静かな日々の幻
辺境伯領から帰還したアリアたちを迎えたのは、変わらぬ街並みと、懐かしき風景だった。
ここは――アグラディウス王国。
馬車は、静かに――確かな威圧感を残して止まった。
目の前に広がるのは、まるで黒く沈黙するような石造りの館だった。
高くそびえる壁、冷たい石造り。まるで時間が止まっているかのような静寂に包まれていた。
正面にはアークレイン家の家紋、『漆黒の盾に銀の剣』が掲げられている。風に揺れる黒の旗印は、まるでこの館が外の世界と一線を画していることを示しているようだった。
「ここは……キース様の御屋敷?」
アリアが目を丸くして馬車の窓から外を覗き込む。
「そうだが……」と、キースは肩をすくめた。
「まさか、自分の家に帰れると思ってたのか?」
「えっ? ち、違うの?」
きょとんとしたアリア
「……お前、本当に知らないのか?」
呆れたようにキースが眉をひそめる。
「お嬢様は、聖剣の乙女として自覚なさったのも、つい最近のことでして……」
控えめに口を開いたのはセドリックだった。いつものように丁寧で落ち着いた口調だ。
すると後ろから、グレイソンが肩をすくめながら笑みを浮かべる。
「アリア嬢ですからね。今さら驚きませんよ」
その場に柔らかな笑いがこぼれ、アリアはむっと頬を膨らませるのだった。
「今は王都に戻ったばかりだ。屋敷で休め。話はその後だ」
キースの声には、有無を言わせぬ重みがあった。
「私は自分の屋敷に戻ります。何かあればご連絡を……」
振り返ると、グレイソンが軽く礼を取っていた。旅の疲れも見せず、どこまでも整った所作だった。
「……明日、お伺いさせて頂きます、アリア嬢。――どうか、今日はゆっくりお休みになってください」
その一言が、不安になっていたアリアの胸に、そっと温もりを落とした。
「……はい」
そう言い残して、グレイソンは馬車に乗り込む。扉が閉まり、馬車は静かに走り出した。
状況が呑み込めず、アリアはきょとんとしたまま立ち尽くしていた。
静かに案内されるまま、アリアは屋敷の中へと足を踏み入れた。
こうして――アリアの、思いがけない“客人”としての日々が始まるのだった。
「……人様の御屋敷って、なんだか慣れないなぁ」
アリアは館の広間を見回しながら、所在なさげにぽつりとつぶやいた。
隣にいたセドリックが、ふっと笑って肩をすくめる。
「なんといっても、“黒の騎士”キース様の御屋敷ですからね……。逆恨みされ、誰かに襲撃されるかもしれませんよ」
「や、やめてよ、そういうこと言うの!」
アリアは慌ててセドリックを見上げたが、彼は冗談めかした目を向けるだけだった。
「ご冗談ですよ、お嬢様」
とセドリックは口元を緩めて一礼する。その姿に、アリアはふくれっ面を浮かべながらも、少しだけ緊張を解いた。
「セドリック……どうして、私、自分の家に帰れないの?」
アリアは不安そうに尋ねた。慣れない屋敷を見渡し――彼女にはまだ現実味を帯びていなかった。
「そのことですか」
セドリックは歩みを止め、静かに彼女のほうを振り返った。
「お嬢様の国――エルンハイム国が中立国だということは、ご存知ですよね?」
「うん……」
こくりと頷くアリア。
「そのエルンハイムで、お嬢様は“聖剣の乙女”として生まれました。しかし、”聖剣の乙女”を隠して過ごしていた。結果、国はお嬢様に期待するのをやめ、放置する形を取ったのでしょう」
「放置……?」
アリアの声がかすかに揺れる。
「現在、隣国であるここ、アグラディウス王国が“預かる”という形で、お嬢様――“聖剣の乙女”を保護しています」
「……うっ……」
アリアは俯き、唇をかみしめた。知らなかったとはいえ、自分が“国に見捨てられた存在”であることに、胸がずしりと重くなる。
「ですが……辺境伯領での“聖剣の乙女”の活躍は、今や国中に知れ渡っています」
セドリックの声は静かだが、どこか重さを帯びていた。
「エルンハイムの貴族たちも、さすがに黙ってはいないでしょう」
アリアはぴくりと眉をひそめる。
「……勝手に期待しないでおいて、今さら勝手に期待するってこと?」
その言葉には、怒りと悲しみとがないまぜになっていた。自分の意志とは無関係に動く“国”という存在――それが、たまらなく理不尽に思えた。
セドリックは少しだけ口元をほころばせ、しかし目はどこか寂しげだった。
「ええ。貴族というのは――そういうものです」
「風向き一つで、信じたふりも見限るふりも、いとも簡単にやってのける」
「ですから――今、家に帰れば騒ぎになります」
セドリックは一歩アリアに近づいて、静かに言った。
「それに……エルンハイム国では、“黒の騎士団”を動かすことはできません」
「……」
アリアは唇を噛んだ。何も知らず、ただ自分の家に戻れると信じていたのに――現実は、彼女の居場所すら簡単に奪っていく。
「つまり、私は……国に帰ることもできないし、帰ったとしても守ってもらうこともできないのね」
「はい……ですが」
セドリックはやや強い口調で言い返した。
「アグラディウス王国なら、お嬢様を守る者はいます。キース様も、グレイソン様、私も。……そして黒の騎士団も」
アリアはその言葉に少しだけ目を見開いた。
不安は消えない。でも、少しだけ――この“他国の地”が、温かく感じられた。
「私は……どうしたらいいの……?」
アリアの声は震えていた。頼れる場所も、帰れる家も、気づけばどこにもなかった。
そのとき――
「答えを急ぐな」
低く落ち着いた声が、部屋に響いた。
アリアが顔を上げると、扉が静かに開き、黒衣の男――キースが静かに歩み入ってきた。
「お前がどうするべきかを決めるのは、今じゃない」
キースはアリアの前に立ち、冷たいが、どこか優しさのある目で見下ろした。
「ここはお前を縛る場所じゃない。逃げても、留まっても、選ぶのはお前自身だ」
「だが、少なくとも今――お前は一人じゃない。それだけは覚えておけ」
アリアの目に、じんわりと涙がにじんだ。
ようやく、誰かに「選んでいい」と言われた気がして――心が、少しだけ軽くなった。
「今、王都では“聖剣の乙女”の警護体制について、議論が続いている」
キースは窓の外に目を向けながら、低く言った。
「だが……やはりエルンハイムが間に挟まっているせいか、どの陣営も決定的な動きを見せない」
「守るべき存在だとわかっていても、手を出せば国際問題になりかねん。皆、そう考えている」
アリアは黙ったまま、拳をぎゅっと握りしめる。自分の立場が、まるで火薬の上に座らされているようで、息が詰まりそうだった。
「……私は、ただ元の生活に戻りたかっただけなのに」
ぽつりと漏れたアリアの言葉に、キースの視線がゆっくりと彼女へと戻った。
「戻れると思っていたのか?」
静かに投げかけられたその問いに、アリアは目を見開く。
「お前は、もう”ただの少女”じゃない……だが――だからこそ、守るに値する」
それは慰めでも、叱責でもない。
ただ現実をまっすぐに突きつけるような、キースの“覚悟”の言葉だった。
「難しいのね……私は私なのに……」
アリアはうつむき、膝の上で手を握ったままつぶやいた。
その声には、怒りとも悲しみともつかない、複雑な感情が滲んでいた。
キースはしばらく沈黙し――やがて、静かに口を開く。
「……その“私”を、お前自身が信じなければ、誰も守れない」
「肩書きや立場に惑わされても、お前の中にいる“本当のお前”まで変わるわけじゃない」
アリアは、はっとして顔を上げる。
「難しいと思うのなら、それでいい。だが逃げるのなら、それもまた“選択”だ」
「それでもここに立ち続けるのなら……俺は手を貸す。黒の騎士団も、お前の剣となろう」
一瞬、何か言いかけたアリアは、そのまま黙って頷いた。
心の奥に、小さな覚悟の芽が生まれたように――彼女の瞳に、揺れる光が差し込んでいた。
「ありがとうございます、キース様」
アリアが頭を下げると、キースはそっと視線を外しながら言った。
「この屋敷は好きに使っていい。黒の騎士団も、必要に応じて護衛につかせよう」
「……キース様は?」
アリアの問いに、キースは少しだけ口元を緩めた。
「俺は邸宅の方に居る。だが、何かあれば――すぐに駆けつける」
「……邸宅……」
アリアはその言葉を反芻するように呟いた。どこか寂しげに見えるその横顔に、キースは一瞬、視線を留める。
「……何だ」
「いえ。ただ……離れてるんですね。少しだけ、変な感じです」
キースはふっと息を吐き、目を細めた。
「お前が“帰る場所”を見つけるまでだ」
その一言に、アリアの胸の奥がわずかに温かくなる。
“帰る場所”――それは、まだぼんやりとしているけれど、どこかにきっとある。そんな気がした。
キースが部屋を出たあと、静けさが戻った応接室。
夜の帳が窓の外を覆い、薄灯りの中
アリアはしばらく黙っていたが、ふと顔を上げて言った。
「……キース様って、すごいのね」
「ええ、あの方は――王国随一の戦ヲタ士です。人格も、忠誠も、申し分ない」
アリアは椅子の背にもたれながら、天井を見上げた。
「なんだか……私には、あの方の隣って、まだずっと遠い場所のような気がします」
それを聞いて、セドリックは優しく微笑んだ。
「大丈夫です。お嬢様なら、きっと届きますよ。……ですが、無茶はダメです」
「うん……」
アリアは窓の外をぼんやりと眺めながら、小さな声でつぶやいた。
「ねぇ、セドリック……今までの“聖剣の乙女”って、どうしてたんだろう……」
セドリックはソファに座り。
少しだけ目を伏せ、静かに答える。
「記録では……“国の希望”であり、“平和の象徴”とされていたようです。
その存在が知られるだけで、争いが沈まる……そう語られていました」
「……存在するだけで、平和になれるなんて……本当にそんなこと、あるのかな?」
アリアは肩を落とし、小さなため息をつく。
その様子を見て、セドリックは少し微笑みながら言った。
「少なくとも、お嬢様がいると……私は癒されますよ」
「……え?」
セドリックはいつもの落ち着いた声で続ける。
「お嬢様が笑えば、周りの空気が柔らかくなる。怒れば、皆が気を引き締める。
――居るだけで、確かに“何か”が動いているんです。きっと、それが“聖剣の乙女”なのでしょう」
アリアは目を瞬かせたあと、ふっと照れたように笑った。
「……なんか、それ……ちょっと嬉しいかも」
アリアはソファの方へと歩み寄り、
セドリックの隣に沈み込むようにもたれかかる
「……」
じっと彼を見上げた。少しだけためらいがちに、左手を伸ばす。
「お嬢様?」
彼の低く落ち着いた声に応えるように、アリアはそっとセドリックの右前髪を指先でかき分けた。
そこには、うっすらと残る古い傷痕――右目の上に刻まれた、一筋の線。
「……傷、残ってしまいましたね」
セドリックはわずかに目を細めたが、彼女の手を振り払うことなく、静かに答えた。
「戦う者の勲章のようなものです。お気になさらず」
アリアの指先が止まり、微かに震えた。
「これは、私のせい……」
ぽつりと漏れたその言葉は、静かな痛みを含んでいた。
目の前にある傷を見つめながら、アリアは唇を噛む。
「私がもっと早く、下がっていれば……こんな傷……負わせずに済んだのに……」
震える声。こらえきれず、感情が溢れかけた。
セドリックは一瞬、戸惑いを見せたが、すぐに微笑み、傷に触れようとするアリアの手をそっと包み込んだ。
「お嬢様が気に病むことではありません。私はこの傷を、後悔していませんよ」
優しいその言葉は、慰めではなく、真実として響いた。
けれどアリアは首を横に振る。
「……自分の無力さを思い知らされるんです」
静かに落ちたその言葉に、セドリックは一瞬、返す言葉を失った。
「あなたを守る力が、私にはないって……だから……みんなを…………」
セドリックと話しているうちに、アリアのまぶたは次第に重くなっていった。
「大切な人達……を守れるくらい……」
旅の疲れか、安心したのか、アリアは目を閉じ……ウトウトと。
「お嬢様……」
アリアは、目を開けようとしたが、瞼が重い。返事をしようとしても、声にならない。
(……あれ、眠い……?)
いつの間にか、ソファの柔らかな背にもたれたまま、意識がゆっくりと沈んでいった。
「セドリック……」
アリアはそのまま肩に寄りかかるようにして、すう、と寝息を立て始めた。
セドリックは驚いたように一瞬だけ目を瞬かせ、それから静かに微笑んだ。
「……おやすみなさいませ」
その言葉を囁きながら、そっと彼女を抱き上げ、寝室のベッドへと運ぶ。
布団を掛け、髪をそっと整えると、しばらくその寝顔を見つめていた。
「……夢の中でも、笑っていられますように」
その声は届かなくても、願いはそっと彼女の眠りを包むようだった。
静かな光が差し込む部屋。
見慣れない天井を見つめながら、アリアはぼんやりとまばたきをした。
傍らで立つセドリックが、穏やかに微笑んだ。
「……おはよう……セドリック」
「お目覚めですか? お嬢様」
その優しい声に、少しずつ現実が戻ってくる。ここは……キースの屋敷。
「……ん……あれ? 何だか……ずいぶんよく眠った気がする」
「はい。お嬢様、申し上げにくいのですが――すでに午後一時になっております」
「えっ!?」
アリアは勢いよく身を起こした。
「お昼!? そんなに寝てたの!?」
「ええ。お疲れだったのでしょう。皆、気を遣って静かにしておりました」
「うぅ……恥ずかしい……」
「それと――」セドリックが穏やかに言葉を続けた。
「グレイソン様がいらしております」
「えっ……!? え、今ここに!?」
「はい。 すでにキース様と応接室でお話し中かと」
アリアの顔がみるみる赤くなる。
「は、早く支度しなきゃ……!」
セドリックは控えめに笑って、小さく頷いた。
応接室。少し硬めのソファに座るキースは、腕を組んだまま不機嫌そうにグレイソンを見る。
カーテン越しに差し込む陽光は午後の柔らかさを帯びているが、室内の空気は重たかった。
王都に戻ってきたキースたち。
翌日、五日後に急遽『新たな辺境伯の任命式』の知らせが届いた。
それは、アリアたちの帰還に合わせる形で、まもなく開かれる「フェスルクシ祭」や、「辺境伯領の功績を称える式典」に先立って行われるものだった。
グレイソンが机に資料を並べながら、静かに口を開く。
「……アリア嬢の警護案、また却下されましたね」
キースは黙して書類に目を通していたが、指先がわずかに止まる。
「馬鹿げてる。聖剣の乙女を一人にする気か」
「そうならないよう、策を練っています。――しかし、王宮の思惑は深い。
式典の場で何かあれば、すべて貴方の責任にされるでしょうね」
グレイソンの冷静な口調に、キースは苛立ちを滲ませる。
「……じゃあどうしろって言うんだ」
すると、グレイソンはふっと目を細めた。
「――“黒の騎士”が警護に当たるしかありませんね」
キースは眉をひそめた。
「……おい、俺は王直属の騎士だぞ。そう簡単に――」
「それです」
グレイソンは椅子に背を預け、キースを見据える。
「アグラディウス王国でもっとも恐れられている騎士が、アリア嬢のそばに居る。
それだけで、誰も手を出せません」
涼しい顔でそう言い切る彼に、キースは無言のまま睨みつけた。
だが、その瞳の奥で――決意の光が宿りはじめていた。
「……本気で言ってるのか?」
「もちろんです」
グレイソンは涼しい顔で紅茶を口にしながら答えた。
「式典で、国王陛下に正式に宣言していただきましょう。“キース・アークレインを、聖剣の乙女の騎士として任命する”と」
「軽々しく言うなよ。どれだけ騒ぎになるか……」
「むしろ騒いでもらった方が都合がいいでしょう?」
グレイソンが肩をすくめる。
「周囲に“彼女の隣には、誰が立つのか”をはっきり見せつけるには、王の言葉が一番です。
……貴族連中にも、おとなしくしてもらわないと」
キースは渋い顔で黙り込んだ。
「……お前、本当は楽しんでるだろ」
「ええ、少しだけ」
グレイソンはいたずらっぽく笑った。
「でも、冗談抜きで――今はこれしか道がありません。
さぁ、覚悟を決めてください。アリア嬢の隣に立つ男として」
アリアが応接室のドアをノックし、静かに扉を開いた。
「失礼します……」
室内には、キースとグレイソンが地図を広げながら話し合っていた。二人が顔を上げ、アリアの姿を確認する。
「ちょうどいいところに来ました」
グレイソンがにこやかに言った。
「五日後、『新辺境伯任命式』があります。アリア嬢にもご出席いただきますよ」
「えっ、私もですか?」
アリアは驚いたように目を丸くする。
「当然だ」
キースが立ち上がってアリアに向き直る。
「この地の安定はお前の存在あってのもの。式に出ない理由がないだろう」
「でも……そんな大役、私に務まるかどうか……私なんかが前に出たら、きっと失望される……王都の人たちは、もっと立派な“聖剣の乙女”を思い描いてるはずです……」
俯くアリアの声はか細く、どこか自嘲気味だった。
「それでも、貴女でなければ意味がないのです」
「私は、あなたを見て失望したことなど、一度もありません。むしろ……目を離せないくらいです」
グレイソンが言葉を継ぐ。
「王も多くの貴族も、この目で確かめたがっています。聖剣の乙女が誰を選び、誰と共に立つのかを」
アリアは頬を染め、俯きがちにうなずいた。
キースがわずかに口元をほころばせ、ぽつりと呟いた。
「……俺の隣に立つ覚悟は、あるんだろ?」
アリアは顔を上げ、真剣な瞳でキースを見つめる。
「……はい!」
静かな緊張と、淡い決意が漂う部屋の空気の中で、グレイソンだけがどこか楽しそうに紅茶をすする。
「これは良い式になりそうですねぇ。……アリア嬢、任命式に一着、私に選ばせていただけませんか?」
「えっ? ……グレイソン様?」
問い返す暇もなく、グレイソンはアリアの手を優しく取り、そのまま屋敷の廊下を歩き出す。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「遠慮はいりません。たまには、女の子らしい楽しみも必要でしょう?」
困惑しつつも、彼の穏やかな微笑みに押されるように、アリアは歩を合わせた。
キースは深々とため息をついていた。
「……騒がしい」
手元の書類を乱雑に閉じ、窓の外へ視線をやる。外は穏やかな陽射しが差し込んでいるというのに、周囲だけがまるで嵐のように落ち着かない。
「落ち着いたと思ったら、次はこれか……」
だが、わずかに笑みを含んだその言葉は、彼にとってそれが「悪くない騒がしさ」だということを示していた。
屋敷の正門を抜けた先、一台の上等な馬車が待っていた。扉を開け、先に乗り込んだグレイソンが手を差し伸べる。
「どうぞ、アリア嬢」
アリアは小さく息をついて、グレイソンの手を取る。
馬車の揺れは穏やかで、けれどどこか、目的地の見えない旅のようだった。
陽射しが柔らかく降り注ぐ午後、アリアはグレイソンに手を引かれて賑やかな街の通りへと歩を進めた。久しぶりの街の空気に、心が少しずつ弾むのを感じる。
「アリア嬢、今日は思い切り楽しんでください。私が付き添いますから安心してください」
グレイソンの穏やかな笑みに、アリアは自然と笑顔を返した。
「ありがとうございます、グレイソン様。こんなにゆっくり街に来るのは本当に久しぶりです……」
二人は色とりどりの布地が並ぶ豪華な仕立て屋へと足を踏み入れた。店内は優雅な香りと柔らかな光に包まれ、様々なドレスが棚やハンガーにずらりと並んでいる。
「こちらはいかがでしょうか?」
グレイソンが優雅に手に取ったのは、淡い青のシルクのドレス。繊細なレースと煌めくビーズがあしらわれている。
アリアは目を輝かせながらそのドレスに手を触れた。
「わあ……こんなに美しいものを着るのは初めてかもしれません」
「式にふさわしい気品がありますね。アリア嬢にぴったりだと思います」
店員が丁寧にドレスの特徴や素材について説明し、次々と違う色やデザインのドレスを試着室に持ってきた。
試着室の鏡の前で何度も着替え、アリアは少し照れくさそうにしながらも、だんだんと自分らしい一着を見つけていく。
「どれも素敵で、選ぶのが難しいです」
グレイソンはそんなアリアの様子を微笑みながら見守った。
「無理に決めなくてもいいですよ。ゆっくりで構いません」
街の喧騒から少し離れ、特別な時間がゆったりと流れていく。
アリアはふと、こんな普通の日常がまた少し戻ってきたことに感謝の気持ちを抱いた。
グレイソンはしばらく黙ったまま、アリアの姿を見つめている。
やがて視線をそらし、別のドレスラックから一着の淡い色合いのドレスを取り出した
「こちらはいかがでしょうか?清楚で上品な色、アリア嬢にぴったりだと思いますよ」
「綺麗……」
アリアはそのドレスを手に取り、優しいラベンダー色に目を細めた。
アリアはドレスを手に取り、試着室のカーテンの中へと入った。
その間、グレイソンは店内を見渡し、ふとアクセサリーのショーケースに目を留めた。
「こちらも……」
店員にそう言って、煌めくルビーのイヤリングを手に取る。
赤い宝石が光を受けて深く輝き、ドレスの淡い色合いに鮮やかなアクセントを添えそうだった。
店員は、グレイソンに。
「お嬢様の華やかさを引き立てますし、式典にふさわしいでしょう。」
カーテンがひらりと揺れ、アリアがゆっくりと姿を現した。
アリアはくるりと一周して、自分の姿を鏡で確かめる。
「どうですか?……」
グレイソンはそっと近づき、優しくアリアの左耳にルビーのイヤリングをつけた。
「あの……」
突然のことで、アリアは少し戸惑いを隠せない。
続けて右耳にもそっとイヤリングをつけていく。
「お似合いですよ、アリア嬢」
満足そうに微笑むグレイソンの声に、アリアの頬がほんのり赤く染まった。
アリアは鏡の前で静かに身を動かした。
ルビーのイヤリングが揺れ、小さな光を放つ。
その赤はプラチナゴールドの彼女の髪に映え、まるで燃えるような炎が揺らめくかのようだった。
鏡の中の自分を見つめながら、アリアはその輝きに心を奪われていた。
その美しさに思わず息をのむ。
「お気に召しましたか?」
グレイソンが少し離れた場所から声をかける。
アリアは一瞬迷い、次に小さく頷いた。
「はい……とても素敵です」
グレイソンは満足そうに頷き、穏やかな笑みを浮かべた。
「これを着て任命式に臨めば、きっと皆の目を引くでしょう……あなたは魅力的です。それを否定するのは、見る側の眼の方です」
馬車がゆっくりと屋敷へと近づく。
外はもう夕暮れ時で、淡いオレンジ色の光が空を染めていた。
アリアは窓の外を見つめながら、街でのひとときを思い返す。
久しぶりの買い物。ドレスの柔らかな感触や、ルビーのイヤリングの煌めきがまだ肌に残っているようだった。
馬車が屋敷の大きな門の前で止まると、そこにはセドリックが凛とした姿で待っていた。
彼の鋭い目はアリアを見つめ、ほんの少し安心したように微笑む。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
静かにそう告げるセドリックの声。
「ただいま、セドリック」
アリアは馬車からゆっくりと降り、手を伸ばしてセドリックの手を軽く握った。
彼の温もりが伝わり、日常の安心感が戻ってくる。
その時、グレイソンが馬車の脇で礼儀正しく告げる。
「では、アリア嬢……任命式でお会いしましょう」
アリアは深くお辞儀をしながら答えた。
「グレイソン様、ありがとうございます」
その言葉にグレイソンは微笑み、馬車を後にする。
セドリックは静かにアリアの傍らに付き添い、屋敷の中へと導いた。
アリアは自室に戻ると、真っ先にベッドの上に丁寧に置かれたドレスに駆け寄った。
淡いアリスブルーと柔らかなサフラン色が溶け合うように縫い合わされた一着。
「ふふ……綺麗……」
指先でそっと布地をなぞりながら、頬が自然とほころぶ。
鏡の前に立ち、ドレスにイヤリングを合わせて当ててみる。
ルビーの赤が、プラチナゴールドの髪とドレスの色に驚くほどよく映えた。
耳元で小さく揺れるその輝きは、どこか誇らしげで、少しだけ大人びた気持ちにさせてくれる。
「……似合ってるかな、わたしに……」
小さく呟いたその声には、期待と少しの緊張、そして胸の高鳴りが混じっていた。
セドリックが静かに紅茶のカップをアリアの前に置く。
「お嬢様、やけに浮かれておりますね」
にこりと微笑むセドリックの声に、アリアは頬を染めて答えた。
「えへへ、なんだか久しぶりに、いつもの生活に戻ったみたいで……嬉しいの」
窓の外から差し込む柔らかな月明かりが、アリアの表情をいっそう明るく照らしていた。
アリアはそっと呟いた。
「ずっとこのままだったらいいな……」
静かな部屋の中、セドリックは言葉を選びながらも何も返さず、ただ優しくアリアの頭を撫でた。
「もう、すぐ子供扱いするんだから!」
くすっと笑いながら、アリアは少し照れくさそうに言った。
「お嬢様はもう、立派な淑女ですね」
セドリックが微笑みながらそう言うと、
「でしょう?」
アリアは胸を張って自信ありげに答えた。
その様子に、セドリックは小さく息を吐きながら――
「……無自覚と天然が無ければ、完璧なのですが」
と、聞こえるか聞こえないかの声で呟いた。
「え?何か言った?」
「いえ、何も」
二人の間に流れる穏やかな時間。
ただのたわいもない会話。
それだけで、心が満たされていくセドリックだった。