帰郷の馬車
グレイソンは窓辺に立ち、遠くを見つめながら独りごちた。
「キースの帰還が遅すぎる…急がせましょうか……」
彼は机に向かうと、筆を取って書き始める。送り先は王都。
「これで動きが出れば良いのですが……」
グレイソンは書き上げた勅令を封筒にしまい、深く息をついた。
”辺境伯領に対する支配権を強化し、地元の反乱勢力は断固鎮圧すること。キースの任務遂行に妨げがあれば即刻報告せよ”
セドリックが頷いた。
「王都からの強力な後押しがあれば、キース様も無理はできないでしょう。」
グレイソンは、どこかイタズラっぽい微笑みを浮かべて言った。
「アリア嬢には内緒ですよ。余計な心配はさせたくないからね」
内容は過激なまでにキースに圧力をかけ、迅速な帰還を促すものだった。
──アリアは礼拝堂にいた。
礼拝堂の中は静かだった。高窓から射す光が、石床に柔らかく揺れている。アリアは膝をつき、両手を胸の前で組み、そっと目を閉じた。
新しい辺境伯として、ハオルド卿が任に就いた。
かつて失われた信頼は少しずつ回復し、この地に、静かな変化が訪れている。
小領主たちの間にも笑顔が戻り、民の手には鍬が、子どもたちの声が広場に響くようになった。
――私がこの地に来て、もう何ヶ月が過ぎたのかしら。
春の嵐を越え、夏の戦火をくぐり抜け、ようやく迎えた実りの季節。
かつて荒れ果てていた畑にも緑が戻り、井戸の水も少しずつ澄んでいく。
小さな希望が、確かに根を張り始めていた。
――この地に来たばかりの頃、私は無知で無力だった。
人々の痛みにどう向き合えばいいのかもわからず、ただ目の前のことに必死で……。
『選ばなきゃ……誰かが選んでしまう前に……』
『間違わないように、怖がらずに、歩きたい。誰かの“思惑”じゃなく、自分の意思で……』
(自分で選んだ聖剣の矛先は、未来へ続いてる?)
「どうか……この地に、平穏が訪れますように」
「剣を交えることなく、人々が安心して眠れる日々が、続きますように」
その時、礼拝堂の扉がそっと開いた。
「……お嬢様、お邪魔でしたか?」
セドリックだった。
アリアは、彼に微笑んで答える。
「大丈夫。ちょっと、神様と話していただけ」
「神様も大変ですね……うちのお嬢様の相談相手とは」
「ちょっと! なにそれ!」
小さな笑い声が、静かな礼拝堂に響いた。
セドリックは苦笑を浮かべながら小さく肩をすくめた。
「グレイソン様が、お茶の席を用意したそうです。……急ぎではありません」
アリアはふっと微笑んで、小さく頷いた。
「ありがとう、セドリック。すぐ行きます」
彼女の声もまた、礼拝堂の空気に溶け込むように優しかった。
古城の一室に柔らかな光が差し込んでいた。グレイソンは手際よくお茶を淹れながら、笑みを浮かべて言った。
「さあ、みんな揃ったね。今日は久しぶりにこうしてゆっくりできる」
カイルは肩の力を抜き、にこやかに言う。
「辺境伯領も大分落ち着いてきたようで何よりだよ。こうやって皆で話せる時間が増えたのは嬉しい」
セドリックは静かにカップを手に取り、
「これからも油断せずに見守らねばな。まだまだ先は長い」
アリアは微笑みながら、カップをそっと置いた。
「でも、こうして穏やかな時間を過ごせるのは本当に幸せです。皆さんのおかげでここまで来られました」
お茶の香りがほのかに漂う中、ふとグレイソンがアリアに目を向けた。
彼女は穏やかに笑ってはいたが、その目には強い意志が宿っていた。
「……随分とご成長なさいましたね、アリア嬢」
アリアは一瞬驚いたように目を見開き、それから照れくさそうに微笑んだ。
「いえ……私はまだまだです。ただ、皆さんが支えてくださったおかげで、少しだけ、前を向けるようになっただけです」
グレイソンはうなずきながら、静かにカップを口に運んだ。
「謙遜も結構ですが……あなたがこの地にもたらしたものは、誰の目にも明らかですよ。人々の顔つきが変わりました」
セドリックが小さく笑いながら言葉を添える。
「兵も民も、今ではお嬢様を“我らの乙女”と呼んでいるそうですよ」
「……えっ、そんなふうに……?」
アリアが赤くなりながら目を伏せると、カイルが茶菓子を口に放り込みながら、
「そりゃそうだろ、お嬢ちゃん。あのベラータを退けたんだからな」
皆が笑った。
その笑顔の輪の中心に、少し大人びた表情のアリアがいた。
お茶会の和やかな雰囲気の中で、グレイソンが席を立ち、書類を取りに一時退席した。すると、セドリックは
「……それにしても、まさか“あの泣き虫の乙女様”が、戦場までたどり着くとは」
「ちょ、ちょっとセドリック! それ、誰のこと!?」
「誰って……お嬢様以外にこの部屋に“聖剣の乙女”はいませんよ?」
淡々としながらも、口元にはわずかな笑みが浮かんでいる。
カイルも苦笑しながら、
「泣き虫だったのか、お嬢ちゃん」
と、どこか楽しそうに言う。
「ちがっ……昔の話ですっ!」
セドリックは続けた。
「まぁ、いまや“辺境を救った奇跡の乙女”ですからね。初めて出会った頃に比べれば、随分と“まとも”になられました」
「“まとも”って何よ、それ!」
「戦場で斬りかかってくる敵に“降伏しなさい!”と叫ぶ少女を“まとも”とは呼びませんよ、普通は」
「ううっ……」
アリアがむくれて黙り込むと、セドリックはお茶をひとくち啜り、
「でも……その“まともじゃない”勇気に、皆が動かされたのも事実です」
と、ほんの少し優しい声で言った。
「まっ、他にも色々ありますけど…」
「えっ!?」
アリアが焦る。
「視察帰りの馬車の中とか……」
カイルが関心した。
「視察にも行ったのか、若いのに立派だな、お嬢ちゃんは」
「そうですね。ただ、道に迷ったとき“馬に道を訊く”と言い出したのは忘れてませんけど」
「あ、あれはたまたま! しかもその後、ちゃんと辿り着いたもん!」
「執務室では、夜更かしして書類整理の時も」
『お嬢様……また夜更かしですか。いつ寝てるんです?』
『大丈夫よ! 若いから!』
「若さで乗り切ろうとするのは、無計画な指揮官の常套句ですよ。歴史に習って滅びます」
「ちょっ、セドリック!? それ今言う!?」
「礼拝堂の外で、お嬢様が手をかざして空を見ていた時」
『また神頼みですか。まぁ……そろそろ神様も折れてくれるかもしれませんね、根負けで……』
「セドリックぅ……!」
カイルが思わず吹き出した。
「……はは、お嬢ちゃんらしいな」
アリアは顔を真っ赤にして
「もうっ、二人して!」
アリアが顔を赤くして抗議する中、カイルとセドリックがそれを肴に笑っていると、扉が静かに開いた。
「……どうやら、賑やかですね」
優雅な足取りでグレイソンが戻ってくる。手には香り立つ紅茶の入った新しいポット。
「遅くなってしまって失礼。特別な茶葉が届いたので、どうしても自分で淹れたくてね」
そう言いながら席に着いたグレイソンは、アリアの赤い顔を見て小さく微笑んだ。
「……何か、面白い話でも?」
「べ、別に! 何でもありませんから!」
アリアが慌てて否定すると、セドリックが涼しい顔で言った。
「少々“聖剣の乙女”の意外な一面をお話ししただけです」
「セドリック!」
アリアがジト目で睨むのを、カイルはおかしそうに笑い、グレイソンは楽しげに肩をすくめた。
「ふふ……平和ですね。この地が、これからもこうであることを願いたいものです」
その言葉に、皆がふと静かになり、ほんの一瞬だけ、風の音が窓の外をすり抜けた。
グレイソンは紅茶を一口すすったあと、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、アリア嬢……お時間がある時に、辺境伯領の聖堂で、子どもたちに絵本を読み聞かせていただきたいのです」
「……えっ?」
アリアは目を丸くして聞き返した。
「最近、孤児院や聖堂に預けられている子たちの間で“聖剣の乙女様が本当にいた”という話が広まっていてね。夢を持ってもらうのは良いことですが、できれば、現実の乙女に触れてもらえたらと」
グレイソンの言葉に、アリアは小さく息をのむ。そしてそっと頷いた。
「……わかりました。私にできることなら、喜んで」
セドリックが茶を置きながらぽつりと呟く。
「“読み聞かせ”というより“絵本に出てくる側”だと思いますけどね……」
「セドリック!」
再びアリアの頬が赤くなると、カイルが堪えきれず笑い、グレイソンも満足そうに目を細めた。
「ありがとう、アリア嬢。子どもたちも、きっと喜ぶでしょう」
茶会が終わり、カイルとセドリックがそれぞれの任に戻っていった後。
夕陽がゆっくりと地平線に沈み、古城の回廊に赤い光が差し込む頃――アリアは静かに席に残っていた。
「皆、いい顔をしていましたね」
ふと声をかけられて顔を上げると、グレイソンが傍らに立っていた。
静かに椅子を引き、彼もまた腰を下ろす。誰もいない静かな庭園を見つめながら、しばらくの沈黙。
「この地も、ようやく安定してきました」
アリアがぽつりと呟くと、グレイソンはゆるく頷いた。
「ええ。あなたのおかげですよ、アリア嬢。……あの頃は、まだ頼りなかったのに」
「ひどいですね……でも、ほんとうに……少しは変われたのかもしれません」
アリアは小さく笑う。
それを見て、グレイソンもどこか懐かしむように微笑んだ。
「――立派になりましたね」
その言葉に、アリアの胸がじんと熱くなる。
頬を染めながらも、アリアは夕陽の向こうを見つめた。
「でも……私はまだ途中です。キース様が帰ってくるまでに、もっと、強くならなきゃ」
「……ふふ。焦らずに。あなたの歩みは、きっと届きますよ。あの方にも」
夕陽の光の中で、二人の影が長く伸びていく。
まだ風は冷たいが、どこか春の兆しを感じさせる静かなひとときだった。
ある穏やかな午後。聖堂の大きな扉が開け放たれ、柔らかな陽光が石畳を照らしていた。
「この本を読みましょうか」
アリアは木の椅子に腰かけ、小さな絵本を手にしていた。彼女の周りには、辺境伯領の村から集まった子どもたちが、わくわくと目を輝かせて座っている。
「『空を翔ける白い竜』――むかしむかし、高い山の上に、風よりも速く飛ぶ竜がいました……」
彼女のやわらかな声が、聖堂の高い天井に優しく響く。
子どもたちは息をひそめ、ページをめくるたびに小さな歓声をあげる。
外では聖堂の鐘が遠くで鳴り、静かな時が流れていた。
「……そして、白い竜はこう言いました。『大切なものは、空の上にも、大地の下にもある。でも、一番大事なのは――君の心の中だ』」
物語の終わりに、アリアは目を閉じる。
「おしまい」
「アリア様、もう一回!」
「次のお話も聞きたい!」
次々と飛び出す声に、アリアは思わずくすりと笑った。
「ふふ……では次のお話は、『月の乙女と黒の騎士』ですよ」
子どもたちの歓声が聖堂に広がっていく。
その様子を、少し離れた柱の陰からグレイソンが見守っていた。彼の表情は柔らかく、どこか誇らしげだった。
「そして、黒の騎士は最後に――静かに笑ったのです」
その言葉に、子どもたちが「うそだー!」「怖い顔して笑うの?」と笑い声をあげる。
アリアは苦笑して、「本当よ」と優しく答える。
そこへ、執事服に戻ったセドリックが扉をノックして現れた。
「お嬢様。便りが届いております」
「便り?」
「はい、……黒の騎士からです」
子どもたちが「えっ、本物!?」と色めき立つ中、アリアは封を開ける。
中には、丁寧な筆跡でこう綴られていた。
”暇を持て余した。お前の淹れる紅茶が恋しい。
次に帰る時には、もう少し静かな笑顔で迎えろ。
……それと、グレイソンが無茶をした。あとで叱っておけ”
キース・アークレイン伯爵
アリアは思わずくすりと笑い、便箋を胸にそっとしまった。
「黒の騎士さまって、やっぱりこわーい?」
子どもの質問に、アリアは微笑んで答える。
「ううん……優しいの。ただ、不器用なだけ」
外では秋の風が吹き始めていた。
遠く離れた辺境でも、同じ風が吹いているのだろうか。
その日、アリアは一杯の紅茶を淹れて、窓辺に置いた。
誰もいない席にそっと、椅子を引いて――
「おかえりって言える日まで、ちゃんと笑って待ってるわ」
その声は、聖剣の乙女としてではなく、一人の少女のものだった。
翌日、ハオルド卿のもとに王都からの書状が届いた。
封を切ると、そこには厳格な処分が記されていた。
「ベラータ公は全ての爵位と領地管理権を剥奪され、公的な地位を失うこととする。彼の名は記録より抹消され、以後歴史の影に沈むものとする。
命は助けられたものの、その兵士たちは各領主の管理下へと分散されることを命ずる。」
ハオルド卿は書状を静かに読み終え、深く息をついた。
この処分により、辺境伯領は新たな体制のもと、ようやく安定を取り戻し、かつての混乱も徐々に収束していくのだった。
門兵の「黒の騎士団、帰還です!」という声が、静かな城内に響いた。
アリアは窓辺でその声を聞き、ゆっくりと立ち上がる。
手にしていた本を閉じて、深呼吸をひとつ。
そして、足早に階段を下り、城の中庭へと向かった。
秋風が吹き抜ける石畳の広場には、すでに数人の使用人と兵士たちが集まりつつあった。
門の向こうから現れたのは、見慣れた黒馬と――その背に揺れる黒の騎士団のマント。
キースだった。
馬上のまま、彼はしばし周囲を見渡し、そしてアリアの姿を見つけた。
その視線に気づいたアリアも、足を止める。
互いに言葉はない。ただ目と目で、再会を確かめ合う。
キースは馬から静かに降りると、無言のまま歩み寄る。
そして――
そっと、彼女の頭に手を置いた。
「……遅くなった」
低く、少し疲れた声。けれど、どこか安堵に満ちた声。
アリアはほんの少しだけ頷いた。
「おかえりなさい」
そう言った途端、胸の奥がほどけたように、ぽろりと涙がこぼれ落ちる。
キースはそれをぬぐわず、ただ彼女のそばに立ち続けた。
アリアがキースを迎えたその夕刻、グレイソンは賓客館の書斎で静かに紅茶を口にしていた。扉の向こうから足音が近づくと、彼はカップを置き、微笑を浮かべる。
「……ようやく戻ったな。黒の騎士団、隊長殿」
キースが静かに入室する。疲れた表情ながらも、背筋は伸びている。
「待たせたな。報告はのちほど」
「いいや、今はいい。君が無事で何よりだ。アリア嬢が、ずっとそわそわしていたからね」
キースが少しだけ眉をひそめる。
「封書……あれは、俺の帰りを早めるための策だったと聞いている」
「ふふ、君に隠しごとなどできないね。まあ、あの提案書のおかげで王都も少しだけ本気になった。君の報告次第では、次の手も打てる」
キースは軽く頷いた。
「辺境伯領は……思っていた以上に変わっていた。グレイソンとアリア嬢の働きに、俺は救われた」
「違うよ。彼女は、君を信じて踏みとどまっただけだ」
短い沈黙が流れたのち、グレイソンが立ち上がる。
「さあ、今夜はゆっくり休め。正式な報告は、明日でいい。それと歓迎の席を用意させよう」
「……了解した」
ふたりの間にあった堅さが、少しだけ緩んだ。
―――翌日、歓迎の夕餉・古城の大広間にて
古びた石造りの城に、賑やかな笑い声と杯を交わす音が響いていた。長いテーブルには地元の果物や肉料理が並び、数ヶ月ぶりに戻ったキースの帰還を祝う宴が開かれている。
新辺境伯ハオルド卿が盃を掲げ、重々しく言った。
「黒の騎士団隊長殿、あなたの働きに、この地の安寧が守られた。辺境の者として、心より感謝申し上げる」
キースは立ち上がり、簡潔に頭を下げる。
「任務を果たしたまでです。――ですが、それが可能だったのは、この地を守り、支えた皆様のおかげでもあります」
会場から、控えめな拍手が起こる。
アリアは少し緊張しながらも、その様子を見守っていた。彼女の横では、グレイソンがワインを口にしながら微笑む。
「ふふ、あの“無骨者”が、礼の言葉とはね。少しは宮仕えが板についたか」
「……その“無茶な提案”のせいで、な」
キースが低く応じると、グレイソンは笑いをこらえる。
セドリックがそれを見て、困ったように肩をすくめた。
「この宴は無事に終わるのでしょうか……」
セドリックの隣で、アリアはテーブルに並べられた秋の味覚に目を輝かせていた。
栗のモンブラン、蜜煮にした栗と胡桃のタルト、ほろ苦いカラメルソースをかけた栗のプリン――どれも、彼女にとっては初めて口にする贅沢だった。
「……これ、全部食べてもいいんでしょうか?」
と遠慮がちに尋ねるアリアに、セドリックはやや呆れたように微笑を浮かべる。
「お嬢様、今日の主賓はあなたです。遠慮してどうします」
「じゃあ……いただきます!」
目を輝かせながら、アリアはモンブランをスプーンですくった。
「……ん、美味し〜い」
甘い香りに包まれて、瞳を輝かせるアリアに、セドリックはいつものように静かに微笑んでいた。
まるで、その穏やかな時間が何よりの報酬であるかのように。
石畳の道を歩きながら、グレイソンとキースが並んでいた。グレイソンはゆっくりと足を止め、目を細めて空を見上げる。
「……良い季節になったな。かつては焦土だったこの地も、ようやく秋の実りを迎えるようになった」
キースは頷くだけで答える。沈黙の後、グレイソンがふと呟いた。
「辺境伯領も落ち着きつつある。ハオルド卿も評判は上々……そろそろ、我々も王都に戻る時期かもしれんな」
「……あんたが王都を恋しがるとは、珍しい」
グレイソンは笑う。
「恋しいのは、上質な紅茶と書斎の静けさだけだよ。だが、そろそろ次の局面に備えねばならん。君も同じ考えだろう?」
キースは腕を組み、わずかに目を伏せて言った。
「まだこの地には、置いていくには惜しい者がいる」
グレイソンはその言葉に目を細め、しかし何も言わずにまた歩き出した
遠くの森を眺めながら、グレイソンが口を開く。
「辺境伯領に残った“聖剣の乙女”の名は、確実に広がっているだろう。戦乱の終わりとともに、アリア嬢の存在もまた、神話のように語られ始めている」
キースは黙ったまま、視線を遠くに投げた。
「……だが、それが災いにもなる。聖剣の乙女がどこにいるのか知れ渡れば、彼女を奪おうとする者、利用しようとする者も現れる。今は静かでも、嵐の前触れかもしれん」
キースが静かに拳を握る。
「この地を再び戦場にする訳にはいかない。アリア嬢に剣を向けさせるようなこと……二度とさせるか」
「そのためにも、我々が動かねばならん」と、グレイソンが重々しく続ける。
「聖剣の乙女を守ることは、もはや一つの政治でもある。……君が、あの娘を信じるなら」
キースの目が細められる。
「信じてるさ。ただ……全部を背負わせるわけにはいかない。守れるものは、俺が守る」
秋風が二人の間を通り抜け、静かに紅葉を散らしていった。
キースとグレイソンが密かに話していた内容――王都に戻る時期のこと。それを偶然、アリアは耳にしてしまった。
「……王都に帰る?」
廊下の陰に身を潜めたまま、アリアの胸に冷たいものが広がる。
その夜、執務室でグレイソンに声をかけた。
「私、聞いてしまいました。王都に戻るって」
グレイソンが一瞬だけ眉をひそめる。その隣でキースは何も言わない。
アリアはゆっくりと言葉を紡いだ。
「また……私の知らないところで、決めるんですね」
言葉の端ににじむ怒りと、そして少しの寂しさ。
「私はもう子供じゃありません。置いていかれるのは、もう嫌なんです」
視線を上げる。まっすぐにキースを見る。
「私も行きます。王都に」
聖剣の乙女としてではない。
ただ、“アリア”という一人の人間として、並んで歩きたいから。
グレイソンがため息をつきながらも、どこか楽しげに目を細める。
「……さて。これは誰かさんが説得する番ですね、キース」
アリアの言葉に、室内の空気がぴたりと静まる。
しばらくの沈黙ののち、キースがようやく口を開いた。
「……王都は、貴族たちは“聖剣の乙女”という名を利用しようと虎視眈々としている。今のお前を見れば、また面倒な動きが出るかもしれない」
低い声。心配ゆえの言葉。
だがアリアは、一歩前に出て、揺るがぬ瞳で応える。
「だからこそ、私が行かなくては。聖剣の乙女として……ではなく、この地の民と共に生きてきた者として。黙って従うだけの飾りには、なりません」
キースの眉が動く。迷いと、苛立ちと、少しの誇らしさ。
「……無茶を言う」
「無茶は、あなたたち大人の方がしてるんです」
すかさず返された言葉に、グレイソンが吹き出す。
「ふふ、見事に一本取られましたね。どうします? キース。“置いていかれたくない”なんて、可愛いことを言ってくれたんですよ?」
キースは小さく息を吐いてから、アリアに向き直った。
「……分かった。だが、守りは堅くする。王都で何があっても、俺の許可なく勝手な行動はするな」
アリアはぱっと笑顔になり、こくりと頷いた。
「もちろんです。ちゃんと……一緒に帰るんですから」
アリアは踵を返すと、ひらりとスカートを揺らして執務室を後にした。その背中はどこか誇らしげで、子どものような無邪気さと、大人びた覚悟が混ざっていた。
窓の外には夜空。星のきらめきのように、希望の火がひとつ、灯った。
キースとグレイソンは執務室の窓辺で向かい合っていた。夕闇が差し込む中、二人の表情は真剣そのものだ。
グレイソンが言葉を切り出す。
「王都ではまだ、聖剣の乙女を守るための体制が整っていない。アリア嬢がここに来る前は、彼女の名はまだ広まっていなかったから、セドリック殿……一人でなんとか回せていたが……」
キースは苦い表情を浮かべ、拳を軽く握る。
「今回は違う。辺境伯領の件で、アリアの存在が国中に知られてしまった。だからこそ警護の強化が必要だと国王に訴えたが……適切な人材が見つからず、設立は保留のままだ。」
グレイソンは静かに息をつき、険しい顔で答えた。
「だから帰還が遅れたのか……。王都での警護体制が整わなければ、アリアの安全は保証できない。だが、早急に動かねばならないな。」
キースは決意を込めて窓の外を見つめた。
「……俺たちが何としても、体制を作り上げる。アリア嬢を守るために」
沈黙の中で二人は互いの覚悟を確かめ合った。
グレイソンはグラスに注がれた赤ワインを軽く揺らしながら、ふっと笑みを漏らした。
「まぁ、たしかに……皆既日食に生まれる少女など、奇跡に近い存在だ。だからこそ、その“たった一人”のために国が本腰を上げるのは、難しい話かもしれないな」
キースは黙ってその言葉を聞いていた。グレイソンは続ける。
「いずれ彼女は、自らの“主”を選ぶだろう……聖剣の乙女としての本懐を果たす時が来れば、役目は終わる。国が守るべき存在でいられる時間は、案外短いのかもしれない」
窓の外、遠くに沈みかけた陽が、薄紅の光を部屋に投げかけていた。
キースは視線を落としながら、低く答える。
「……だからこそ、今は俺たちが守らなきゃならない」
――――数日後。
馬車の前で、アリアは振り返った。見送りに集まった顔ぶれが、まるでひとつの時代の区切りを示すように、整然と並んでいた。
辺境伯ハオルド卿は静かな口調で、「王都の空気は辺境とは違う。どうか、気を抜かぬようにな」
と諭すように言い、カイルは肩をすくめて、
「お嬢ちゃん、たまには手紙でもよこしてくれ。心配する人間は、ここにもいるんだからさ」
エンデル公はひとつ頷く。
「今の平穏を築いたあなたの努力に、感謝している」と真摯に告げる。
そして、セヴィロス公は銀髪を風に揺らしながら、「聖剣の乙女殿。王都では貴女の名も力も重く見られることとなるでしょう。決して、心を見失わぬよう」と静かに言った。
アリアは深く礼をした。
「ありがとうございました。……また、必ず戻ってきます」
まっすぐに言葉を返す。
馬車の扉の前に立つアリア。すでに中にはグレイソンが座っていた。彼は穏やかな微笑みを浮かべ、静かに手を差し伸べる。
「さあ、アリア嬢。お手をどうぞ」
少し戸惑いながらも、アリアはその温かな掌を取った。引かれるままに馬車の中へと導かれる。
「ふふ、こうして迎えられると、なんだか帰るって実感が湧きます」
グレイソンの手のぬくもりが、アリアの胸をそっと温めた。
その後、セドリックとキースも続いて馬車に乗り込み、扉が静かに閉まった。
「さあ、王都が待っている。行こう!」
馬車が動き出すと、アリアは窓越しに見送りの人々へ手を振った。
それは、ただの出発ではなく――
“聖剣の乙女”としての、新たな戦いの始まりだった。