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光の隣、微笑みのあと

任命式当日――朝の支度部屋


窓の外にはまだ薄曇りの空。柔らかな朝の光が差し込むなか、アリアは大きな鏡の前に座っていた。


今日という日にふさわしく。グレイソンが選んでくれた、淡いラベンダー色のドレス。肩先からゆるやかに波打つシフォンが流れ、耳元にはルビーのイヤリングが揺れていた。

その鮮やかな赤が、彼女の肌の白さを際立たせ、まるで静かな情熱を秘めた花のように輝いている。


「……似合いますよ、お嬢様」


後ろに立つセドリックが、静かに微笑む。


彼の手元では、アリアの長い髪が、丁寧に、そして美しくまとめられていく。今日はいつもの無造作ではなく、大人びた雰囲気を意識したという。

ふんわりと柔らかく巻かれ、首元でゆるくまとめられていた。シニヨンに編み込まれた細いリボンが、淡く光を受けて揺れている。整いすぎないその髪型は、幼さをわずかに残しながらも、式典の場にふさわしい気品を漂わせていた。

揺れる髪先がラベンダー色のドレスと相まって、彼女の少女らしさをほんの少し、大人の風に変えていた。


「少し、変な感じ……」


アリアが頬を染め、鏡に映る自分の姿をそっと見つめる。どこか照れくさそうな顔で、けれど視線は真っ直ぐだった。


セドリックはそんな彼女を見て、小さく首を横に振る。


「変ではありません。とてもお似合いです。……今日の主役のひとりですから」


「主役……私は、ただ推薦しただけなのに」


「その“ただ”が、どれほど多くの人を動かしたか。――ハオルド卿も、誇りに思っておられるはずですよ」


静かな声に、アリアは目を伏せ、少しだけ唇を噛んだ。


屋敷の外では、馬車の支度が進む音がする。

「……キース様が迎えに来てくださったようですね」

緊張と、少しの期待。胸の奥で混ざり合う感情を抱えて、アリアはそっと立ち上がった。


「……行きましょう。セドリック」


「はい。お供いたします、お嬢様」


セドリックの言葉に頷きながら、ラベンダー色のドレスの裾をつまみ、アリアは任命式へと向かう屋敷の扉を開いた。


すでに馬車の傍に立っていた男――キースがいた。


彼はいつもの黒の礼装に身を包み、背筋を伸ばして佇んでいた。

その鋭い目が、アリアの姿を見た瞬間、ふとわずかに見開かれる。


「……」


一瞬だけ、その目に映ったものが信じられなかったような表情。

しかしそれもすぐに押し隠され、いつもの冷静な仮面が戻る。


アリアが数段の階段を降りてくると、キースは無言のまま、その場を動かなかった。

ただ、じっと――まるで何かを測るように見つめていた。


「……キース様?」


声をかけられて、ようやくキースが僅かに眉を動かした。


「……その格好、似合ってる」


ぼそりと、低く、短く。

けれどアリアの足が止まるほど、その一言には不思議な重みがあった。


「え……あ、あの……ありがとう、ございます」


頬を赤く染めたアリアがぎこちなくお辞儀をする。

キースはすぐに視線を逸らし、馬車の扉を開けて言った。

「……乗れ。遅れるぞ」


アリアは柔らかな微笑みを浮かべて馬車に乗り込んだ。


馬車の車輪が石畳を叩くたびに、かすかな振動がアリアの足元から伝わってくる。

窓の外では、徐々に高くなる城壁が見えはじめていた。


「……もうすぐですね」


そう呟いたのは、セドリック。

キースは黙って前方を見つめていた。相変わらず無表情で、何を思っているのか分からない。


城に近づくにつれて、アリアの胸の鼓動は早くなる。

重厚な石造りの城壁が視界に入り、その威厳に圧倒されてしまった。


馬車は、城の正門へと到着した。


「……緊張する」

アリアが小さく呟くと、隣に立つセドリックが穏やかな声で答えた。


「大丈夫ですよ」


セドリックの落ち着いた声と言葉に、アリアは少しだけ肩の力を抜くことができた。

彼の存在が、冷たい石造りの城の中でも温かい支えとなっている。


城内の扉がゆっくりと開かれ、儀式の場へと続く回廊が現れた。

アリアはその壮麗さに一瞬、息をのむ。


けれど――


「行こう」

低く落ち着いた声とともに、そっと差し出された手。

キースの手が、迷いなくアリアの手を取った。


「えっ……」


思わず見上げた彼の横顔は、式典に臨む武人としての凛とした気配に満ちている。

なのに、その手の温かさだけが、やけに優しくて。


「緊張してるのが、顔に出てる」


「そ、そんなに……?」


「かなり」


からかうように口元だけで笑うキースに、アリアは頬を赤らめながらもうなずいた。


「……見せたい顔だけ見せておけ。今日のお前は“聖剣の乙女”だ」


「……はい」


アリアは深く息を吸い込む。

そして背筋を伸ばした。


「……ありがとう、キース様」


そのまま、手を引かれて回廊を歩く。

足元に響く靴音は心音に重なり、アリアの胸は高鳴っていた。


まるで――これから始まるのが任命式ではなく、何か大切な「誓い」の場であるかのように。


控え室の前に来た時、セドリックは一礼し、静かに身を引いた。

「それでは、私は先に謁見の間でお待ちしております」


「はい……」

アリアは少し背筋を伸ばし、深呼吸した。

控え室の扉が静かに開き、アリアはキースの手に導かれるようにして足を踏み入れた。

緊張の中、先に来ていたグレイソンと目が合った瞬間、空気が一瞬止まる。


「……アリア嬢?」


低く落ち着いた声が、思わず漏れた。

彼女の姿を見た途端、グレイソンの目に、ほんのわずかな驚きが浮かぶ。


柔らかく巻かれた髪はうなじでゆるくまとめられ、細いリボンが編み込まれている。

その髪型だけでも十分にいつもと違った。


「……綺麗ですよ」


グレイソンはそう言って、そっと微笑んだ。

声は落ち着いていたが、その瞳の奥に、ひそやかな感情が揺れている。


彼女のために選んだドレスが、彼女自身の輝きを一層際立たせていた。

それを目にしてしまった今、何かが胸の奥で静かに音を立てている――

そんな素振りを一切見せることなく、グレイソンはただ、彼女の美しさを穏やかに讃えた。


「……似合ってる。思っていたよりも、ずっと」


そう言って微笑んだグレイソンに、アリアは顔を赤らめて小さくうつむいた。

「ありがとうございます……グレイソン様が選んでくださったドレスのおかげです」


「今日は、ずいぶん大人っぽく見えますね」

そう穏やかに微笑んだグレイソンの言葉。


「……あの、そんな……」

戸惑いながらも、視線を落とすその仕草は、否定しきれない嬉しさの表れだった。


リボンが編み込まれた髪を指先でそっと触れながら、

彼女はどこかくすぐったそうに、けれど笑顔を浮かべる。


その様子を横で見ていたキースが、静かに咳払いをひとつ。


「……アリア嬢は緊張してる。あまり弄るなグレイソン」


口調は丁寧だったが、その目は少しだけ鋭い。

グレイソンは苦笑しながら手を上げ、小さく肩をすくめた。


「それは失礼。つい、見惚れてしまいました」


アリアは思わずキースとグレイソンの顔を見比べ、

「もう……やめてください」と小声で抗議する。

その声も、少しだけ笑っていた。

グレイソンの変わらない穏やかな視線と、キースのどこか不器用な気遣いに囲まれて、ようやく自分が自分に戻れた気がする。


(知ってる顔ばかり……なんだ)


そう気づいたとき、アリアはそっと目を伏せ、微笑んだ。

「あれ? お嬢ちゃん、もう来てたのか!」


後ろから陽気な声が響いた。扉が開いて現れたのはカイルだった。


「ふふ、カイルさん。久しぶりです」


アリアが微笑むと、カイルは少しだけ目を細めて言った。


「久しぶりって、おいおい、まだ一週間だぞ?」


「でも……なんだか、懐かしくて」


アリアはそう呟くと、小さく笑った。目の前に立つ彼らと過ごしてきた日々が、遠くて近い、そんな不思議な感覚が胸にあった。


ほどなくして、ハオルド卿も姿を見せる。正装に身を包み、凛とした佇まい。だがその視線はどこか優しく、アリアを見ると軽く会釈をした。


「今日の任命式、貴女にも見守っていただけて、心強い」


「……私も、見届けたいと思っていました」


言葉を交わす彼らの間には、短いけれど確かに築かれた信頼の空気があった。


グレイソン、キース、そしてハオルド卿とカイル。


この部屋に集まった顔ぶれは、アリアにとってただの貴族でも、護衛でもない――心を通わせてきた、大切な人たち。


そして、任命式の鐘が再び、低く鳴り響いた。


控え室の扉が静かに開かれた。

「陛下がお待ちです」

案内の声に、空気が一気に張り詰める。


グレイソンが先に歩みを進め、続いてカイル、ハオルド卿、そしてキース。

最後に、アリアはゆっくりと歩き出した。


足元に敷かれた紅い絨毯、両脇に並ぶ衛兵の鋭い視線。

高くそびえる天井、冷たい石壁に反響する自分の足音が、やけに大きく感じられた。


(胸が……苦しい)


アリアは小さく息を呑んだ。

指先が少しだけ震える。ルビーのイヤリングが、カタリと微かに揺れた。


(こんなに大勢の前で……しかも王様の御前で……)


けれど――


視線の先に、グレイソンの背中が見える。

そのすぐ隣にはキースがいて、彼女のことを一度振り返って、静かにうなずいた。


(……大丈夫。私は、一人じゃない)

ついに、重厚な謁見の扉がゆっくりと開く。

金の装飾が施された扉の向こうには、王と、列席する多くの貴族たちが待ち構えていた。


アリアは深く息を吸い、静かに歩を進めた。



燦然と輝くシャンデリアの下、王の声が響く。


謁見の間に鳴り響く高らかなファンファーレ。天井まで届く荘厳な天蓋と、整然と並ぶ王国の貴族たちの視線が、前へと集まる。


アリアは静かに列の中から、王の前に立つハオルド卿を見つめていた。


(金の刺繍が映える正装……いつもよりずっと堂々として見える)


王の前に立つその姿は、アリアの胸の奥がじんと熱くなる。


(たぶん……本人より、私の方が緊張してる)


自分が背負わせた重責、その意味を今になって思い知る。

王の視線が、重く降りかかる。

周囲に並ぶ貴族たちの眼差しも、無言の圧を放っていた。


(お願い、ちゃんと――選んでよかったって、皆に思ってもらえるように)


アリアはぎゅっとドレスの裾を握った。彼女自身の「責任」の象徴でもあった。


そんな彼女に、ふとハオルド卿が視線を向けた。

一瞬だけ、硬い表情が少しだけ和らぐ。

その微かな笑みに、アリアの胸に張り詰めていた緊張が、ほんの少しだけ解けた。


(……大丈夫。信じてる)


彼女は小さく頷き、まっすぐ前を見つめた。


中央には、王が静かに立ち上がり、澄んだ声で告げた。


「このたびの乱に際し、辺境伯領における混乱と犠牲は、王国としても看過できぬ重大事であった。


されど、混迷の中にも誠と矜持をもって振る舞った者たちがいた。


ハオルド・アンデル卿――

貴殿はかつての失脚を経ながらも、なお民の声に耳を傾け、己が志を失わず、このたび再び信頼を得るに至った。


よって、ここに王命をもって、貴殿を新たなる《辺境伯》に任ずる。


この地を守り、正しき秩序をもって、民と領土を導くことを――王として、願い、託す。」


王の厳かなる宣言のあと、会場は一瞬、静寂に包まれた。


「ハオルド卿、前へ」


ハオルド卿は堂々と進み出てた。

王の侍従が印章を捧げ持ち、それを王が手に取った。


「ハオルド・アルデン。そなたに辺境伯の称号を授ける。

 この印と共に、領土と民を守る責務を――今ここに」


ハオルド・アンデル卿は静かに膝をつき、右手を胸に当てたまま、頭を深く垂れる。

「この身、この命、辺境のために捧げましょう。

陛下の御命、確かに拝領いたしました。

未熟な我が身ではありますが──再び立ち上がる機会を得たこと、深く感謝いたします。

導いてくれた者たちの志を胸に、王国と民のため、全力を尽くす所存です」


その声音は、かつての誇り高き領主のものではなく、幾多の失敗と再起を経た男の、確かな決意に満ちていた。


静かに拍手が広がり、やがて堂内に確かな敬意の波となって満ちていく。

それは称賛と歓迎、そして信頼の証。


──後列に並ぶアリアは、瞳を潤ませながら、小さく息を吐いた。


「……よかった」


隣に立つキースは、そんなアリアにそっと視線を向ける。

アリアは顔を上げ、前方に堂々と立つハオルド卿の背を見つめる。


──その背には、かつての陰りではなく、確かな誇りが宿っていた。


グレイソンは微笑を浮かべ、キースは無言のまま小さく頷いた。


騎士たちの間にも、ざわめきとともに安堵の気配が流れ、数名の貴族は「アンデル卿が……ここまで立ち直るとは」と驚いたようにささやき合う。


貴族たちはそれぞれの思惑を胸にしながらも、新たな時代の訪れを祝福していた


拍手の余韻が謁見の間を満たす中、王はまっすぐにアリアの方を見据える。


「――聖剣の乙女、アリアよ」


名を呼ばれた瞬間、アリアの肩が小さく跳ねた。

緊張のあまり固まったように、その場に直立する。


「汝が辺境にて示した献身と勇気、国としてしかと見届けた。

 この国の守り手として、また民を導く存在として……その名は王都にまで届いておる」


広い謁見の間に、王の重みある声が響き渡る。

アリアは小さく頷きながら、懸命に視線を逸らさないように王を見上げていた。


「今後、王都にて聖剣の乙女としての務めを果たすにあたり、国としての保護と支援体制を改めて整える」


低く響く声に、式場の空気が再び張り詰める。


「我が王国が誇る『聖剣の乙女』

アリアの警護は、今後──我が直属の“黒の騎士”キース・アークレインが全うするものとする」


騒然となる場内。アリアの隣でキースが一礼し、無言のままその言葉を受け止めていた。

(キース様が警護?)


だが、王の言葉はまだ続く。

「セドリック・ロウエルを、王直属の側近として再び迎え入れ任を授ける」


「──えっ?」


小さくもはっきりと、その声が響いた。


誰よりも近くにいたはずの人の異動。唐突すぎる報せに、アリアは思考を追いつかせられずにいた。

(何が起きてるの?……)


事前の説明もなく訪れた人事に、アリアの頭はついていかない。

けれど、目の前で変わっていく状況に、否応なく自分の立場もまた変わりつつあることを悟る。


ざわりと、場の空気が緊張を帯びる。だが、それは誰もが納得する任命だった。


王の左右に控える者たちの姿にも、視線が向けられる。


黒き軍装に身を包んだ騎士。アグラディウス王国において最も恐れられ、最も忠義を尽くす男――《黒の騎士》キース・アークレイン。


その隣に立つは、淡いラベンダー色のドレスに身を包んだ少女。

聖剣の乙女――アリア・セレフィーヌ。


その中で、ただ一人――グレイソンが小さく笑みを浮かべた。


「……これで、誰も手出しはできませんね。“黒の騎士”が側に居ると王が宣言した。これほど強固な護衛は他にありません。それに――」


「こうして王命という形で、周囲の貴族たちにも“見せつける”ことができた。

我々はただ守っているのではなく――奪わせないという意思も、です」


そして、王が静かに手を掲げる。


「この度の功績、王国にとって誠に大きなものであった。

……聖剣の乙女よ。勇気と選択に、王として深く感謝を捧げる。」


アリアは、胸の前で手を重ねて深く頭を下げた。まだ少し緊張しているのか、肩がこわばっていた。


「キース・アークレイン」


その名が告げられた瞬間、会場が静まり返る。

黒の礼装に身を包んだ彼は、一歩前に進み、片膝をついた。


「謹んで、お受けいたします。」

重みのあるその声に、アリアの胸が熱くなる。


「セドリック・ロウエル」


「謹んで拝命いたします。我が剣と知略を、すべて陛下のために」


アリアから離れた位置。

王の右手側の列に控えるセドリックが静かに一礼する。

その一言で、アリアは息を呑んだ。

(セドリック……)


アリアはセドリックを見て。

「……国王陛下の……側近……だったの……?」

小さな声が、思わずこぼれる。


セドリックは優しく笑った。

その笑みはどこまでも優しく、しかしどこか、さよならの気配が滲んでいた――。


アリアは混乱していた。

(キース様が、私の警護……? セドリックが……王直属の側近に……?)


理解が追いつかない。目の前で起きている出来事が、どこか遠くの話のように感じられた。


ぐるぐると頭の中で思考が渦巻く。

目の前の国王が何を話しているのかも、断片的にしか入ってこない。


「アリア・セレンティーヌ」


それでも、立ち尽くすわけにはいかなかった。

式典の場に立つ一人の貴族として、聖剣の乙女として――自分の立場を思い出す。


「……畏まりました。国王陛下のご意志に従い、謹んでお受けいたします」


自分でも驚くほど、声はしっかりしていた。

けれどその言葉と、渦巻く思考とが噛み合わず、胸の内はざわついたままだ。


視線の先、セドリックが一礼し、王の傍らに控える。

もう「セドリック」と気軽に呼べないような、そんな距離が生まれてしまった――


(……なんで、何も言ってくれなかったの?!)


心の奥で、ぽつりと小さな疑問が浮かんだ。

(…………違う)

それでもアリアは、表情にそれを出さなかった。

それが、きっと今の自分にできる“立ち方”なのだと信じて。


威厳をたたえた国王の声が、謁見の間に響いた。


豪奢なシャンデリアが煌めき、宮廷楽団の優雅な音色が流れる中。

王城の大広間には、多くの貴族や官僚たちが集い、先ほどの任命式の余韻がまだ残っていた。


「辺境伯ハオルド卿に、祝福を!」


王の一言とともに、宴の開始が告げられると、場の空気が少し柔らかくほどけた。

それでも、アリアの胸はどこか落ち着かない。

喜ぶべきことなのは分かっている。

けれど、胸の奥がざわついていた。


祝賀のざわめきがやや落ち着き、煌びやかな楽の音が広間に広がる。

貴族たちはそれぞれの祝辞と歓談に興じていた。


その一角――アリアの隣に立つキースは、硬い表情を崩さぬまま周囲を見回していた。

まるで騎士としての務めを、儀礼ではなく実戦として担っているかのように。


「華やかなご任命でした、素晴らしかったですよ……」

穏やかな声と共に、グレイソンが杯を片手に近づいてきた。


「グレイソン様……ありがとうございます」

アリアは微笑んで応じるが、その笑顔にはどこか影が落ちている。


グレイソンの目は鋭い。アリアのその表情を見逃さなかった。

「……セドリック殿が、気に病みますか?」


アリアは一瞬目を伏せ、そして静かにうなずいた。

「……っ、はい……」


キースは何も言わず、ただそのやり取りを聞いていた。


「私……知らなかったんです」

アリアは杯をそっと胸元に下ろし、まるで祈るように両手で包む。

「セドリックが隣に居たのは、私を守るためだったなんて……

それが当たり前だと思っていたんです。あの人のこと、何も知らなかった。

……きっと、知ろうともしなかったんだと思います……」


彼女の声音には、自責の念が滲んでいた。


そのとき、キースが初めて口を開いた。

「お前はずっと……アグラディウス王国が守ってきた。――それだけだ」


キースの言葉は、淡々としていたが温かさを含んでいた。


「えぇ……アリア嬢は既に、この国に代価を成しました」

グレイソンの声が続いた。

「それを理解しない者こそ、守られる価値がありませんよ」


アリアは目を伏せながら、そっと呟いた。

「……私も、誰かを守れるようになりたいです」


その声に、キースの視線がわずかに揺れた。


「……あの、私……このままキース様の屋敷で暮らすんですか?」


「正式な警護任命が下された。滞在は必要だ」

キースの声は淡々としていたが、どこか戸惑いを含んでいるようでもあった。


キースは一瞬だけ視線を逸らし、それから再びアリアをまっすぐに見据えた。


「ここでの暮らしが不満なら、王都の別邸も検討する。……だが、どこにいても、お前には警護が必要だ」


「……いえ、大丈夫です」

アリアは小さく首を振る。

「キース様のご負担にならないなら……ここで」

少し間が空いた後、キースがぽつりと呟いた。


「……負担じゃない」


それが、彼なりの優しさだと気づくのに、アリアはほんの少し時間がかかった。

グレイソンは肩をすくめてみせる。


「とはいえ、黒の騎士が警護についたとなれば、そう外には出歩けませんからね。少々、窮屈にはなるかもしれません」


「アリア嬢……これからは、キースの屋敷で監禁生活です」

グレイソンがワインを口に含みながら、悪戯っぽく笑った。


「……え? 監禁?!」

アリアは思わず声を上げ、きょとんと目を丸くする。


「……お前な……誤解するだろう」

隣にいたキースが、眉間に皺を寄せてグレイソンを睨んだ。


「……冗談に聞こえない」

アリアは唇を引き結んだ。


そこには、かつての“黒の騎士”ではなく、優しく彼女を見守るひとりの男の姿があった。


三人の会話がひと段落したところへ、賑やかな足音が近づいてきた。

現れたのは、朗らかな笑みを浮かべたカイルだった。


「お嬢ちゃん、黒の騎士様が警護になって良かったなあ」

屈託のない声が、宴の喧騒に溶けて届く。


「カイルさん……はい……」

アリアは照れたように頬を染め、目を細めた。


「お嬢ちゃんは“聖剣の乙女”だからな。悪い虫つかないように、ちゃんと守ってもらわないと」

そう言いながら、大きな手でアリアの頭をぽんぽんと撫でた。


「えへへ……ありがとうございます」


だがその瞬間――


「…………」

隣にいたキースの目が、ゆっくりとカイルを射抜くように細められる。


カイルの手がアリアの髪に触れている間中、黒の騎士の赤い瞳は、まるで刃のように鋭く彼を睨み続けていた。

グレイソンはその場にただならぬ空気を感じた。

(……なんか……空気が、重い……)


撫でられている本人は嬉しそうに微笑んでいる、グレイソンは肩をすくめた。


「……カイルさん、そのくらいにしておかないと、燃やされますよ」

「え、なんで?」

「……命が惜しければ」

ぼそっと呟いたグレイソンに、カイルは首を傾げたままだった。


アリアも、事態に気付かぬまま、にこにことしていた。


一方、キースはそっとアリアの肩を引き寄せて、カイルの手の届かぬ場所へと自然に移動させる。

何事もなかったかのような顔で。


「……良いのか? セドリックに挨拶しに行かなくて」


アリアの足が、ぴたりと止まる。


まるで見透かすような声音。

けれどそこに咎める色はなく、ただ、彼なりの優しさが滲んでいた。


アリアは俯いたまま、少しだけ口元に指を添えた。


──セドリックに会いたくないわけじゃない。

でも、もう“執事”じゃない彼に、どう接すればいいのかわからなかった。


(セドリックにとって私は……“任務”の一部だったの?

あの微笑みの裏には、王の命令だから?)


そんなことを考えてしまう自分が、嫌だった。

信じていたいのに、信じきれない――その揺らぎが胸の奥を締めつける。

「……。」

キースは数秒だけアリアを見つめてから、小さく目を伏せた。


「……そうか。なら、俺は何も言わない」

キースの声は低く、しかし静かに、胸に届く。


「でも、お前が――本当に信じたいやつがいるなら。

……その気持ちだけは、置き去りにすんなよ」

アリアの瞳が揺れた。


宴も終盤に差し掛かり、賑やかさの中にほんの少し、夜の静けさが混じり始めていた。


「キース様……私行ってきます…」


キースはその目を見つめ、ほんの一拍の沈黙のあと、短く頷く。


「……あぁ」


それだけだった。

けれど、そこにはすべてが込められていた。

不器用で、でも確かに背中を預けられる言葉。

アリアは迷いのない足取りで、広間の片隅に立つ銀髪の男に向かって歩いていく。

背筋を伸ばし、少しだけ握った拳が、彼女の決意を表していた。


(セドリックに話さないと。ちゃんと、自分の言葉で)


遠くからその後ろ姿を見守るように、キースとグレイソンが立っていた。

グレイソンはグラスを傾けつつ、低く声を漏らす。


「……警護として、先に一手を出しました。アリア嬢の正式な警護を黒の騎士が担うと公にしたのは……エルンハイム国の反応を探る意味でもあります」


「それで、どう出るか」

キースは表情を変えず、アリアの背を見つめていた。


「このまま“聖剣”を手放し、期待しないものとして扱われれば……こちらとしては助かるんですがね」


「……まだ、油断はできない」

わずかに目を細めたキースの声は、鋼のように冷ややかだった。


「えぇ。エルンハイムは、理性と打算で動く国。感情では通じませんから」


「じゃあ――感情で動いたアリアは、どうなるんだ?」


グレイソンは返事をせず、ただ肩をすくめて苦笑した。


宴の喧騒の中、ドレスの裾をたなびかせながら一人の令嬢が歩み寄る。

栗色の髪を巻き上げ、朱のドレスを纏ったその姿は、一際華やかで目を引いた。


グレイソンがその姿に気づくよりも早く、エミリアはまっすぐにキースの前へと進み出た。


「キース様。お久しゅうございます」


キースはちらりと視線を向けただけで、すぐに正面へと目を戻す。


「ああ。エミリア嬢」


「まぁ、お名前で呼んでくださるなんて……今日は特別な夜になりそうですわ」


エミリアの視線はキースにまっすぐ向けられていた。

にこやかに微笑むエミリアだったが、キースの目は彼女の肩越しを見ていた。

誰かを探しているのか、それともただ無関心なのか――彼女には分からない。

「任命式で、お姿を拝見しておりましたわ。新たな“聖剣の乙女”……可憐なお方でしたわね」


艶やかな微笑みを浮かべて言葉を重ねる。エミリアの指先が、手にした扇をぎゅっと握る。

表情こそ崩れないが、その胸の奥には冷たい痛みが走っていた。


「……まさか、キース様が、あの娘の警護に選ばれるとは」


「仕事だ。それ以上でも以下でもない」


エミリアの瞳がほんの一瞬だけ揺らいだ。


「――本当に、そうですの?」


声は静かだったが、その奥には確かに感情があった。

嫉妬、苛立ち、そして、どうして自分ではなかったのかという執着。


グレイソンがその会話の温度に気づき、さりげなく一歩前に出る。

「エミリア嬢、今宵はおひとりで?」

エミリアはその問いに一拍遅れて応じた。


「ええ、父は陛下へのご挨拶で席を外しておりますの。……でも、私はただ、キース様のお顔を一目、拝見したくて」


グレイソンは口元に笑みを浮かべたが、その目は冷静だった。


「それは光栄なことですね。ですが、キース殿は警備の任にあります。お気遣いを」


エミリアはその言葉に反応を見せなかったが、扇で口元を隠したまま、僅かに唇を噛んだ。


「……ええ、承知しておりますわ。どうぞ、良い夜を」


そう言って一礼すると、彼女は再び人波の中へと消えていった。

グレイソンは、ふっと小さく笑みを漏らしながら、キースの横顔を盗み見た。

「……相変わらずですね、あなたは」


「何がだ」


「……少し冷たすぎるのでは?」


「言葉を交わす理由がない」


それが面白かったのだろう。

グレイソンは笑みを隠すように口元に指を添えた。



一方、アリアはようやくセドリックの前に立ち止まる。

彼女の唇が、静かに動いた。


「……セドリック」


その声に、かつての執事がゆっくりと顔を上げる。

右目にかかる傷痕の奥に、わずかな揺れが宿っていた。


(王直属……もう、簡単には会えなくなる……)

彼はもう、王のすぐ隣に居る立場になっていた。

アリアは勇気を出してセドリックに近づいた。

彼女の呼びかけに静かに振り返ってくれた。


「……本日のご任命、おめでとうございます」


「ありがとうございます、アリア様」


かしこまったその声に、また少しだけ距離を感じてしまう。

ほんの数時間前までは、同じ屋敷で、たわいもない会話を交わしていたのに。


「……寂しくなります」


アリアの本音が、ぽつりとこぼれた。


セドリックは、驚いたように目を見開き――すぐに、微笑んだ。

けれどその瞳には、どこか切なさが滲んでいる。


「それは……光栄です、アリア様」


その言葉が余計に切なく響いた。

もう「お嬢様」ではなく、「アリア様」と呼ばれる彼の声に。

遠くなってしまった、確かな現実をアリアは噛みしめた。


「ずっと、そばに居てくれたのに……私知らなかった……」


小さく漏れた声と共に、アリアは俯き、ドレスの裾をぎゅっと握りしめた。

「セドリックにとって私は……“任務”の一部だったの?」


言葉にしてしまった瞬間、胸が締めつけられた。


「ずっと傍にいたのは、王の命令だったから? あの優しさも、全部……」

感情が堰を切ったようにあふれ出す。

「何も言ってくれなかった……騎士だった事も、王直属の側近にだったことも。なのに……なのに……」

声が震える。


しばらく沈黙ののち、セドリックが少し微笑む。けれどその笑みは、どこか寂しげで――

「さて――どこまでが本当だと思いますか? アリア様」


「……!」

でも――


「……違う。私が……知ろうとしなかっただけ、なのよね……」


気づいてしまった自分が、悔しくて、情けなくて。

目の前のセドリックを見上げた。


「……すべて、王の命でした」

セドリックは、ほんの一拍だけ視線を逸らす。そして、ゆっくりと目を伏せた。

淡々とした声。でも、その声色には確かな痛みがあった。


「任務として、あなたの傍に仕え、護り、報告を上げる。あらかじめ決められた役割の中で、私は……執事として振る舞っていた」


一歩、彼が近づく。


「けれど――」


視線が合う。まっすぐな、嘘のない眼差し。


「感情まで命令されることはできません。アリア様。私は、自分の意思で貴女の傍にいた」


「知ってほしかった。けれど、それを口にした瞬間、任務ではなくなる気がして……あなたの“信頼”すら壊してしまいそうで、怖かった」


静かに、けれど真摯に――


「それでも、私はあなたを“任務”とは呼べない」


「……私にとって貴女は――ただ、護りたかった存在なんです」


やわらかな微笑み。

変わらぬその声に、アリアは目を潤ませて彼を見上げた。


ずっとそばに居てくれた。

優しくて、強くて、怖い時も、悲しい時も支えてくれた。

そのセドリックが、もう遠くへ行ってしまう――。


「……セドリックがいてくれたから、私は怖くなかった……」


セドリックは、何も言わなかった。


「……私は、セドリックと一緒にいられる時間が……幸せだったんです」


震える声に、アリア自身も驚いていた。

堪えようとしていた感情が、どうしても言葉になってしまう。


涙がこぼれそうになるのを、懸命に堪えながら、それでも目の前の彼に、自分の想いが伝わってしまう。


「それに……“任務”だったなんて、今さら言われても困ります。

私にとっては……ずっと、大切な思い出なんですから……」


セドリックは、すぐに柔らかく笑った。

「……嬉しいお言葉ですね。アリア様――」


ただ、静かに手を伸ばして――アリアの頭に、そっと触れた。

優しく、名残を惜しむように撫でるその仕草。

その手のぬくもりは、懐かしくて、あたたかくて――それでも、とても遠かった。


「あなたの隣には、これからキース様がついています。私はもう、心配していません」


その言葉は、彼なりの祝福であり、決別だった。


けれど、彼は笑った。

どこまでも静かに、優しく、悲しい微笑みだった。


「あなたが幸せでいてくれることが、私の望みです」


その言葉は、もうアリアの胸を締めつけるだけだった。

何も言えずに、彼の手のぬくもりだけが、残った。

アリアが俯きながら問いかける。

「……じゃあ、もう、会えないの?」


セドリックは少しだけ迷ったように目を伏せ、それでも静かに、まっすぐアリアを見た。

「アリア様がお城に来てくだされば――私は、必ずお迎えに参ります」

その声は、まるで誓いのように揺るぎなく。


「……ほんと?」


「ええ。約束しましょう」

「王の側近としてではなく、私個人の約束です」

と、かすかに指切りの仕草をしてみせた。


アリアはきゅっと唇を噛みしめて、目を潤ませながらも頷く。

「約束ですよ!」


アリアを見つめながら、セドリックは一礼し、言葉を続けることなく静かにその場を離れた。


残されたアリアは、彼の背中を目で追いながら、小さく指を見つめる。

さっき交わした指切り――

深く息を吸い、アリアは踵を返す。


──宴は、終わりを告げた。

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