した頬が祭りへの期待で少し熱を帯びていた。
装いも秋色の落ち着いた服装で、リボンが胸元で揺れている。
「……ずいぶん、気合が入ってるな」
キースが思わず口にすると、アリアはハッとして顔を赤らめた。
「……もしかして、変ですか? グレイソン様とお出かけするから……その、ちょっとだけ……オシャレしてみたのですが……」
おずおずと裾を持ち上げて見せるアリアに、グレイソンがにこやかに言った。
「とても似合ってますよ、アリア嬢」
グレイソンは微笑を浮かべながら、視線をそっと彼女に注ぐ。
「まるで秋の光に包まれた花のようです…そのリボンも、蝶が舞うようで素敵ですね。アリア嬢の雰囲気に、ぴったりです」
くすっと囁くような声。
グレイソンの瞳は、どこまでも優しく、からかうような甘さを帯びている。
「……よく眠れましたか? それとも、祭りが待ち遠しくて……寝付けなかった?」
「えっと……あの……」
顔を真っ赤にして否定しようとするアリア。
でも、その袖口をぎゅっと握っている様子が、全てを物語っていた。
「ふふ……お待たせしました、アリア嬢」
穏やかな声と共に、グレイソンが一歩進み出る。
そして、身を屈めるようにして、白手袋をまとった大きな手をゆっくりとアリアへ差し出した。
「では、参りましょうか」
その言葉と共に、手のひらがほんの少しだけ、上向きに角度を変えた。
「今日は、私にエスコートさせてください」
「お願いします」
アリアはクスクスと笑いながら、そっとその手を取った。
「……待て、リボンが曲がってるぞ」
振り返れば、キースが一歩進み出て、ほんのわずか身を屈める。
その指先が、アリアの胸元で微妙に傾いていたリボンを、手早く、だけどどこか優しく直した。
「よし、これでいい」
そう呟きながら、キースがほんの一瞬だけ目を細める。
「あ……ありがとうございます」
グレイソンはそれを静かに見守っていたが――
次の瞬間、くすりと笑いを漏らす。
「……これは、早くお返ししないと、嫉妬されそうですね」
「誰がだ」
キースは無表情のまま返したが、声のトーンはやや低くなった。
「祭りは人が多い、迷子になるなよ」
「なりません!」
アリアは笑顔で答えたが、キースの眼差しがほんの一瞬だけ優しく和らいだ。
グレイソンがその様子を受け止め、軽く一礼する。
「では、アリア嬢をお預かりします」
「あぁ、頼む。後で合流する……」
「ええ、お待ちしておりますよ、キース」
「行ってまいります、キース様」
アリアが軽くスカートを摘まんで頭を下げ、グレイソンと手を取り合って屋敷の門を出ていく。
そして、アリアとグレイソンを乗せた馬車の扉が静かに閉まる。
馬車が石畳を穏やかに滑り出した頃、やわらかな陽が窓から差し込み、アリアの髪をきらきらと照らしていた。
向かい側の席から、グレイソンが穏やかな笑みをたたえながら問いかける。
「そんなに、私と会うのが楽しみでしたか?」
一瞬、アリアの瞳が丸くなる。
それから、迷うことも躊躇うこともせず、ぱあっと表情を輝かせた。
「はい!」
その声も、笑顔も、どこまでもまっすぐで、澄みきっている。
予想以上の率直な答えに、グレイソンの瞳が一瞬だけやわらぎ、喉の奥から低い笑いがこぼれた。
「それは、うれしいお言葉です、アリア嬢」
「えへへ……本当に楽しみにしてたから」
ほんのり赤い頬で笑うアリア。グレイソンもまた、心の中でそっと呟いた。
(今日は騎士ではありません。貴女を守る、ひとりの紳士として……お傍に)
そして静かにアリアを見つめる。
蹄の響きが次第にゆるやかとなり、やがて馬車が静かに止まった。
窓の向こうから、陽気な笑い声や楽しげな音楽、香ばしい屋台の香りが、風となって流れこんでくる。
「着きましたよ、アリア嬢」
グレイソンの穏やかな声が、静寂の幕をやわらかく引き上げた。
アリアは身を乗り出すようにして、窓から広場の様子を眺め、瞳を輝かせる。
その笑みに応え、グレイソンがそっと扉を開いて手を差し出した。
「どうぞ、アリア嬢」
「ありがとうございます!」
その手へ小さな手を重ね、ゆっくりとステップを降りれば、眩しい陽射しと共に、祭の賑わいがアリアを優しく包みこんでいった。
「わぁ……!」
色とりどりの幕が風に踊り、笑顔で行き交う人々の姿が、まるで一枚の絵のように広がっている。
「楽しみにしていた祭、存分にお楽しみください」
「はいっ!」
フェスルクシ祭の鐘が、真昼の空に響き渡る。
陽光は白い石畳に降り注ぎ、屋台の布地や踊り子たちの衣が、目に眩しく揺れていた。
「これが……フェスルクシ祭……」
アリアは目を丸くして、光で彩られた通りを見上げる。
フェスルクシ祭は、秋の終わりを告げる季節の祭典。
昼は豊かな実りに感謝し、各地から運ばれた作物や工芸品で町は彩られる。
屋台には焼き栗、香辛料の効いた焼き肉串、りんご酒、蜜でコーティングされた菓子……
人々の笑い声があふれ、楽器の音と踊りが通りに満ちていた。
貴族も平民も関係なく、誰もがこの日ばかりは心を解き、太陽の恵みに微笑む。
陽が沈むと、フェスルクシ祭はもうひとつの意味を帯びる。
闇と寒さが訪れる冬の入口。人々は暖かな灯りを手に、無病息災と家族の安寧を祈る。
恋や願いを灯に込める「ルクシの灯籠流し」が始まると、空には無数の小さな光が舞い上がる。
それはまるで星の逆流――
「願いは空に届き、来る冬を越える力になる」と信じられている。
「フェスルクシ祭は、昼は収穫に感謝する時間だけど……夜は少し違う意味があるんです」
「……違う意味?」
「闇と寒さを越えるための祈り。冬は命を落とす者も多かったから……昔の人は、灯を天に捧げて、無事を願ったらしい。誰かを想いながら……」
グレイソンの目が夜空に舞う灯に向けられていた。
彼の横顔は、どこか遠くを見ているようで――ほんの少し、寂しげだった。
「祈れば必ず叶うという訳ではありません。けど……誰かの幸せを願う事は、悪くないと思います」
隣に立つグレイソンが微笑む。金色の髪に火の揺らめきが映え、その立ち姿はまるで神殿の騎士のようだった。
「わたし、こんなに綺麗なお祭り……初めてです」
「案内させていただきましょう。光の道は、ひとりで歩くよりも、誰かと分かち合ったほうがあたたかいですから」
彼は自然にアリアの手を取り、手袋越しに優しい熱が伝わってきた。
アリアの心臓が、どくんと音を立てる。
二人は並んで、火の灯された街を歩く。
屋台では甘い焼き菓子が香り、子供たちの笑い声が響く。
「わ、グレイソン様……!見てください、あれ、クッキーがバラの形してます……っ」
アリアは頬を輝かせながら、両手を胸元で組み、屋台を指差した。
その姿は、「聖剣の乙女」という大仰な肩書きからは想像もつかないほど無垢で、少女らしかった。
「……アリア嬢はお菓子が好きでしたね」
「だ、大好きです! 辺境伯領では、あまりこういう……可愛いお菓子はなくて」
「それは盲点でしたね。アリア嬢の作戦勝ちというところでしょうか」
そう言って微笑んだグレイソンは、すでに屋台の前に進み、銀貨を差し出していた。
「クッキーをひとつ」
「えっ……!」
アリアは慌てて手を振る。
「いえっ、そんな、グレイソン様におねだりしたつもりじゃ――」
「ご心配なく。これは、私の策略です」
「さ、策略……?」
「アリア嬢の笑顔は、何より祭を輝かせますから」
その声音には、どこまでも柔らかい毒気があった。
アリアは顔を真っ赤にしながら、渡された菓子の包を抱えるように持つ。
その姿は、まるで宝物を受け取った子供のようで、頬がほんのりと赤く色づいている。
「ふふ、そんなに大事そうにしてくれるとは……うれしいものですね」
やわらかな笑みに、アリアは赤い頬を隠すようにうつむきながら、そっと一枚だけクッキーを取り出した。
「いただきます……!」
小さな声で呟いてから、クッキーを一口、ゆっくりと頬張る。
ほんのり甘い香りと、サクッとした触感が口の中で広がり、アリアの瞳が幸せそうに細められた。
「……おいしい」
クッキーを一口頬張り、満面の笑みに頬をゆるめたアリアは、ふと、となりのグレイソンを見上げた。
「あの……グレイソン様も、食べてください」
そう言って、ほんのり温かなクッキーの包みから一枚を取り出し、そっと彼の方へ差し出した。
一瞬、グレイソンの瞳がやわらぎ、次第に穏やかな笑みに変わる。
「よろしいのですか?」
「はい!一緒に食べた方が、もっとおいしくなるから」
ほんのりと頬を赤らめながらも、まっすぐ伝えたその言葉が、やわらかな陽射しの中で響いていった。
グレイソンは受け取ると、静かにそれを口元へ運ぶ。
サクッという心地よい音が、穏やかな祭の喧騒と共に紡がれた。
「……たしかに、アリア嬢と一緒なら、なおさら美味しく感じますね」
そう呟き、ほんの一瞬だけ、慈しむようにアリアを見つめたその瞳は、陽の光の中で優しく煌めいていた。
栗のタルト、かぼちゃの焼き菓子、花の蜜で作られた冷たいジュレ。
フェスルクシ祭の通りには、甘い香りと色とりどりの出店が連なる。
その一つ一つが、アリアの瞳を輝かせ、心を踊らせた。
「わぁ、栗のタルト……!」
カリッと香ばしいタルト生地の上で、つややかに輝く栗が一粒、甘いシロップのベールをまとっている。
一口頬張れば、やわらかな甘みに口元が自然とゆるみ、笑みがこぼれる。
「それから、こっちは……」
次の屋台から受け取ったのは、黄金色のかぼちゃの焼き菓子。
しっとりとなめらかな口当たりと、ほんのりとした甘みに、心まであたたまる。
「……最後は、これ!」
そう言ってアリアが手にしたのは、きらきらと陽の光をまとった、花の蜜で作られた冷たいジュレ。
一口運ぶと、涼やかな甘さと華やかな香りが舌先から広がり、心を爽やかに満たしていった。
「どれもおいしい……!」
頬を赤らめながら、幸せそうに呟くアリアの姿が、まるでお祭りの一部となるように、陽の中でやわらかく輝いている。
「ふふ……アリア嬢、ジュレが溶けてますよ?」
「わわっ、あっ、待って……! ああ、手が……!」
「……どうぞ」
彼はハンカチで、そっとアリアの指先を拭う。
その所作は限りなく優しく、指に触れるたびにアリアの鼓動は高鳴った。
「だ、大丈夫ですっ! 自分でできますから……っ」
「ええ、知っています。でも、今は私に甘えてください」
その一言が、アリアの胸の奥に、とろりと甘く落ちた。
少し、くすぐったくも思ったアリア。
祭の熱気がひと段落し、夜の帳が降りる頃――
川沿いの灯篭がぽつぽつと点され、道行く人々の声も落ち着いていた。
「わぁ……!」
アリアは思わず立ち止まった。目の前には、色とりどりの花とリボンで飾られた石畳の通り。屋台の甘い香りが風に乗って漂い、祭の音楽が心を浮き立たせるように響いていた。
「気に入りましたか? アリア嬢」
「はいっ……!こんなににぎやかなの、久しぶりで……!」
その横顔を見て、グレイソンは微笑む。
ただし、それは彼が人前でよく浮かべる仮面の笑みではなかった。
ほんのわずかに、柔らかい――まるで、アリアという存在だけに許された表情。
その様子を穏やかに見守るグレイソンも、ほんの少しだけ笑みを漏らした。
「アリア嬢の笑顔が、何よりのご褒美ですね」
祭の喧騒が遠ざかる一瞬、幸せが確かに、二人の間を通り抜けていった。
「今日、ずっと楽しかったです」
「それは何よりです」
「……でも、少しだけ、胸が痛いです」
アリアはぽつりと呟いた。
「明日には、また“聖剣の乙女”としてのわたしに戻らないといけなくて……。今日のわたしは、なんだか“普通の女の子”で……ずるいくらい、幸せで……」
グレイソンは静かにアリアの横に並ぶと、少しだけ身を屈めて囁いた。
「アリア嬢。貴女がどんな姿であっても、私は――いえ。貴女が“聖剣の乙女”であることに、誇りを持てるように、私は在りたいのです」
ごまかすように視線を逸らすグレイソン。
けれどアリアは、その一瞬だけ見せた彼の表情に気づいた。
それが、誰よりも優しい、そして少しだけ寂しげな瞳だったことに。
「グレイソン様」
「はい?」
「また、連れて行ってくれますか? こういう場所……わたし、もっと見てみたいです」
「ええ。何度でも、何処へでも」
月明かりの下、グレイソンはアリアの髪に手を添え、小さく囁いた。
「ただし……あまり私に甘えてばかりだと、困りますよ」
「こ、困る……?な、何がですかっ……!?」
「私が、貴女を離せなくなってしまう」
アリアの頬が真っ赤になる。
「も、もう……からかうのはやめてくださいっ」
照れた頬を隠そうとしながら、アリアがほんの少しだけ口を尖らせた。
グレイソンは優しく笑う。
ふたりの距離は縮まったまま、静かに時間は流れていった。
祭りの終盤。灯りが空に舞い、夜風が少しずつ肌を冷やし始めた頃――
屋台の明かりのそば、アリアは羽織っていた薄手のストールをぎゅっと肩に寄せた。
「寒くはありませんか、アリア嬢」
すぐそばにいたグレイソンが、柔らかく微笑む。
その声に、アリアはふわりと振り向いた。
「だ、大丈夫ですっ。あの……」
そう言いながら、彼女は手のひらをぎゅっと握って、
おそるおそる、バッグから小さな包みを取り出した。
「えっと……これ……よかったら……」
グレイソンがそれを受け取って開くと、中には花の形をした銀のラペルピンが入っていた。
「……これは?」
「フェスルクシ祭の……その……最後に、花の形をしたものを贈ると、恋や幸せを願うって……聞いたので……。あっ、べ、べつに深い意味じゃなくてっ。似合いそうだなって思っただけで……っ」
慌てて手を振るアリアの姿に、グレイソンは微笑みを深めた。
けれど、その目はどこか真剣だった。
「ふふ……これは、ずるいですね。そうおっしゃるなら、私も“意味はない”と言って渡すべきでしょうか」
そう言って、彼は懐から何かを取り出した。
彼の手の中には、小さな箱。そして中には――繊細な花のモチーフがあしらわれたストールクリップ。
「え……わたしに、ですか?」
「もちろん。アリア嬢に、です」
まっすぐな声音で、彼は言った。
「……もし、気に入らなければ……無理にとは」
「いいえ。すごく、嬉しいです」
「留め具があれば、風でストールが落ちる心配も減ると思って。ほんの気持ちです」
そう言って、グレイソンはそっとアリアの肩に手を伸ばし、ストールの端を留めてくれる。
胸元に留まった花のモチーフは、月の光を受けてほんのりと輝いていた。
アリアはその場に固まってしまい、耳まで真っ赤になる。
「ふ、不意打ちすぎますっ、グレイソン様……!」
「これは、“意味がない”贈り物ではありませんよ」
アリアの心臓が、どきりと跳ねる。
「……っ、はい」
やっとの思いで紡いだその言葉と共に、アリアの唇から、こぼれるように笑みがあふれる。
夜風がさらさらと吹き抜け、祭の余韻が辺りをやわらかく包んでいたその時。
視界を遮るように一人の令嬢が前に立ちはだかった。
「まあ……やっぱりそう。あなた、あの任命式の宴にいらしていたわよね?」
アリアは困惑したまま、口を開く。
「……はい。えっと……」
「エミリア・シディアンよ」
凛とした笑みの裏に、何かを試すような棘があった。
そして、視線はすぐに隣に立つグレイソンへ。
「その方は……あら。オルトリクス家のグレイソン様、でしたかしら?」
「ごきげんよう、エミリア嬢。お変わりなく」
グレイソンは礼儀正しく微笑んだが、その奥には静かな警戒の光がある。
「うふふ……それにしても、“聖剣の乙女”とは、案外と気楽な立場なのね?騎士様に守られて、こんなに堂々と街を練り歩いて……まるで、お飾りのように」
「……っ!」
アリアの目が揺れる。が、エミリアはさらに言葉を重ねる。
「キース様も大変ね。こんなに気を遣わなければならない相手が側にいるなんて……アリア様、早く“主”を見つけたらどうかしら?」
「“主”……?」
「ふふ。まさか、男を誑かして遊んでるだけなんてことは、ありませんわよね?」
その言葉に、アリアが息を呑む。
その時――隣にいたグレイソンが、一歩前に出た。
いつもの柔らかい笑みはそのままに、しかし瞳の奥が鋭く光る。
「……なるほど。エミリア嬢の“社交術”とは、褒め言葉に毒を混ぜるスタイルなのですね。
ただ、対象を選びませんと……毒は、すぐ自分に跳ね返ってきますよ」
エミリアが思わず眉をひそめる。
「何を……?」
「いえいえ、ただの世間話です。ただ……私の隣にいる方を“誑かしている”などと形容されるのは、さすがに聞き捨てなりません」
そして声のトーンをほんの少しだけ低くする。
「それに、貴女の想い人の前でそんな振る舞いをなさるとは……
その勇気だけは、称賛に値するかもしれません」
「えっ!?」
「エミリア嬢」
深く、低い声が人混みを割った。
エミリアが振り返ると、そこにはキースの姿があった。
黒髪が月光に照らされ、どこか涼しげな表情で近づいてくる。
「……キース様……」
嬉しそうな笑みを浮かべるエミリアだったが――
キースの視線はアリアとグレイソンへと真っ直ぐに注がれていた。
「その口ぶり……ずいぶんと軽率なことを仰いますね。
“誑かす”という言葉は、貴女の品位を問われますよ」
エミリアの笑顔が引きつる。
「アリア嬢は、剣としての役割も、乙女としての責任も、誰よりも真摯に受け止めておられる。
それを“飾り”と評すのは、あまりに浅はかです。
――そして、貴女が今、誰よりもそれを理解しているのでは?」
「ですが、私はただ、彼女が騎士たちに囲まれて……」
「アリア嬢は“聖剣の乙女”です。そして、彼女のそばに誰がいようと――それは彼女の意思に委ねられるべきものです」
キースはアリアの隣に歩み寄ると、そっと視線を合わせた。
「アリア嬢。何も気にすることはない。君の在り方に、誰も文句を言う権利はない」
「……失礼いたしました」
エミリアはそれ以上言葉を出せず、その場を気まずそうに立ち去っていく。
少しの沈黙のあと、グレイソンが軽く肩を竦めて言った。
「やはり、最後に空気を締めるのはキースですね。……ちょっとだけ、格好いいと思ってしまいましたよ」
キースはふっと笑った。
「ちょっとだけ、とはずいぶん控えめな褒め言葉だな」
「キース様、グレイソン様……助けていただいて、ありがとうございます……」
「お前が無事ならそれでいい」
「お気になさらず。私としては――アリア嬢を、誰にも“飾り”などと呼ばせたくないだけですから」
その目は笑っていたけれど、奥には静かな炎が宿っていた。
祭りの喧騒が次第に穏やかなものへと変わる頃、辺りの空気がほんのりと涼しくなってきた。
アリア、グレイソン、キースの三人は、他の人々と共に、広場の一角へと足を運ぶ。
夜の幕が降りた空には、星々が瞬き、やわらかな明かりが集まり始めていた。
「祭り、最後の締めくくりですね」
グレイソンがそう呟きながら、アリアへ一つの灯篭を差し出した。
小さな灯篭の中で、橙色の炎が穏やかにゆらめいている。
「アリア嬢も、願いをこめて」
「……はい!」
アリアは両手でそれを受け取り、胸元へ引き寄せて目を伏せた。
その横で、キースがわずかに呆れたように肩をすくめながらも、どこか穏やかな表情をしている。
「お前もよくやるものだ、アリア」
「えへへ……でも、やっぱり、こういうのが好きなんです」
そう言って、アリアが笑うと、キースの口元からほんの一瞬だけ、笑みにも似たものがこぼれた。
やがて、三人の手から灯篭が次々と放たれる。
夜空へ、次々と舞い上がる優しい灯の群れ。
それは、幸せや願い、そして未来へと続く想いを乗せ、静寂の空へと溶けていった。
「きれい……」
アリアの呟きが、穏やかな夜の空気に溶ける。
その横で、グレイソンも、キースも、ほんの一瞬だけ空を見上げた。
それぞれの心の中で、言葉にならない想いが、やわらかな灯となって静かに宿る。
こうして、祭の夜は、温かな余韻と共に幕を下ろしていった。