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叛焰の獅子

 グレイソンは机上の地図を指でなぞる。


「表では従順な顔をしているが、裏では兵の動きが不自然だ」


 キースは無言で頷いた。

 やがて低く、鋭く言い放つ。

「なら、牙を抜いてやればいい。……奴らが吠える前に、喉を潰す」


 グレイソンの唇に、わずかな笑みが浮かぶ。


「大胆ですね。けれど、賢明でもある」


「聖剣の乙女を盾にするのか、それとも自ら剣を取るのか……どちらにしても、ベラータ公は今や、我々の手の中だ」


「――囮にする気ですか?」

 扉の影から出てきたのは、セドリックだった。

 その目線はキースを睨んでいた。

 その背後に、小さく身を縮めるようにしてアリアが立っていた。彼女の表情は驚きと戸惑いに揺れている。


「お嬢様を“囮”など、許しません」


「囮にするとは言っていない。試すだけだ」


「結果、牙を剥かれたら?」


「剥かせるんだよ。引きずり出して、潰す。それが一番早い」


 キースの声音は冷たい鋼のようだった。


 グレイソンは静かに、けれど確かな重みを持ってアリアを見つめた。

 静かに、しかし揺るぎない口調で……。

「……我々がベラータを討てば、ただの政争と呼ばれるだろう」


 アリアの瞳が揺れる。だがグレイソンは言葉を止めなかった。机上の地図を軽く指で叩きながら、続ける。


「だが――民が声を上げ、彼を裁けば、それは正義となる」


 声に熱がこもっていた。紳士的な微笑の裏に隠していた意志が、今だけは顔を出している。


「力で黙らせるのではない。民意で終わらせるんだ、あの暴君を」


 アリアはその言葉に、しばし言葉を失った。彼の策略の裏に、確かに“誰かを守ろうとする覚悟”があることを、彼女は初めて実感した。


「……グレイソン様」


 彼女が名前を呼ぶと、グレイソンは静かに微笑み返した。


「貴女の決意が、民に届くように。私はその舞台を整えるだけです」


 アリアは少し驚きつつも、目を伏せた。

「……民の声で終わらせる。そんな戦い方が、本当にできるなら……私も、信じたい」


 キースが腕を組みながら低く言う。

「だが民を立たせるには、俺たちが先に血を流すことになる。……それでもいいのか、アリア嬢」


 迷いの中で決意を込めて、真っ直ぐキースを見た。

「……ええ。傍に立つと、決めたから」


 視察と称してアリアが訪れたのは、西の有力領主たちが治める要衝の町。その中央広場には、すでに多くの民衆が集まり、若き聖剣の乙女の登場を今か今かと待ち構えていた。


 街路に響くのは、警戒に目を光らせる黒の騎士団と、控えにまわったグレイソンの部下たちの足音。どこか張りつめた空気のなか、アリアは静かに壇上へと歩を進めた。


 彼女は迷っていた。いまだ国の中枢に残る腐敗と、剣を取らねば守れない現実に。


 ――でも、それでも。


 この地に生きる者たちの目が、アリアを求めていた。

 深く息を吸い、彼女は高く顔を上げる。


「……皆さん。私はアリア・セレフィーヌ。聖剣の乙女として、この国の命を受け、あなた方の声を聞くため、ここに参りました」


 ざわめきが、広場を走る。


「私は、ただ“守られる存在”ではいられない。剣の乙女として、この地に生きる一人として、皆さんと同じように、怒り、悲しみ、そして……希望を持っていたい」


 風に乗って、その声が広場に響いた。


「腐敗した権力に傷つけられてきた人々がいます。声を上げられぬまま、命を落とした者がいます。私は、もうそれを黙って見ているわけにはいきません」


 その瞬間――。


 広場の端から、ひときわ異質な一団が姿を現した。


 分厚いマントを揺らしながら進み出たのは、老いた男。だがその目は鋭く、民衆を睨みつけるその圧に、場の空気が一変した。


「……ベラータ公」


 誰かがその名を呟く。


 アリアの目が、壇上からまっすぐに彼を捉えた。


「ほう……視察とは名ばかり。聖剣の乙女が、このような“演説”とは、実に傲慢だ」


 唾を吐くような声で、ベラータは言った。


「王命? 民の声? ……笑わせる。貴様らが民と共にあるなど、誰が信じる。貴様もその剣も、王の飾りだ!」


 アリアは、怯まなかった。


「……いいえ。私は飾りではありません。誰かに操られる剣でもない。聖剣の矛先は、自分で選ぶと、私はそう誓いました」


 ベラータの目が、わずかに揺らいだ。


 それは、ただの演説ではなかった。視察に見せかけた布石。それを見抜いたからこそ、彼は自ら現れた。


 グレイソンの読み通りだった。


 不穏な空気を感じた黒の騎士団の中には、剣に手をかける者もいた。だが、アリアは手を振って制した。


「私の言葉に、剣はいらない。ただ、見ていてください。私は、この国を“変える覚悟”を、持ってここに来たのです」


 その目には涙すらなかった。


 民の中から、ひとつの声が上がる。


「聖剣の乙女様に……従うぞ!」


 続けざまに、声が広がる。


「俺たちの声を、聴いてくれる人だ!」 「俺たちを“守るために”来たんだ!」


 ベラータの顔が歪む。


「愚民どもが……!」


 その一言に、すべてが揺らいだ。


 民は、気づいてしまったのだ。誰が自分たちを「道具」と見ていたのか。誰が「寄り添おう」としてくれたのか。


 ――この瞬間こそが、反乱の始まりだった。

 ベラータ公の心に、確かな焦りが走る。

 そして彼は、広場を後にした。



 玉座の間ではなく、決して表には出ぬ密議の間。そこにはベラータ公と、その側近たち――いずれも中央政権を牛耳る老臣や特権貴族の顔ぶれが揃っていた。

 荒々しく閉じられた扉が、重い音を立てて響く。

 分厚い絨毯を踏みしめる音だけが静寂を破っていた。怒りに満ちた吐息が漏れ、ベラータ公の手が卓上の水差しを思いきり薙ぎ払った。砕けた硝子の破片が、床に散る。


「……見くびっていた。あの娘がここまで“火種”になるとはな」


 部屋の片隅では、数名の重臣と領主が、沈黙のまま立ち尽くしていた。


「セヴィロス公が動いた時点で、我々は戦の覚悟を決めるべきでした」と、老いた重臣が声を絞り出す。


 ベラータは唇を噛んだ。

「東の連中が、ただの少女に肩入れしている?……茶番だな。聖剣の乙女など、王国の飾り物でしかないはずだった」


 アリアの登場は、最初はただの政治的飾りにすぎぬと見ていた。だが民は動いた。敵味方の小領主たちも、彼女に“正当性”を見たのだ。


「だが、民衆がその“飾り”に夢を見ている。それが問題なのだ」


「放っておけば、地方連合が“新たな辺境伯”を擁立するぞ」


「愚か者どもが“乙女”を担いで神聖を語るならば……我らは“王権”をもって打ち払うのみ」


「……我が家の威信が揺らいでいる。今こそ示さねばならん。誰がこの中央権力者の真の支配者かを!」


「反乱を、起こされるおつもりですか?」

 その場にいた一人の貴族が問う。


「違うな」ベラータ公の目が静かに光る。

「“討伐”だ。反逆者に対する、正統なる国家の裁きだよ」

 その問いに、ベラータは何のためらいもなく頷いた。


 その言葉に、重臣たちの顔に緊張が走る。


 ベラータはさらに続ける。

「演説とは……聖剣の乙女を囮にするとは、愚かな策だ。むしろこちらが先に仕掛けてやろう。――“乙女の首”を取りにな」


その言葉に、ある者は唇を震わせ、ある者は沈黙で従った。


 ――賓客館古城、軍政本部・作戦会議室


 地図と報告書が積み重なる卓上。その中心に立つ青年の目は、鋭く一点を見据えていた。


「……来ますね。ベラータ公は必ず、動く」

 静かに言ったのはグレイソンだった。

 黒手袋の指が、地図上の“西方国境”を指す。


「アリア嬢が視察地に向かわれた。そこに刺客を送る……いや、“公的な鎮圧部隊”という名の武力行使が行われるはずです。ベラータ公はそれを“王命”に偽装するでしょう」


「つまり、民の守りに向かう我々が反逆者に仕立て上げられるってわけか」

 キースが唇の端を吊り上げる。目は笑っていない。


 グレイソンは頷いた。

「彼らの思考は、常に“先に正義を取る”こと。先に正義を名乗った側が有利なのです」


 部屋に緊張が走る。だがグレイソンはすぐに続けた。


「……ですが、ベラータ公は一つだけ読み違えている。“アリア嬢が囮にされる”と考えていることです」


「違うのか?」


 キースが問いかけると、グレイソンの声にわずかな熱が宿った。


「違います。アリア嬢は、“自ら囮となることを選んだ”のです」


 その言葉に、空気が一変した。

 冷たい緊張の中に、一縷の強さが灯る。


「私たちは、その覚悟を無駄にしない。視察団には、あらかじめ“私兵”を紛れ込ませてあります」


「つまり、“こちらも”想定済み……と伝えてやるってわけだな」

 キースが笑う。冷たい笑みは、黒の騎士団としての本性だ。


「本番は、その後です」

 グレイソンは地図の一点を指さす。

「この地点で、ベラータ派の本隊を分断。東方・北方・小領主連合が一斉に動き、ベラータ公の軍を包囲します」


「中央の巨頭を……この一手で討つ」

 静かな声に、深く頷いた。



 西の視察地・リルゼ村 夜明け


 静けさが張り詰めていた。

 まだ空に赤みが差す前、村の周囲を囲うようにして“彼ら”は現れた。


 ――鎮圧部隊。

 王命を偽った、ベラータ公の私兵たち。


 村の入り口、古びた井戸の前。アリアはその気配を、冷えた空気の中に感じ取った。


「お嬢様、こちらへ」


 セドリックが前に出て、アリアを背にかばう。その背後では、村を警護する兵の数名が小声で指示を交わしていた。


「……来るんですね、やっぱり」


 アリアは震える指先を握りしめる。だが、足は前に出たまま。

 背後で、村の子どもたちが怯えた目で扉の隙間からこちらを見ている。


「逃げて、とは……もう言えない」


 そう呟いた時だった。


「――王命により、視察団の即時拘束を命ずる!!」

 低く響く怒号が、大地を震わせるように轟いた。


 アリアの目の前に現れたのは、重装備の兵たち。その中央に立つのは、ベラータ公配下の将校。鋭い目つきの男が、書状を掲げる。


「中央より発せられた命に従え! “反逆の芽”を、ここで摘み取る!!」


 兵たちが武器を構える。


 その瞬間――。


「動くな! この地には我ら“東方の誓剣隊”が駐屯している!」


 割って入ったのは、エンデル公の旗を掲げた騎馬隊だった。


「アリア様への干渉は“明確な侵略行為”と見なす!」


 対峙する双方の空気が、鋭く張り詰める。

 そのただ中に立ったアリアが、震える胸を押さえ、踏み出した。


「私の命で、民が目を覚ますのなら……私は剣を受けましょう」


 その声に、兵たちの動きが止まる。

 その一言が、村に迫る“武の正当性”を揺るがせた。


「……やはり、甘い」


 後方に潜んでいたベラータ公の影が、そう呟いた。


「血をもって示せ」


 視察地の広場。群衆の間を裂くように、ベラータ公が歩み出る。背には重厚な軍装の兵。鋭い眼差しが、真正面からアリアを射抜いた。


「貴様の“演説”――あれは国家反逆と受け取るに足る」


「……民の声を伝えただけです。私の言葉がそれを暴いたのなら、それは……あなたの方が恐れている証拠です」


 アリアの声は震えていたが、決して下を向かなかった。

 その瞳に、ベラータ公は苛立ちを露わにする。


「ならば、証を見せよ。血で――だ!」


 剣戟の音が、乾いた空気を切り裂いて響いた。


「ベラータ公……! やめてください!」


 アリアは叫んだ。だが、その声は老練の男の怒気には届かない。

 ベラータ公――貴族の威信を纏い、剣を抜いた男が、ただ一人、少女に迫る。


「貴様のような“娘”に、血筋を汚されてたまるか!」


 銀に鈍く光る刃が、真っ直ぐアリアの頭上に振り下ろされようとした、その瞬間。


「お嬢様――!」


 風を裂いて、ひとつの影が飛び込む。

 セドリックだった。

 彼はその身を盾にして、アリアを庇った。

 鋭く突き立つ金属音とともに、弾かれた刃が彼の右眉上を裂く。


「――っ!」

 パリッ――という音と共に、彼の眼鏡が砕けて地に落ちた。


「セドリック……!」


 アリアが思わずその名を呼ぶ。


 右目の上から、真紅の血が細い線を描き、頬をつたって滴り落ちる。

 だがセドリックはそのまま体勢を崩すことなく、懐から短剣を抜き、ベラータ公と対峙した。

「もはや“演技”では済まされません、ベラータ公……! この刃、決して無礼とは言わせない!」


 静かな声だった。だが、その目は凍てついたように冷たい。


「もう一度、お嬢様に刃を向けるなら――その喉元、容赦はしません」


 剣を止めていたベラータ公の腕が僅かに震える。

 初めて、彼の顔に“恐れ”の色が浮かんだ。


 アリアは、震える手でセドリックの背に手を伸ばす。

 彼の血が、その小さな掌に温かく染みこんでいた。抜かれた剣が閃く。


 冷たい風が吹き抜け、張り詰めた空気がさらに緊迫する――。


 セドリックが短剣を構えたその刹那、周囲の兵士たちが一斉に剣に手をかけた。 広場はまるで一触即発――いや、すでに火種に火がついた状態だった。


「ベラータ公、貴殿が今ここで血を流させたことが、何を意味するか……お分かりか?」

 落ち着き払った、しかし底知れぬ圧を帯びた声が響いた。

 そこに現れたのは、グレイソンだった。


「これは“謀反”と取られても、仕方のない一撃ですよ。しかも、聖剣を賜ったアリア様に剣を向けた暴力。……中央の者として、随分と覚悟があるようで」


「貴様……!」ベラータ公が呻く。


「さらに言えば、すでにこの地には、東方三領主の一角――エンデル公の軍も到着している。……彼らは“王命の護衛”として動いているのです」


 そして、どこからか――甲冑の音が広場に響いた。

 東方の兵たちが一糸乱れぬ陣形で姿を見せる。


「もう、お引き取りを」


 グレイソンの声が静かに告げる。


 ベラータ公はわずかに顔を歪めた。側近が場の空気を読んだ。

「公。これ以上は得策ではありません。退きましょう」


 グレイソンの言葉に、ベラータ公が忌々しげに舌打ちする。

 だが、膠着した場面と、不測の状況を前にして、彼は剣を収めた。


「小娘め……」


 悔しげに吐き捨てると、彼は馬を返し、闇の中へと姿を消していった。


 ――残されたのは、崩れ落ちるように膝をつくセドリックと、それを支えるアリアだった。


「セドリック、しっかりして……!」


 アリアは懐から取り出した白いハンカチで、彼の額から流れる血を必死に押さえた。

「大丈夫ですよ、かすり傷です……」

 だが、すでにハンカチは染まり、彼女の手も、ドレスの裾も――真紅に濡れていく。


「ご自分の服が……」


「そんなの、どうでもいいの!」


 声が震える。だが、アリアの手は止まらなかった。

 白だったはずのドレスは、彼の血を吸って、深い紅へと変わっていく。


「どうして……どうして、庇ったの……」


 問う声に、セドリックは微かに笑った。


「……あなたを守るために、私はここにいる……それだけですよ」


 その言葉に、アリアの瞳が震える。

 彼女はその手を、彼の血のぬくもりと共に、ぎゅっと握りしめた。



 天幕の中、油の灯が静かに揺れていた。

 アリアの白いドレスは、すでに別の上着に着替えられていたが、袖口にはまだ赤黒い染みが残っている。


「……セドリック様の容体は?」


 彼女の問いに、グレイソンは静かに頷いた。


「命に別状はありません。右目の傷は深いが、失明は免れた。……運が良かったですね」


 言葉とは裏腹に、その表情には冷静な怒りの色があった。


「……あの男。やはり、ベラータ公は“こちらの出方”を見ていた。視察にあなたが来ると知った時点で、挑発に乗る可能性は高かった」


「……私が囮になった形ですね」


 アリアの声に自嘲の響きはなかった。

 彼女は、はっきりと前を見据えていた。


「でも、それでよかった。……民も、領主たちも見てくれた。ベラータ公がどれだけ私情で動く男か。少なくとも、正義の味方ではないってことを」


 グレイソンが僅かに目を細める。

 まるで別人のようなアリアの強さを、確認するように。


「……これからどうしますか?」


 アリアは一拍置き、息を吸った。


「私たちは、次の演説を準備する。……東方三領主、北のセヴィロス公、そして中立を保っていた諸侯たちにも協力を呼びかけます」


「それに、軍の再編も必要でしょう。黒の騎士団を含めた戦力配分。民の避難路の確保。そして、補給線の見直し」


「……それを、グレイソン様が計画してくださるのなら、私は……私の役目を果たします」


 グレイソンは静かに頷き、机の上に広げられた地図を指差した。


「ベラータ公の次の動きは早い。中央からの援軍を得る前に、ここで叩くしかない。……“決起”の時は近いですよ、アリア嬢」


 その言葉に、彼女もまた頷いた。


「ええ、覚悟はできています。……あの血が、無駄にならないためにも」


 そして、いよいよ反乱の火蓋は落とされる――。



 野営地・療養幕内


 アリアは小走りに天幕の布を押し上げた。夜風が入り込み、薬草と血の混じった匂いが鼻をつく。

 ――心配で、いてもたってもいられなかった。セドリックの容態が気になって。

 だが、足を止める。誰かの声が聞こえたからだ。


「……なぜアリア嬢を下げなかった?セドリック」


 低く押し殺した声。キースだった。

 天幕の隙間から覗くと、ベッドに腰かけたセドリックの右目は包帯で覆われている。だが、その姿勢は相変わらず品があり、毅然としていた。


「前に立ったのは、お嬢様ご自身の意志です。……むしろ、お嬢様は“あなたの隣”に立とうとしている。それを止められる者などいないでしょう」


(……知ってたんだ、セドリック)


 額に受けた深い傷、血で濡れた白い手袋の感触がまだ指先に残っている。あれほど冷静だった彼の顔が、苦悶に歪んでいたのが忘れられなかった。


「……お嬢様をこれ以上、戦火に近づけるべきではありません」

 低く、押し殺したような声。


 アリアは息を飲み、幕の端に身を寄せる。


「彼女は……“聖剣の乙女”である前に、ひとりの少女です。誰かを守りたいと願うその心は尊い。ですが、それが誰かの命を引き換えにするような形であってはならない」


 キースは椅子に腰かけたまま、視線だけをセドリックに向ける。その眼差しは、夜のように暗く、深い。


「……それとも、“護る”という言葉を、ただの言い訳にするつもりですか?」


 その言葉に、キースの口元がわずかに歪んだ。皮肉げな笑みを浮かべる。


「護ることは命令だ。だが、傍に置くかどうかは――俺の意思だ」


 キースの視線には、どこか熱を帯びた執念のようなものが宿っていた。


「俺は……あいつに背中を向けて生き残るつもりはない。たとえ傷ついても、血を流しても、アリア嬢は俺の隣に立とうとしている。だったら――その隣に、俺がいないわけにはいかない」


 セドリックは眉をひそめたまま、拳を握る。


「……そうして、また誰かが犠牲になることを、あの方は望まない」


 キースは目を閉じ、一息ついてから、低くつぶやいた。


「犠牲を避けるなら、最短で終わらせる。それしか道はない。……だから俺は、アリア嬢を隣に置く。利用するためじゃない。――勝ち抜くためだ」


 キースはいつも冷静で、時に非情ですらある人だった。

 けれどその心の奥底には、誰よりもまっすぐな“信じる強さ”がある。


 ――私は……信じられている。

 “ただの聖剣の乙女”ではなく、“アリア”として

 アリアは、息を呑んだ。。

 それは彼の内に秘めていたもの――責任感と、そして罪悪感。


 しばしの沈黙。

 風が天幕の端をふわりと揺らし、アリアの頬を撫でる。


 そしてそのまま、キースは天幕から出ていった。

 アリアは身を隠し、キースの背をただ見送った。



「盗み聞きとは感心しませんね、お嬢様」


 その声が、すぐ傍からした瞬間。

「ひゃっ……!」アリアはまるで弾かれたように肩を震わせた。


 薄暗い天幕の入口から、包帯を巻いた男がこちらを見ていた。

 ベッドにいたはずのセドリックが、静かに立ち上がり、白衣の前を整えている。


「ご、ごめんなさい……!」


「……いえ、気配を隠すのが下手なだけです。聞かれると困るようなことでもありませんでしたし」


 セドリックは、軽く肩をすくめて笑う。だが、その右目を覆う包帯は痛々しく、アリアはすぐさま顔を曇らせた。


「……眼鏡が割れて、目が見えないんじゃないかって……すごく心配したのに」


 その言葉に、彼はわずかに首を傾け、ベッド脇の机に手を伸ばした。そこには、レンズがひび割れた眼鏡と、綺麗にまとめられた数枚の報告資料が置かれている。


「ふふ……実のところ、裸眼の方が、資料はよく見えるのです」

「えっ……?」


「伊達じゃありませんが、あの眼鏡は“距離を置く”ためのものでした。感情を隠す盾としても、都合が良かったので」


 アリアは、その素顔のまま微笑む彼を見つめた。


「……じゃあ、今は、距離を置かないってこと?」


「そうですね。お嬢様の傍には、“真っ直ぐに見る目”で、仕えたいと考えていますから」


 その言葉が、アリアの胸にそっと届いた。

「ありがとう、セドリック。本当に、無事でよかった……貴方が傍に居てくれると心強いわ」


「ええ。おかげで、目は……まだ、お嬢様を見守れます」


 (……優しすぎるよ、セドリック)


 ほんの一瞬、アリアは何かを言おうとして、けれど言葉にならないまま微笑み返した。




 ――そしてその夜、アリアは自ら兵たちの前に立ち、静かに語りかける。


「私は、すべてを覚悟しました。もう誰かの後ろに隠れるのではなく、誰かの盾になる覚悟を」

 兵たちの目が、次第に彼女へと向けられていく。


「この戦いは、力を示すものではありません。“正義”が誰の手にあるのかを、証明する戦いです」


 静かだった場に、ゆっくりと拍手が起きる。


 そして夜明け。戦の幕は、静かに――だが確実に、上がろうとしていた。


 月が天頂に達する頃、軍本陣の奥では、キース、グレイソン、そして信頼の置ける小領主たちが密やかに集まっていた。


「……明朝、先遣隊を北丘陵に潜ませます。ベラータ軍が本隊を西へ展開した場合、こちらから背面を衝ける」


 地図の上を指でなぞりながら、グレイソンが言う。その横ではキースが黙して聞いていた。


「問題は、ベラータ公がどのタイミングで“本気”になるかだ」


 グレイソンの視線が鋭くなる。


「焦りと怒りで動かすには、火種が必要だ。――アリア嬢の“視察”、そして明日行う“布告”……」


 キースが初めて口を開く。


「布告の場に奴を引きずり出せばいい。そうすれば、ここで終わらせられる」


「成功すれば、だがな。ベラータは老獪な獣だ。追い詰められた時ほど危険になる」


 グレイソンが低く言い、キースと短く目を合わせる。


「だが、やるしかない。これ以上、引きずるわけにはいかない」




 一方その頃――


 ベラータ公は、燭台の炎の前で静かに報告を受けていた。眼光は鋭く、討つ気配をにじませている。


「……アリア嬢が、再び民衆の前に立つと?」


「はっ。あの女は“演説”という形で、貴族たちへの呼びかけを……それに、民の支持も強まっております」


「……ならば、丁度いい」


 ベラータ公は唇の端をつり上げ、低く笑った。


「すべてを、終わらせる。今度こそ、口を閉じさせてやる。聖剣の乙女? 国王の寵愛? その首ごと、土に埋めてやるわ」


 静かに剣の鞘に手をかける。


「出陣の準備を。――“反逆者”としての覚悟は、とうに出来ている」


それは、もはや隠す必要もない、堂々たる宣言だった。


側近たちは一瞬息を呑む。だが、次の瞬間には静かにうなずき、即座に動き出す。馬の用意、伝令の派遣、軍備の点検――すべては手順通り。この時のために、ベラータは裏で長く準備を整えてきた。


彼の目は冷たく、鋭く遠くを見据えている。その先にいるのは、聖剣を掲げた少女、そして彼女を支える者たち。ベラータにとって、それはただの「障害」でしかない。


「踏みにじられた誇りは、血で贖わせる。正義だと? 民意だと? そんなもの、剣の前では無力だ」


彼が動き出す時、内乱は本格的に火を吹く。


 そして夜が明ける。


 アリアは軍の帳の前に立ち、ゆっくりと外套を羽織った。手には、再び抱きしめた聖剣。傍には、彼女の意志を支えるセドリックと、共に歩むと決めたキース。


 運命の一日が――始まる

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