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新しい風

 夕暮れが、戦の痕を柔らかく包み込んでいた。

 広場の地面には、踏み荒らされた足跡と血の痕が残り、あちこちに倒れた武器や壊れた盾が転がっている。


 兵たちはそれらを一つずつ拾い集め、無言で片づけにあたっていた。叫び声も、怒号も、今はもうない。ただ、焚き火の煙と、どこかで鳴く鳥の声だけが耳に届く。


 負傷した者たちは、仮設の治療所に運ばれ、癒し手や医官たちの手によって応急処置を受けていた。

 人々は少しずつ、騒乱の中に失いかけていた日常を取り戻し始めていた。


 アリアは、そんな光景の中をゆっくりと歩いていた。

 声をかけ、手を取り、礼を伝える。その瞳は強く、しかし深い疲れがにじんでいる。


「……私の出来ること……」

 誰にともなく呟いたその言葉は、風に乗って空へ消えていった。


 空には、星が一つ、また一つと瞬き始めていた。



 アリアは執務室で地図を広げ、各地の民の声を記した報告書に目を通していた。


 すると――


「入るぞ」


 キースが無造作に扉を開けて入ってくる。


「……珍しいですね、ノックなしで来るなんて」


「お前が倒れる前に来た」


 キースは机の上に視線を落としながら、静かに言った。


「明日、俺は王都に戻る」


 アリアはその言葉に顔を上げた。すぐに理解した。ベラータ公を連行するため――それが彼の任務だった。


「権力の空白により、まだ不安定だが……」


 キースは地図の上に広がる小領主たちの名を一瞥し、目を細める。


「……グレイソンや味方になった領主たちなら、大丈夫だろう」


 そして、視線をアリアに向ける。

 その目は、どこまでもまっすぐで、確信に満ちていた。


「お前が居るしな」


 不意に、胸の奥が熱くなった。アリアは何も言えず、ただ頷いた。


 キースの言葉は、重くも優しく、彼女の心を支えていた。


「今日、言えなかったことがあります」


「ん?」


「“ありがとう”って言いたくて。キース様が、隣にいてくれて」


 しばらくの沈黙のあと、キースが静かに言った。


「……まだ、お前は隣じゃねえ。だが――」


 彼は、机の上の地図を見つめる。


「その日が来るまで、背中は預けてやる」


 アリアは頷いた。

「いつか、ちゃんと並んでみせます。だから――」


 少しだけ視線を逸らしながら、でもしっかりとした声で続けた。


「……そのときは、“アリア”って、名前で呼んでください」


 キースの眉がぴくりと動いた。


「……考えとく」


 不器用な返事。でもその口元には、ほんのわずかな微笑が浮かんでいた。



 朝靄の立ち込める城門前。黒の騎士団を率いたキースは、馬上から静かに辺りを見渡していた。

 出発の準備はすべて整っている。ベラータ公を乗せた護送馬車も、すでに列に加わっている。


 その前に立つのは、グレイソン、セドリック、そしてアリアだった。


「新しい辺境伯のことは、任せてくれたまえ。……いざとなったら、アリア嬢を任につけるつもりだからね」

 グレイソンが微笑みながら言うと、


「そんなことになったら、会議がお茶会になりますよ」

 セドリックが心配そうに、しかしどこか楽しげにツッコミを入れる。


「むっ、ちゃんとやりますっ!」

 アリアがむくれて頬を膨らませると、三人の間に穏やかな笑いが生まれた。


 キースはその様子を見て、小さく息を吐いた。


「……頼むぞ。しばらくは、この地をお前たちに任せる」


「任されました。必ず」

 グレイソンが深く頷く。


 アリアは一歩、馬のそばに近づき、小さくつぶやいた。

「気をつけて……」

  その声音は柔らかく、けれど確かな想いがこもっていた。

 キースの手が、一瞬だけ止まる。

 そして彼はアリアの目をまっすぐ見つめ、静かにうなずいた。


「用が済めば。王都での報告が終わり次第、また顔を出す」

 キースが馬に跨ると、少しだけ視線を落としてアリアを見た。

「お前が茶を用意してるなら、早めに戻るかもな」


「え、ほんとに!?」


「ただし、甘すぎるのは勘弁だ」

 そう言って、手綱を引く。


 隊の先頭に立つ黒の騎士団。ゆっくりと門をくぐって、王都へと向かっていく。


 朝の空は晴れ渡り、未来へ続く道を照らしていた。

 アリアはその背をまっすぐに見つめながら、小さく手を振った。




 アリアはそっとペンを置き、報告書の山に目をやった。

「新しい辺境伯を決めなければならない……」

 小さく、しかし確かな声で呟く。


「誰になっても後悔がないように……」

 その言葉には、私情も迷いもなかった。責任と未来を見据えた一人の“選ぶ者”の意志だけが、静かに宿っていた。


 彼女は椅子にもたれながら、ふぅ、と息を吐く。


 アリアは再び姿勢を正し、地図の上に並ぶ候補者たちの名に指を滑らせる。

 一人ひとりの功績、人柄、民との関係を思い浮かべながら、静かに口を開いた。


「……未来を託せる人に、しないとね」



 執務室にて


 アリアはグレイソンの執務室を訪れていた。地図と書類が広げられた机の向こうで、彼は静かにアリアの話を聞いていた。


「……なるほど。アンデル卿を、次の辺境伯に?」


「はい。町の人々の声を耳にしたんです。『アンデル卿は失脚したけれど、清廉な人だった』『どんなときも民を見捨てなかった』『あの人なら安心して任せられる』……そう、皆が口々に言っていました」

「彼は一度、権力を追われたかもしれません。でも、信頼は失われていなかった」

 グレイソンは少し目を細め、指を組んだ。

「意外な名だが、筋は通っている。実直で、民にも信望がある」


「その方なら、民の声に耳を傾ける政治ができるはずです」


 グレイソンの目が細くなる。

 アリアは続けるように、祈るような思いで言葉を紡いだ。


「それに……もし今も、その志を持ち続けているなら、もう一度――辺境を託すに足る方なのではないでしょうか」


 グレイソンは机をとんと指で叩いた。「……君が推薦するなら、私も支えよう。ただし、味方を作る努力は怠らないことだ」

 彼は静かに視線を上げ、アリアと目を合わせた。


「迎えよう。あとは、彼がもう一度この地に立つ覚悟があるかどうか――だな」


「ありがとうございます、グレイソン様」

 アリアはその言葉に小さくうなずいた。新たな秩序の始まりを、自分の手で切り拓く覚悟が、少しずつ形になり始めていた――。


 しばしの沈黙。

 やがてグレイソンが小さく頷いた。


「……だが、今のアンデル卿がどこにいるのか、我々には把握できていない。失脚してから、消息は……議会に出席しない以上、他の貴族たちから突かれる」


 その言葉に、アリアは一歩前に出て言葉を継いだ。


「今、町に――アンデル卿の息子、カイルさんがいるはずです。お父様の居場所を知っていると思います!」


 グレイソンの目が静かに見開かれた。そして短く息をついた後、重々しく頷く。


「……良いでしょう。この件は、あなたに託します。だが、絶対に一人で動いてはなりません。護衛と判断役を兼ねて――セドリック殿を同行させましょう」


 その名を聞き、アリアは小さく頷いた。セドリックもすでに一度、カイルに面識がある。彼の穏やかな人柄なら、きっと話も通じやすいだろう。


「ありがとうございます……必ず、アンデル卿に想いを届けてみせます」


 アリアは胸に手を置き、小さく、だが確かな決意を込めてそう言った。


 夕暮れの城門前。

 柔らかな西日の光が石壁を染め、遠くで鳥の鳴き声が響く。

 町外れの視察路で、アリアとセドリックは一人の騎士を見つけた。


「……あれは、カイルさん?」


 アリアが声をかけると、男は振り返り、肩をすくめて笑った。

「おや、またお嬢ちゃんか。どうした、俺を探してたのか?」


 セドリックが軽く頭を下げる。

 その横でアリアはカイルと目を合わせて話す。

「はい。……今日はあなたにお願いがあって……」


 カイルは腕を組みながら、眉を寄せてアリアを見つめた。

「お願い?」


「……カイルさん、あなたじゃなくて――あなたのお父様、アルデン卿の事です」


 カイルの表情から冗談の色が消え、少し真面目な口調になる。

「父を、どうして?」


 アリアはまっすぐ見つめて告げた。

「新しい辺境伯に、アルデン卿を推薦したいの。経験も人望もある、今のこの国に必要な人です」


 カイルはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。

「……父なら、きっと断るかもしれない、一度失脚している身だしな」


「それでも、私は頼みたいの」

 アリアの声に一切の迷いはなかった。


 セドリックが控えめに続ける。

「混乱が続く今だからこそ、堅実な柱が必要です」


 アリアは封書をカイルに手渡す。

「こちら……グレイソン様からお預かりした封書です。アルデン卿にお届けください」

「辺境伯領の今後に関わる大切なことが書かれています」


 カイルは封書を握りしめ、しばらく考え込んだ。


「……随分、父のことを買ってくれてるな」

 カイルは肩をすくめたが、どこか嬉しそうでもあった。


 セドリックが一歩前に出て補足する。

「公的な復帰には慎重な判断が求められます。しかし、あなたの父君を支持する声も増えてきている。これは、その一つの兆しです」


「……そうか」

 カイルは静かに頷いた。

「分かった。お嬢ちゃんの頼みだ、必ず届けるよ……ちょうど、これから帰るところだったんだ。実家がこの辺境伯領アルディナにあってな」


「えっ、そうだったんですか?……良かった。この封書をお渡しできて」


 カイルはアリアの瞳をまっすぐに見つめた。

「君が“良かった”と思えるなら、それはきっと正しいことなんだろうな」


 アリアは微笑む。


「ちゃんと渡すよ。あんたらの本気、伝えてみるさ。……でも正直、父が乗り気になるかどうかは分からないぜ?」


「それでも構いません。選ぶのは彼自身ですから」

 アリアはそう返し、深く一礼した。


 カイルは一瞬だけ言葉を失い、そして柔らかく笑った。


「封書を受け取れば……昔から、表には出さないけれど人一倍責任感の強い方だ。

 君がこうして心を寄せていると知ったら……きっと、力になるだろう」


 カイルは少しだけ目を細めて、アリアを見つめた。

 アリアはそっと視線を落とし、胸に手を当てた。

「……この場所が、ちゃんと守られていってほしいんです。誰かの犠牲や、怒りじゃなくて。ちゃんと未来に繋がっていくように」


「はは、期待されると肩が凝るな」

 カイルは頭をかきながら笑ったが、どこか嬉しそうだった。

「こうして誰かに必要とされるのも、悪くないもんだな」


 カイルは封書をしっかりと懐にしまい、踵を返した。

 そして肩をすくめた。

「あいつが断ったら、俺が引きずって来るさ!」


「それは……評議会が武勇伝になる予感がしますね」


 セドリックがぼそりと呟き、アリアとカイルは思わず吹き出した。


「じゃあな、お嬢ちゃん。また会おうぜ!」


 アリアは軽く頭を下げた。

「本当に、ありがとうございます。どうかお気をつけて」


 背中越しに手を軽く振るカイルを、アリアとセドリックはしばらく見送っていた。


―――数日後

 賓客館――かつて小規模な城として使われていた古城の一室で、アリアは窓辺に立っていた。


 扉がノックされ、控えていたセドリックが静かに開ける。


「お連れしました」


 先に入ってきたのは、どこか気安い雰囲気を纏ったカイル・アンデル。以前と変わらぬ軽やかな笑顔を見せる。


「また会ったな、お嬢ちゃん」


「お久しぶりです、カイルさん」


 アリアが微笑み返すと、その後ろから、年嵩の男がゆっくりと現れた。落ち着いた風格。鋭い眼光と無駄のない動きに、ただ者ではないと誰もが思うだろう。

 ――これが、ハオルド・アンデル。


 彼の存在が室内の空気を少し引き締めた。


「……初めまして、ハオルド・アンデル卿。アリア・セレフィーヌと申します。こうしてお会いできたことを、光栄に思います」


 アリアは一礼した。初対面であるにもかかわらず、どこか懐かしさを感じる。


 ハオルドはじっと彼女を見つめたあと、静かに口を開いた。


「礼儀正しい娘だな。……ベラータに、こんな若者が抗したとは聞いていたが……想像以上だ」


「私はまだ未熟です。ただ、守りたいもののために、少し勇気を出しただけです」


 その言葉に、アンデル卿の目が細められた。

 気付いたのだ――目の前の少女こそ、聖剣の乙女だと。しかし彼はそれを口には出さなかった。


 その傍で、カイルが首を傾げる。

「……?」


 アリアは微笑んで立ち上がると、丁寧に一礼した。

「では、グレイソン様のところにご案内いたします」


「ふむ、世話になる」


 アンデル卿が歩き出し、カイルが慌てて横に並ぶ。

 

 古城の石畳を踏みしめる足音が静かに響く。

アリアは、古城の奥にある一室へとアンデル卿とカイル、そしてセドリックを導いた。

 グレイソンの書斎――石造りの重厚な扉の奥、歳月の重みを感じさせる古書と地図に囲まれた空間である。


 「こちらが、グレイソン様の書斎です。どうぞ、お入りください」


 アリアが扉を開けると、中にはすでにグレイソンが待っていた。静かに立ち上がり、落ち着いた口調で出迎える。


 「よくお越しくださいました、ハオルド卿。お会いできて光栄です」


アンデル卿は軽く会釈を返しながら部屋へ足を踏み入れた。その背後では、カイルが警戒を滲ませつつも辺りを見回し、セドリックが静かに扉を閉めた。


 その時、カイルはぽつりと呟いた。

「この方が……評議会で領主達を黙らせたと言う……」


 カイルの視線はグレイソンをじっと見つめていたが、その顔には想像していた人物とは違うという戸惑いが浮かんでいた。


 その横でアリアが静かに微笑んだ。


 カイルの呟きを聞きつつも、グレイソンは動じず、話を本題に切り出す。

「さて、本日は辺境伯領アルディナの今後について、重要なお話がございます。特にハオルド卿の役割について、私からご説明させていただきたく思います」


 アリアも隣で静かに頷き、話の流れを見守っていた。


 グレイソンは地図を軽く指でなぞりながら、静かに言った。

辺境伯領アルディナは今、確かに権力の空白が生じています。ベラータ公の支配が崩れたことで、領内には不安と混乱が広がっているのは否めません。」


「しかし、それは同時に、新しい秩序を築くチャンスでもあります。力だけで押さえつけるのではなく、民の声を大切にし、領主や有力者と連携して安定を図ることが必要です。」


「ハオルド卿にはその舵取り役としての期待を寄せています。彼の統率力と人望があれば、徐々にではありますが、この地に新たな秩序が根付いていくでしょう。」


 グレイソンは一呼吸置き、真剣な表情で続けた。

「私たちも陰ながら支援し、決してこの土地を放置しません。安寧を取り戻すためには、皆が一丸となることが不可欠です。」


 ハオルド・アンデルは重々しく口を開いた。

「……この私に、再び辺境伯の任を――とは。ありがたいお話ですが、それは過分です。私はすでに一度、陰謀により失脚した身。民の信頼を取り戻すには……時間が必要でしょう」


 アリアはそっと前に出て、まっすぐハオルド卿を見上げた。

「その“失脚”こそが、正しさを奪われた証です。誰かが傷を負わされたままでは、国の未来も曇るわ」


 彼女の瞳は揺るぎなかった。

「正しさを取り戻すことが、私の責任です。あなたをここにお呼びしたのも、その一歩のため。どうか……諦めないでください」


 アンデル卿はしばし沈黙し、彼女の言葉を噛みしめるように目を伏せた。

 ハオルドは、アリアのまっすぐな眼差しを受け止め、重く息を吐いた。


「……私は、かつて信じていたものを、仲間に裏切られた。名誉も、家も、民も――すべてを失いかけた。正しさを貫こうとしたはずが、結果的に守れなかった」


 彼の声には、静かな苦みと、長く封じていた痛みがにじんでいた。


「……それでも、貴女は“正しさを取り戻す”と言うのか」


 アリアは一歩、彼に近づいた。


「ええ。過ちを過ちのまま終わらせないために。私たちは、誰かの正しさを見過ごしてはいけない」


 ハオルドの目が揺れる。カイルが隣で静かに父を見上げていた。


「父さん……。もう一度、あの領地に帰ろう。今なら、取り戻せる」


 ハオルドは息子の言葉に目を細め、やがて微かに頷いた。


「……では、一度だけ。その責任の重さを、私自身が証明しよう」


 アリアは、安堵の微笑みを浮かべた。


 グレイソンは静かに一礼し、重みのある口調で告げた。


「ハオルド卿……次の評議会にて、辺境伯領の未来が正式に議されます。ぜひ、貴殿にも出席をお願いしたい」


 ハオルドは一瞬目を伏せる。だが次第にその瞳には、かつて失ったはずの炎が宿っていた。


「……逃げるつもりはありません。必要とされるのならば、私は応えましょう」


 カイルがほっと息をつくのを、アリアはそっと見守っていた。

 そして、グレイソンが続ける。


「これはただの名誉職ではありません。貴殿の声が、領地の行方を左右します。重責を担う覚悟を、評議会の場でお見せいただきたい」


「承知しました。我が名と誇りにかけて、この務めを果たしましょう」

 ハオルド・アンデル。その名が再び、王国の中枢に戻る時が来た。

 その重厚な背中を、アリアは静かに見つめていた。


「……きっと、正しさは証明される」

 小さく、誰に向けるでもなく呟く。その声に、微かに風が応える。


 ふと足を止めたハオルド卿が、静かに振り返る。

 そして、重々しく片膝をつくと、頭を垂れた。


「――聖剣の乙女の導きに、心より感謝を」


 その光景に、隣で様子を見ていたカイルが目を丸くする。


「えええ!? お嬢ちゃんが、聖剣の乙女!?」


 カイルの目が丸くなる。その声は思わず大きくなり、周囲のグレイソンたちがちらりと視線を向けた。


「ちょ、ちょっと待ってくれ……えっ?ええっ!? じゃあ今まで俺……なにか、失礼なこと言ってないよな!? 変なことしてないよな……!? アリア嬢、いや、聖剣の乙女様!?」


 慌てて言葉を重ねながら、額に手を当てて記憶を探るカイル。その様子を見たアリアは、口元に手を添えてふふっと笑った。


「そんなに焦えなくても、大丈夫ですよ。私、気にしてませんから」


 その笑顔に、カイルはぽかんと口を開け、次の瞬間、真っ赤になって頭を掻いた。


「うわ、なんか余計に恥ずかしい……!」


 横で見ていたセドリックが小さく肩をすくめながら呟いた。

「……ま、あの調子なら、この地も安心かもしれないな」


 その隣で、父・ハオルド卿が静かに腕を組み、呆れたように息を吐く。

「相変わらず、お前は取り繕うということを知らんな、カイル……」


 だがその声に、叱責よりもどこか微笑ましさがにじんでいた。


 そして、広間の奥に立つグレイソンが、柔らかな笑みを浮かべながら口を開いた。

「いいんですよ。そういう素直さが、この時代には貴重なんです」


 カイルが頭を掻きながら、ぼそりと呟く。


「……でも、せめて一言くらい前もって言ってくれたら、俺、もうちょっとカッコつけられたのに」


「……お前ももう少し落ち着け、カイル。そんなに大声を出して、聖剣の乙女に恥をかかせるつもりか」


 その言葉に、カイルはハッと我に返り、慌てて口元を押さえた。


「す、すみません、父上……つい興奮してしまって」


 アリアの笑顔を見て、ハオルド卿は少しだけ微笑みを浮かべた。




 評議会当日の朝。

 窓の外に広がる王都は、まだ霧の中にあった。


 執務室の隅で、アリアは静かに椅子に座っていた。机の上には今日の議案、そして彼女が推薦した書状の写し。

 だが、それらに目を通す余裕など、今の彼女にはなかった。


「……」


 肩に力が入り、膝の上で指先が重なり合う。堪えていた吐息が、ふっと漏れる。


「お嬢様」

 そっと置かれた湯気立つティーカップ。

 セドリックが控えめな微笑を浮かべ、紅茶の香りを広げた。


「少しでも、気持ちを落ち着けられればと思いまして」


「……ありがとう、セドリック」


 アリアは小さく呟き、震える指でティーカップを持ち上げる。

 白磁のカップが、カタ……カタ……と細かく音を立てた。


 そこへ、優雅に現れたのはグレイソンだった。窓際に立ち、朝靄の中に目を向けながら、ちらとアリアを見る。


「おやおや……アリア嬢が一番緊張しているのですね」


 ティーカップを手にしたまま、アリアは小さく目を伏せた。


 ――私の推薦が、間違っていなかったと言えるだろうか。

 もし、私の判断が、この国をまた混乱に導いてしまったら――


 静かな朝の空気の中、胸の奥で重く、鈍い不安がうずく。

 グレイソン様も、セドリックも、信じてくれている。

 でも、本当に皆に伝わるだろうか。ハオルド卿の正しさを。私が信じた“思い”を。


 ティーカップの中の琥珀色が、かすかに揺れた。

 その揺れはまるで、彼女の心の内を映すようだった。


「……皆の前に立つのは、やっぱり、少し怖いです」


 ぽつりと零したその言葉に、セドリックがそっと頷く。


「それでいいのです。迷いも不安も、あなたの誠実さの証です。だからこそ、きっと伝わりますよ」


 アリアは瞳を伏せたまま、少しだけ笑った。

 揺れる紅茶の香りが、ほんの少しだけ、彼女の緊張をやわらげてくれた気がした

 そう言いながらも、カップはまだ小刻みに揺れていた。


 グレイソンはふっと笑いながら椅子に腰を下ろし、静かに言った。


「では、今日は――あなたの“信じる正しさ”を、堂々と示してみせてください」



 重厚な音を立てて、評議会の扉が開かれた。

 差し込む光が広間の奥まで伸び、厳粛な空気が満ちていく。


 議場には既に、王国の有力な領主たちが着席していた。


 エンデル公――アリアを支え、ベラータの野望を挫いた老練なる名将。


 セヴィロス公――中立を保ちながらも、内政に秀でた知略の貴族。


 デュアリス男爵とギラム男爵――それぞれ地方の信望厚き有力者たち。


 そして、戦の終結後、アリアの呼びかけに応じた多くの小領主たち。


 その顔ぶれは、かつて一度も並び立ったことのない“和の座”であった。


 やがて全員が着席し、執政官が進み出て告げる。

「本日、ここに新たな“辺境伯”を定める議案が上程されます」


 静まり返る中、誰かの喉が鳴る音が微かに響いた。


 評議会の重々しい空気の中、アリアが静かに口を開いた。


「私はハオルド・アンデル卿を、新しい辺境伯として推薦いたします。」


 その言葉に、部屋のあちこちからざわめきが起こる。


 エンデル公が眉をひそめ、声をあげた。


「ハオルド卿か……あの失脚した男を? 証拠はすべて捏造とはいえ、彼の過去が重荷にならぬか?」


 セヴィロス公も続ける。


「信用を回復するには時間が必要だ。今すぐ辺境を任せるのは危険だろう。」


 そこへ、グレイソンがゆっくりと立ち上がった。


「確かにハオルド卿は一度失脚した。しかしそれは、ベラータ公が仕組んだ罠によるものだ。今や真実を知る者は多く、彼の名誉は回復されつつある。」


「彼は忠誠心が厚く、辺境の守りに最も適した人物だ。私からも強く推薦する。」


 その時、評議会の扉がゆっくりと開かれ、一人の男が姿を現した。

 ハオルド・アンデル卿――失脚の汚名を背負いながらも、気高く毅然とした姿で歩み入る。


 彼の目には、決意と覚悟が宿っていた。


「私がここに戻った意味はただ一つ――この国を守り抜くためです。」


 その一言が、評議会の場を揺るがし、場内の空気が一層重く緊迫したものへと変わった。


 グレイソンが静かに立ち上がり、低い声で告げる。


「彼は信頼に値する。今こそ、真の忠誠を示す時だ。」


 会議の空気が少し和らぎ、視線が一斉にハオルド卿へ向けられる。

ハオルド卿は、毅然とした口調で言った。


「皆が私を疑うのは無理もない。しかし、私はこの国のために尽くす覚悟がある。再び失敗は許されない。皆様の信頼を取り戻し、辺境を守り抜くことを誓う。」


 ハオルド卿の登場によって場の空気は一変し、全員の視線が一斉に彼に注がれた。議長が重々しく口を開く。


「では、これより新辺境伯の任命について議論を進める。」


 デュアリス男爵が鋭い目で発言する。


「アンデル卿の過去は重い。しかし、その潔白が証明されているならば、適任かもしれん。辺境の守護者には何よりも強い意志と忠誠が必要だ。」


 ギラム男爵も頷きながら、


「だが、彼の失脚は領民の不安を招かぬか? 我々は民の支持も考慮すべきだ。」


 エンデル公は慎重に言葉を選びながらも、


「その点は私も同意する。だが、混乱を収めるためにも強力なリーダーが必要だ。ハオルド卿が再び力を取り戻せば、辺境の安定は見込める。」


 セヴィロス公が静かに付け加える。


「問題は今後の政治的調整だ。彼を支える体制を整えなければ、また同じ過ちを繰り返すことになる。」


 アリアは深く頷きながら、


「私はハオルド卿を全面的に支えます。皆様にも、彼を信じていただきたい。」


 グレイソンが再び口を開く。


「この評議会の決定は国の未来を左右する。皆の意見を慎重に聞き、最良の判断を下そう。」


 議長は短く合図をし、


「では、賛否を問う。新辺境伯にハオルド・アンデル卿を推薦することに賛成の方は手を挙げよ。」


 場内で手が次々と挙がり、賛成の声が大勢を占めた。


 反対の声は小さく、やがて議長は結論を告げる。


「多数決により、ハオルド・アンデル卿の新辺境伯任命を承認する」


 拍手が広がり、評議会は閉幕の気配を見せる。

 アリアは静かに胸を撫で下ろし、ハオルド卿はその場で深く礼をした。


 権力の空白、辺境伯領アルディナに、新たな風が吹き始めた。


 ハオルド卿の復権によって、領地の民たちには安堵の色が広がり、かつての混乱は徐々に収束へ向かう。


 アリアは遠く見える辺境の山々を見つめながら、静かに呟いた。


「これからが本当の戦い……でも、きっと大丈夫……」


 新たな指導者のもと、辺境伯領アルディナに希望の光が差し込んだのだった。

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