気まぐれの代償
窓の外を流れる風景はすっかり秋色に染まり、落ち葉が馬車の車輪に巻き込まれてはぱらぱらと舞い上がる。
穏やかな揺れのなか、重くなりがちな沈黙を破ったのは、グレイソンのひとことだった。
「……そろそろ、フェスルクシ祭の頃ですね」
控えめな声にアリアが目を瞬かせる。セドリックは静かに微笑み、キースは興味なさそうに視線を外に向けたままだ。
「フェスルクシ祭?」
アリアが小首をかしげて問い返すと、グレイソンは少し驚いたように顔を上げた。
「おや、アリア嬢はご存知ありませんか? アグラディウス王国では冬を迎える“聖なる火”として、闇と寒さから国を護る祈りの祭りが開かれるのです」
「……そんな祭りが……」
知らなかった。エルンハイム国にいたころ、そんな話は聞いた記憶が無い。ほぼ引きこもっていた時代……隣国の風習など、届くこともなかった。
「白暦の初日、日が最も短くなる夜に、王都の神殿で火が灯されます。命の火――そう呼ばれていて、王族や貴族、神官たちが集まる荘厳な儀式です」
グレイソンの声はどこか懐かしむようで、冬の始まりの冷たい夜風を思わせた。
「それだけではありません。民衆も家に灯籠を飾り、焚き火を囲んで未来を語るのです。恋や願い事なども、よくある話ですよ」
「こ、恋や願い……?」
アリアは頬を赤らめて視線を落とした。セドリックが肩を震わせ、キースはほんの少しだけ唇の端を持ち上げた。
「……王都に着く頃には、ちょうど祭りの準備が始まっているかもしれませんね」
グレイソンの言葉に、アリアは目を輝かせた。見たことのない祭り。光の中に息づく人々の祈りと希望。それを自分も、この目で見られるのだ。
「……興味、ありますか?」
優しく問いかける声に、アリアは思わず身を乗り出すようにして答えた。
「はい!」
その無垢な反応に、グレイソンの口元がゆるんだ。柔らかな微笑を浮かべると、少しだけ肩をすくめながら言った。
「では、アリア嬢。ご一緒に祭りを回りましょう」
「……本当ですか?」
アリアは嬉しそうに目を丸くし、顔をほころばせた。その表情は、まるでこれから訪れる冬の夜を照らす、迎え火灯のように温かかった。
「もちろん。王都の人々も皆、心待ちにしているのです。きっと、アリア嬢にも素敵な思い出になりますよ」
「ふふ……楽しみです」
ぱっと咲いたような笑顔に、グレイソンは柔らかく笑み返す。
そのやり取りを聞いていたキースが、馬車の向かい席で静かに咳払いした。
「ああいう祭りは人が多い。迷子になって騒ぎになるなよ!」
「えっ……そ、そんなこと言わないでください」
アリアが慌てて言い訳すると、キースの口元がわずかに緩んだ。
「……ただ、あの混雑の中でお前が迷子になったら、大騒ぎになる」
その隣に座るセドリックが、ふっと息を吐く。
「“意志が強く、視線の先にしか進まない方”ですからね。屋台の甘い匂いに吸い寄せられなければ、の話ですが」
「それ、絶対に信じてない言い方ですよね!?」
「それは失礼。では“方向音痴で興味のままに動く予測不能なお嬢様”と訂正しておきましょうか」
アリアは顔を真っ赤にして口を開けるが、言い返せず悔しそうに唸る。
「……セドリック、意地悪です」
セドリックはわざとらしく小さくため息をつく。
「意地悪ではありません。事実を申し上げているだけです。私の心労をご理解いただければ幸いです」
アリアとセドリックのやり取りを、聞いていたキースが、呆れたようにため息をつく。
「お前も大変だな」
「……慣れていますので」
今度は隣に座っていたセドリックが、さらりと微笑んでそう言った。
アリアはぷくっと頬を膨らませて抗議する。
「わたし、そんなに手がかかる人間じゃありません〜〜!」
キースは笑みを浮かべたまま肩をすくめて、セドリックに目配せ。
「どう思う?」
セドリックは静かに一言。
「……答えると刺されそうなので、黙っておきます」
笑いが広がる馬車の中。
王都での冬の祭り――それは、きっと彼女にとって新しいはじまりになる
馬車に揺られ、窓の外を見つめていたアリアは、いつの間にかまぶたが重くなっていることに気づかなかった。
昼を過ぎた陽光が雲に隠れ、車輪のリズムが一定に刻まれる中、柔らかく敷かれたクッションと温かな空気が、静かに彼女の意識をさらっていく。
「……お嬢様?」
隣からセドリックの声がしたが、アリアは微かに頭を傾けるだけで返事をしない。気づけば、彼の肩にそっともたれかかっていた。
セドリックはほんの一瞬、視線を下ろした。アリアの柔らかな髪が揺れ、彼の外套に触れる。寝息は静かで、まるで小鳥が羽を休めているかのようだ。
「……おやすみなさいませ、お嬢様」
小さくつぶやきながら、セドリックはアリアの肩が揺れないようそっと支えた。手袋越しに伝わる微かなぬくもりに、彼の表情はほんのわずかに緩んだ。
向かいの席では、キースが窓越しに外を眺めている。ちらりと視線を戻し、セドリックとアリアの様子に気づくと、なにも言わずに瞳を伏せた。
「……少し、風を入れる」
そう言って馬車の窓をわずかに開け、冷たい風を顔に受けるキース。その風は、どこか自分の胸の内を冷ますようで――けれども、どうしようもなく、心の奥に何かを残していた。
アリアの寝顔は、穏やかだった。
その顔を見て、キースの記憶がふと過去へと引き戻されていった。
──幼い頃キースは、「聖剣の乙女」という存在に妙に惹かれていた。
――あれは、まだ自分が「聖剣の乙女」という言葉の意味すら曖昧だった頃のこと。
王立図書院で、ふと目にした古い文献。埃をかぶった羊皮紙に記された、聖剣の乙女の伝承。その中で語られる彼女たちは、光の導き手であり、時に世界を動かす存在だった。
『皆既日食の日に生まれし少女、剣を宿し、主に仕える』
『天が光を閉ざす時、影より生まれしは剣の乙女。
月蝕に祝福され、地に降りしその魂は、定められし主に剣を捧げん。
乙女は剣なり。
愛をもって主に従い、怒りをもって主を戒む。
正しき心に抱かれれば、世界を癒やす光となり、
偽りの誓いに縛られれば、万象を裂く刃ともなる。
乙女の剣は一国を守り、
乙女の涙は千国を結ぶ。
彼の者が答えし時、乙女の力は真に目覚めん。
されど答えに偽りがあらば――
乙女は砕け、剣は主をもろともに呑み込むであろう。』
その伝承がなぜか、妙に胸に残った。
子どもながらに感じたのは「運命」でも「信仰」でもなく、ただの――「興味」だった。
(どんな人なんだろう……聖剣の乙女って)
皆既日食の日に生まれ、国を護る、加護を授かる――そんな伝説めいた存在。
幼い彼にとって、それは現実離れした、まるで物語の中の姫君のようだった。
「……本当にいるのか?」
書物で読んだだけでは信じられず、城の学者に尋ねたこともある。
聖剣の乙女は、決して戦うわけではない。ただそこにいるだけで、人々に勇気を与える。
その"存在そのもの"が国の象徴になるのだと。
「そんな不思議な人が……」
心のどこかで、ずっと気になっていた。
もし出会えるなら、どんな人間なのか見てみたい。
傲慢なのか、天使のように優しいのか、ただの虚構なのか。
けれどそんな想いは、少年時代の夢として胸の奥にしまわれた。
「騎士団長キース・アークレイン」の、定期的な社交パーティ、花嫁候補を集めるという名目だった。
しかしキース自身は、誰よりもその目的に興味がなかった。
彼が心に引っかけていたのはただひとつ――招待状を送り続けて、現れなかった少女のこと。
「聖剣の乙女」。
その存在は表向きには知られておらず、名前だけが記録の隅に刻まれていた。
王都で「隠されてる」ことになっている少女。
それが、アリア・セレフィーヌ。
キースは何度も丁重に文を送った。祝いの場への招待、護衛の提案、食事の席など……
だが返ってくるのは決まって「ご辞退申し上げます」の冷ややかな断り文だった。
――傲慢で、高飛車で、自分が特別だとでも思っているのだろう。
そう思い込んでいた。
“聖剣の乙女”などという称号を与えられて、舞い上がっているのだと。
興味など、もう捨てたつもりだった。
だが――何度目かの舞踏会にその姿を見せた。
──やっと、現れた。
会場の片隅、ドレス姿のアリアを見つけた瞬間、キースの中に小さな苛立ちが灯った。
何度も招待状を送った。
何度も、丁寧に、しかしきっぱりと断られた。
「聖剣の乙女」
こうして目の前に現れても、やっぱりどこかしらで期待していた自分を責めたくなった。
アリアが小さなケーキに夢中になっていた。
(……まさか、こんなやつが)
フォークで小さく切って、嬉しそうに頬を緩めている。
彼に向けるよりも、あの菓子に注ぐ視線の方がよほど真剣だった。
(菓子に夢中とは、どういうことだ)
もっと高貴で、誰も寄せ付けない、神秘の存在を想像していた。
(……隙だらけだ)
胸の奥がざらりと波立つ。
キースはゆっくりとアリアに向かって歩き出す。
今度こそ、逃がさない。
「……やっと来たか」
その瞳には驚きと怯えが交じっていた。
「君には会ってみたかったんだ。なにせ、花嫁候補の中で唯一、俺との婚姻を“拒否してる”らしいからな」
「わ、私……結婚には興味がなくて……っ、ただ、実家で静かに……」
どこか震えて、たどたどしく話すアリア。
(……興味がない? 静かに過ごしたい?)
(それで何度も招待を断ったと?)
興味がないとはっきり口にしながら、舞踏会に来て……あろうことか、目も合わせようとしない。
――だが、その姿がキースの苛立ちに火をつけた。
(だったら、なぜ今になって顔を出した? “仕方なく”来たのか?)
―――それとも、“誰か”に言われて来たのか?
(……いっそのこと、もっと近づいてやろうか)
そう感じた瞬間、きっかけが欲しくなった。
“踊ろう”――
その一言が、意図せず口をついて出ていた。
「……え?」
アリアは目を瞬いた。 まるで耳を疑ったように、キースを見上げる。
強引に手を引く、一度は振りほどかれるかと思った。
――どんな顔をするのか。どんな声で、何を言うのか。
その仕草の一つひとつが、彼女という“未知の存在”の仮面を剥がしていく鍵だと感じていた。
キースは思わず口元を緩めた。
緊張に包まれながらも、そこには“傲慢”でも“高飛車”でもない、あどけなさを残した表情と、緊張で強張った肩。
それはどう見ても、虚飾に染まった貴族の娘ではなかった。
(……違う)
この少女は、傲慢なんかじゃない。
むしろ、誰よりも臆病で、誰よりも――真っ直ぐで……誰よりも無防備。
理想と現実のギャップが、苛立ちと興味を、同時に掻き立てる。
まるで手に入らない光を見せつけられているようで、気がつけば視線を奪われている。
踊り終える頃、アリアはもうその場を離れようとしていた。
――気に食わない。
逃げるように踊りを終えて去ろうとするその後ろ姿に、堪えきれず手を伸ばした。
アリアの驚いた顔。 知らない奴に腕を掴まれたみたいな、そんな顔をされたことにまたイラッとする。
構わず柱の陰に引きずり込んだ。
「ちょ、ちょっと!?なに!?」
「なに、じゃない。おまえ、舞踏会ってどういう場かわかってるのか?」
問いかけに、彼女はきょとんとした顔で返してくる。
「え……えっと……花嫁候補の……でもわたしはスイーツ目的で……」
――は?
思わず顔をしかめた。
こっちはお前をどれだけ意識してきたと思ってるんだ。
「……やっぱりバカか。政略も駆け引きも全部スルーして、菓子に釣られて来るとはな」
「だって……美味しそうだったし……」
しゅんとするその顔に、苛立ちが加速する。
どうして、そう無防備なんだよ。
「“俺に”隙を見せるなって言ってるんだよ」
そう言って、ぐっと顔を近づける。
「……あ、あの、っ、ち、近いです……!」
真っ赤になって視線をそらすその表情。
――だから気に入らねぇんだよ。
無意識でそんな顔すんな。俺が、どうしたらいいかわかんなくなるだろうが。
「逃げんな。――その顔、気に入らねぇ」
投げるように言って、視線を逸らす。
困ったように揺れる瞳。
問い返された瞬間、自分でも答えが見つからなかった。
(自分でもムカつくんだ、そうやって無自覚で、俺の目に入ってくるのが)
そうだ。こいつは、俺の中の“こういう女”という像を、ことごとく壊してくる。
だからこそ気になる。腹立たしいほどに。
これ以上、踏み込めば自分がどうなるかわからない。
あの夜以来、妙に胸の奥がざわついている。
アリア・セレフェーヌ。
なのに今、俺の目の前に――自らの足で現れた。
「……その、あの……」
震える声。
あきらかに怯えてる。けど、逃げようとせずに、正面から俺を見る。
「先日は、いきなり怒られてびっくりしましたけど……たぶん、私がちゃんと“舞踏会”の意味を分かってなかったせいだと思います」
「本当にごめんなさい……」
頭を下げたその姿はたしかに“謝罪”っぽい。
だが――
アリアはぐっと手を握りしめ、きらきらした目で顔を上げた。
「安心してください!わたし、花嫁候補なんて全然興味ありません!!」
………………は?
思わず二度見した。
謝りに来たんじゃなかったのか。いや、これは何の報告だ?
「だって、あんなに綺麗な人たちの中で、わたしが選ばれるわけないし……それに、スイーツのほうがずっと魅力的ですし!」
ああ、またそれか。スイーツ。
自分の婚姻より菓子の方が上って、どういう人生送ってきたらそうなる。
「……おまえな」
ため息が出た。
けど――
なんでだろうな。
怒る気には、もうなれなかった。
「……キース様はその、私に興味無いのにわざわざ気にかけて下さったって…だから……その一応言っておこうと思って!」
言葉がたどたどしくなるのは、怒られると思ってるからか、それとも――
「急に腕を掴まれたらびっくりしますし、睨まれて他のご令嬢でもあれは怖がります……」
そう言いながら、ちゃんと目はそらさずにこちらを見てる。
言いたいことを、ちゃんと伝えに来た。
言葉の順番も、内容も、かなりズレてるけど――
「……ふん。謝りに来たのかと思えば、文句を並べに来たのか」
皮肉混じりに言えば、彼女は誇らしげに胸を張る。
「でも私大人ですから、口外しません!」
……誰の何を、だよ。
笑いそうになるのを必死で堪えた。
(……ああ、そうかよ。じゃあ、この会話も“スイーツ以下”ってわけだな)
今度こそ、吹き出しそうになった。こいつ、ほんとに予測不能だ。
伝承はこう語っていた。
『彼の者が答えし時、乙女の力は真に目覚めん。』
主が「答え」を出すと、乙女の力が完全に覚醒する。
その「答え」とは、心からの誓いや選択。愛、覚悟、信念など。
だったら、俺がその“答え”になれるのか?
言葉はたどたどしく、足元もふらついている。
感情を隠すのが下手で、顔に出る。
………理想とかけ離れていた。
正直、苛立った。
だけど――
その目が、少しずつこちらを見ようとし始めた時。
その唇が、勇気を振り絞って「お話でも……いかがですか?」と言った時。
……誰が言わせた? 俺か。
知りたくなった。
無垢で、計算がなくて――
いや、そもそも――
この女に、自分が「聖剣の乙女」だという自覚はあるのか?
でも、せっかく姿を現したんだ。
少し遊んでやろうと思った。それだけだった。
……だったはずなのに。
顔を合わせるたび、
気がつけば、あの無垢な笑顔が脳裏から離れなくなっていた。
街で偶然見かけた彼女。
一人でふらふらと歩き、
例の執事の姿も見当たらない。
「……呑気な奴だ」
声をかけると、驚いた顔でこっちを見て――
いつものあたふたした姿がそこにあった。
街を二人で回った。
今までの女たちは、誰もが媚びた笑みを浮かべ、
俺の肩書きと家柄にすり寄ってきた。
少し優しくすれば、あっという間に靡く。
傷つけても、怒っても、結局は寄ってくる。
そういうものだと思っていた。
でも――アリアは違う。
距離を詰めれば、すぐ真っ赤になって慌てる。
……口答えもするし、遠慮も知らない。
だがその全部が、素直で、真っ直ぐで――
嘘がない。
やれやれ。
苛立つはずだったのに。
馬鹿らしいほど気になって、
気づけば目で追っている。
「……面白い女だな、おまえは」
焼きリンゴを頬張る横顔。
頬を赤らめ、口をもごもごと動かす仕草。
あれは……照れ隠しか?
「……本当に、目が離せないな」
笑ってごまかす彼女の目が、妙に気になって、
その先にあるものが見たくなった。
――もう少しだけでも俺を意識させてやろう。
気がつけば、食べ終えた彼女の唇に、そっと口づけていた。
……ほんの気まぐれだ。
――そう、気まぐれだった。
晩餐会の夜。
アリアが「聖剣の乙女」から逃げていた事を知る。
選ばれし者として、この国の未来を託されたその名から。
責任、期待、注がれる視線――すべてが彼女には重すぎたのだろう。
「……逃げたいって思ったんだな」
けれど、不思議と腹は立たなかった。
むしろ、ほんの少し――その気持ちが分かる自分に気づいて、胸の奥がざらつく。
孤独に似たものを知っている。
与えられた役目と名の重さに、押し潰されそうになる。
(それでも、俺は……傍にいてほしいと思ってた)
――何を甘いことを言ってるんだ、俺は。
(聖剣の乙女としてか?それとも、アリア“本人”としてか……)
自分でもまだ、はっきり答えられない。
ただ、あの瞳が曇ることが我慢ならなかった。
あの頬が、あの声が、二度と笑わなくなるような未来を――俺は望んでいない。
「お前が倒れたら、俺が支える。」
肩をすくめ、冷えた夜風にコートの裾が揺れる。
彼女が“本物”になるまで。
その自覚が、彼女の中に芽生えるまで。
それまでの時間くらい、俺が預かってやる。
「さっさと来い。俺様の退屈しのぎ、ちゃんと果たせよ」
(上等だろ。……聖剣の乙女様)
――これは、遊びだ。
けれど、誰にも触れさせるつもりはない。
彼女が再び、光の中に立つその日まで。
──今でも、まだ。
キースにとってアリアは、手の届きそうで届かない、どこか夢の続きにいる存在だった。
セドリックの肩に頭を預けて、安心しきった顔で眠る彼女。
その姿を向かいの席から見つめながら、キースはぼそりと呟いた。
「……あの時の“興味”が、こうも長く続くとはな」
ふと、視線を感じる。
隣に座るグレイソンが、微かに目を細めてこちらを見ていた。
無言のまま、何も言わず。
だがその瞳には、すべてを見透かしたような色が宿っている。
キースは小さく舌打ちして、そらした視線を窓の外へ逃がした。
「……なんでもない。詮索するなよ」
それでもグレイソンは微かに笑みを浮かべ、肩をすくめるだけだった。
まるで、「そうか」とでも言いたげに……。
―――エルンハイム国・議会室
長机の両端に並ぶ老臣たちが口々に叫ぶ。
「聖剣の乙女は本来、我が国の神象徴だった!」
「陛下が冷遇したせいで、今や彼女はアグラディウスの象徴のようになってしまっている」
「今さら“返せ”など、隣国への侮辱にしかならん!」
騒がしさが渦を巻く中、一人、柔らかな物腰で立ち上がる青年の声が会議室を静寂に包む。
「……ならば、正式に迎えるべきではないでしょうか」
その言葉に、ざわり、と空気が変わる。
「ノア殿下……?」
「彼女が“我が国の聖剣”であるなら、他国の恩義に頼り続けるべきではありません」
若き第三王子ノア・グランベールは、まるで教本から抜け出たような整った礼儀と物腰で、しかし静かに言葉を続ける。
「ノア殿下、それは……!」
「もちろん、強引な引き戻しではない。あくまで“交渉”です。アグラディウス王国にも、アリア嬢にも礼を尽くします。ですが……このままでは、我が国の“象徴”を他国に譲り渡したままになる」
老臣たちは言葉を失い、互いに視線を交わす。
「……第一王子殿下は?」
「兄上は中立の立場を取っておられます。国王陛下も、まだ態度を明確にはなさっていない。であれば――今こそ、動くべき時です」
ノアの眼は透き通った茶色。感情の奥を見せないその瞳に、一瞬だけ何かが閃いた。
(――この交渉が成功すれば、僕は“王家に不要な第三王子”ではなくなる)
第三王子ノアの発言に、再びざわつく議会。だが彼は、ゆったりと微笑みを浮かべたまま、最後の一手を打つ。
「……ちょうどよい機会があります」
「機会、とは?」
ノアは一礼し、姿勢を正す。
「近く、アグラディウス王国にて『辺境伯領の功績を称える式典』が開かれます。陛下にも招待状が届いておりますが――お忙しい陛下に代わり、この私が“王族特使”として親善の名目で参列させていただきたく存じます」
会議室がどよめく。
「……王族直々に、親善代表として?」
「ええ。この式典は、我が国の名誉回復と、両国の関係強化のための好機となるでしょう。何よりも、乙女アリア嬢の真意を、我が目で確かめることこそが重要です」
その声は、理知的で穏やか。それでいて、一切の隙を見せない。
(この親善派遣を成功させれば、僕の立場は確固たるものになる)
「私は、戦を望みません。ただ、我が国の象徴が、どこに属し、誰の隣に立つのがふさわしいのか――それを確認する責務が、王族たる私にはあるのです」
沈黙の中で、数名の重鎮が静かに頷いた。
ノアの目が一瞬だけ鋭く細められる
親善特使としての派遣が正式に決まり、王宮は静かな祝意に包まれていた。
ノアの私室は重厚な木の扉に遮られ、外界のざわめきとは無縁だった。
窓辺で月明かりを浴びながら、ノアはゆっくりと微笑んだ。
「……ようやく、舞台に立てる」
その声は、昼間の優等生然とした王子のものではなかった。
「“聖剣の乙女”――アリア嬢。国家の象徴、神聖なる存在? ……いいや、そんなものはただの幻想だ」
ノアは手元の書類に目を通す。アグラディウス王国の情勢、辺境伯領の経済回復の進捗、そして乙女に関する信仰資料。
「彼女の存在は、“民を動かす信仰”そのもの。国家の名の下に掌握すれば、僕はこの国の未来を背負う者として、兄たちを凌駕できる」
静かな怒りを帯びた瞳が細められる。
「“父上は期待していなかった” ……気にもされて無いように言われて、僕がどれだけ蔑ろにされてきたか。第一王子は軍、第二王子は政治。僕は“ただの笑って手を振るだけの飾り”」
ノアは立ち上がり、鏡の中の自分と目を合わせる。
「……だったら、取り戻してやろう。僕の手で、“聖剣”を、国家を」
ふ、と微笑が戻る。いつもの柔和な、無害な王子の顔。
「まずは聖剣の乙女。君の“心”を、僕が握る」