銀の花、光に咲く
古城内・奥の会議室――灯りの落ちた密会の場
ベラータ派の貴族たちが一堂に集う会議室。
だがその空気は、以前のような余裕とは程遠い。
古びたシャンデリアが揺れ、蝋燭の明かりが壁の金細工を鈍く照らす。
かつては華やかだったこの一室も、今は閉ざされた陰謀の舞台。
重たい扉の内側で、男たちが声を潜めていた。
――小領主たち。
そしてその中央、厳めしい顔で腕を組む老貴族、セヴィロス公。
彼の周囲には、ベラータ派の名のもとに集った貴族たちが顔をそろえている。
だがその表情には、往年の傲慢な光はなかった。
先日、腹心の死体が発見されたという報が流れ、彼らの心に黒い影を落としていた。
震える声だった。鉄のような男が、報告官の書状を握り潰しながら、唇を噛みしめていた。
「遺体は、確かにレオルド公子のものと……?」
誰かが口を開いた。掠れた声が会議室に落ちる。
「間違いありません。廃村で、先ほど正式な報が届きました。遺体は酷く損壊されており、歯形と装飾品での確認だと……」
「信じられん……! 誰が……何のために……ッ!」
拳を打ちつける音が響く。
その空気を裂いたのは、たった一人の冷静な動きだった。――グレイソン。
その沈黙を破ったのは――会議の末席にいた、一人の男だった。
「ご冥福をお祈りいたします、セヴィロス公。……息子を失う悲しみ、お察ししますよ」
そう言って、淡々と書類を閉じたのはグレイソンだった。
「貴様……!」
セヴィロス公が立ち上がる。
その拳は机を叩き割らんばかりの力で震えていた。
「……だが、戦において犠牲は避けられぬもの。ましてや、ここに至るまでに“何をしたか”を考えれば……報いと言えるかもしれませんね?」
グレイソンの目が細められる。
その言葉の裏にあるものを、セヴィロス公は痛いほど理解していた。
――息子の死因、それはただの死ではない。
何者かに“処理された”可能性が高いことを、この男は知っている。
「……脅しか?」
「とんでもない。ただの“提案”です。ベラータ公の強硬策に乗るよりも、“未来ある者”の手を取った方が、結果的には――得策かと」
静かに、彼は分厚い封筒を取り出し、机の上に並べ始めた。
数枚の地図。収支報告書。人員配置図。
次いで、領内の密貿易ルートを記した文書までもが、沈黙の中で晒されていく。
「……貴族とは、土地を治める者でありながら、土地を“売る”者ではないと私は思います」
その言葉に、場がぴたりと静まった。
「今ここに集う皆様のうち、すでにいくつかの方の“関与”は証明されつつあります。ですが……それを公にはしておりません。なぜなら、我々の目的は“裁き”ではなく“未来”にあるからです」
「……貴様、我々を脅すつもりか」
セヴィロス公の低い声に、グレイソンは一瞬の間を置いてから、静かに笑った。
「いいえ。私は“選択”の機会を差し上げているだけです。……次の会議で、“乙女陣営”の賛同が過半を超えれば、領内税制と軍備再編が実行に移される」
「その前に、皆様がどちらに“未来”を見ているのか……それを伺いたい」
周囲の貴族たちが一斉に言葉を失う。
空気が一瞬、凍りついた。
「ご心配なく。関係者の方々が失われたのは痛ましいことです。しかし、この機に制度の見直しを行うのも有益でしょう」
その目には、レオルドの死がもたらしたと、己の立場を計る狡猾さが入り混じっていた。
「制度の見直し……?」
グレイソンの手は止まらない。
「通行税の見直しと、傭兵排除による領民徴兵の廃止。
それを阻む理由が、“貴族の利益”以外にありますか?」
深い沈黙。
キースが壁に背を預けながら、その様子を冷めた目で見ていた。
「……動いたな」
訝しげな貴族の一人に、グレイソンは微笑を浮かべる。
「たとえば、“通行税の調整権”の件――本来、議会の合意に基づいて運用されるべきですが、曖昧な領主判断が横行しているのが現状です。だからこそ、明文化し、会議体制を整えるべきだと私は思います」
「……つまり、我々にも“正式な席”をよこせ、と?」
「いえ――」
静かに、グレイソンが口を開いた。
「すでに皆さまには“影響力”があります。今さら新たに築く必要などありません。
あとは、それを形にするだけです」
書類を一枚、机の中心に押し出す。
そこには各貴族の支配地における影響圏、徴税ルート、市場の構造が詳細にまとめられていた。
「この通り、通行税の見直しにより、市場への流通は一時的に混乱します。ですが……逆に言えば、今“舵”を取った者が、その後の流通を制することになる」
グレイソンは穏やかに言葉を継ぐ。
「つまり、“先に賛同した者”が、新たな秩序の中心に立てる、ということです。
後からでは、調整役にもなれません。上位には立てない」
ざわめきが走る。
「そして……」
グレイソンは立ち上がり、セヴィロス公の背後をゆっくりと通り過ぎながら、最後に言った。
「レオルド公子の死。あれが何を意味するのか。
皆さまが“血の犠牲”を払ったというのなら――」
グレイソンの瞳が鋭く光る。
「その犠牲を、無駄だったと思わせないためにも。今、皆さまが“立ち上がる”べきではないでしょうか」
息を呑むような沈黙が続いた。
セヴィロス公が、ゆっくりと拳を握る。
「……裏切れというのか、グレイソン殿。……ベラータ公に背を向けろと」
グレイソンは、それには答えず、ただ一枚の書類を差し出す。
「こちらに署名いただければ、会議当日の席次と議案提出権をお約束いたします。
それ以上のことは、我々が――“乙女の側近”として背負いますので」
キースが壁際で、静かに目を細めた。
彼は思った。
――こいつは、味方でさえ震えさせる男だな、と。
机上に差し出された書類。
セヴィロス公の指が、震えながらも、その紙へと伸びていく。
会議後――
グレイソンは一人書類を束ねながら、呟いた。
「ありがとう、キース。君の“見せしめ”で、強硬派は恐怖に沈み、私は“理”を差し出すだけで手を取り始めた」
背後から、キースが静かに現れる。
「……利用したな、俺を」
「君は剣、私は策。役割が違うだけだよ。だが、これで“貴族派”は二つに割れる」
「で?」
「そして“王命に近い乙女派”が中立を装いながら、政治の天秤を支配する――次は、ベラータ公自身だ。彼を動かせば、舞台は整う」
あの裏門を見てから、アリアは眠れぬ夜を過ごしていた。
彼女は何度も目を閉じて、そして何度も夢の中で泣いた。
遠くの方で、誰かの悲鳴が聞こえるような気がして、朝日が昇っても心は晴れなかった。
ベッドの上、薄い毛布にくるまっても、頭から離れないのはキースの言葉。
『お前が笑っている裏で、誰かが死んでいる』
それが現実――
守られている自分が、他の誰かの犠牲の上に立っている。
昨夜の涙と、あの言葉――『泣くくらいなら俺の後ろにいろ』
その意味が、少しずつ心に染みていく。
「……知らなきゃ、よかったのかな」
ぽつりと呟く。
だが、知らなければ、あの赤茶の痕跡に目を伏せたまま、平和だけを信じていた。
翌朝、食事をとる気にもなれず、アリアは中庭のベンチに腰を下ろしていた。
その背後に、そっと現れたのはセドリックだった。
「……お嬢様、昨夜は、眠れましたか?」
驚いて振り向くと、そこには、控えめに扉の傍に立つセドリックの姿があった。
いつものように丁寧な礼装を崩さぬまま、しかしその表情はどこか柔らかい。
「……あまり、眠れなかったの。夢を見て……声が、聞こえた気がして……」
アリアの声が震える。
セドリックは静かに歩み寄ると、彼女の前に片膝をついて言った。
「――それは、罪ではありません。
お嬢様が知らなかったのは、誰かが“隠したかった”から。
そして、知ってしまったこともまた、お嬢様が誰かを“想っている”証です」
「セドリックは知っていたんですね……キース様達が何をしていたか……」
「……はい、あの裏門には、兵の指示で誰も近づかせないようにしていました。あなたを、あそこには――」
「行かせたくなかった……。……うん、わかるよ。怖かった。でもね……」
アリアは振り返り、セドリックを見た。
「目を背けたまま、『私は清らかな乙女です』って顔してるのが……少し、恥ずかしくなったの」
「お嬢様……」
「私には、戦う力も、誰かを裁く力もない。でも、知らないままではいたくないの。キース様が、何を背負ってるのか、少しでも……知っていたい」
小さな声だけれど、確かな決意。
セドリックは目を伏せて、微笑んだ。
「……立派になられましたね、お嬢様」
「えっ、なにそれ。子供扱い?」
「いえ。あなたは、もう“守られるだけの乙女”ではない。私たちが守ってきたのは、その心だったのかもしれません」
そう言って、セドリックはアリアの前にひざまずいた。
「どうか、あなたの信じる道を。私はそれに従いましょう」
その姿に、アリアはそっと手を差し伸べた。
「……ありがとう、セドリック。少しだけ……少しだけ、心が軽くなった気がする」
「それは何よりでございます、お嬢様」
二人の間に、ゆっくりと静寂が戻る。
夜が明ける少し前、静けさの残る部屋の中で、アリアはゆっくりと目を覚ました。
――セドリックと交わした言葉が、胸の中に残っていた。
まだ眠い目をこすりながら、ふと、机の引き出しを開ける。そこには、ずっと大切にしまっていた手紙がある。
それは、この辺境地に向かう直前、キースから受け取った一通の手紙だった。
『”――明日、迎えに行く。
俺の隣に来い。
キース・アークレイン伯爵”』
「……そうだった」
読み返すたびに、胸が苦しくなるほど嬉しくて、けれどどこか、怖かった。
隣に立つということは、後ろに隠れているのとは違う。責任が生まれ、覚悟が問われる。
『泣くくらいなら、俺の後ろにいろ』
その言葉がアリアの胸に刺さる――
「違う……私は、キース様の“後ろ”じゃない。……“隣”に立ちたいんだわ」
その想いが、アリアの中で確かな決意に変わる。
窓の外には朝焼けが差し始め、まだ淡い光が部屋の中を静かに染めていく。
アリアは迷うように、机の奥に置かれた長い箱の前に膝をついた。
ゆっくりと蓋を開ける――そこには、国王陛下より賜った聖剣が静かに眠っていた。
「……」
細い指で、そっと柄に触れる。
冷たい金属の感触が、今の自分の心と不思議と重なるようで――
アリアは静かに、その剣を胸に抱きしめた。
「……強くなりたい……」
押し殺すような声だった。
けれどその言葉には、確かな覚悟が宿っていた。
目を伏せながら、小さく息を吸い込む。
そして――
「聖剣の矛先は、自分で選ぶんでしょ……」
それは、誰かの命令に従って振るう剣ではなく、誰かの後ろで震えているだけの剣でもない。
アリアは、自分に言い聞かせるように繰り返した。
夜明けの空は、雲ひとつない清廉な蒼を湛えていた。
遠くの鳥のさえずりが、微かに聞こえる。
アリアは窓辺でそっとその音に耳を傾けていた。
眠れなかったはずなのに、不思議と身体は軽かった。
昨夜のセドリックの言葉が、まだ胸に温かく残っていたからかもしれない。
「……私は、立ち止まってるわけにはいかない」
早朝。空はまだ薄明かりに包まれ、屋敷内は静寂に満ちていた。
だが執務棟の一室では、すでに緊張感の漂う声が飛び交っている。
「――物資の再配分は東部領から優先すべきかと」
「それでは北の補給線が保たん!」
軍政会議。キースを中心に、グレイソン、各地の将官たちが一堂に会し、国境線の再編と軍備の再配置について議論を交わしていた。
その扉の前、アリアはまっすぐに立っていた。
背後には困ったような顔のセドリック。
「お嬢様……このような場に出るのは、少しお待ちになっては」
「セドリック、私は“聖剣の乙女”です。国の争いに目を背けて、何が務まるというの?」
静かながら、はっきりとした意志のこもった声。
いつもの柔らかさとは違う、強さがあった。
セドリックは言葉を詰まらせ、やがて諦めたようにため息をついた。
「……では、お供いたします。何があっても、私が守りますから」
「ありがとう、セドリック」
アリアは小さく微笑んだ。
いつものように、緊張と利害の駆け引きが渦巻く空気。
ふいに扉が開いた。
「……聖剣の乙女が、入室されます」
セドリックの宣言に、場がざわついた。
重々しい扉が開かれ、光の筋の中から一人の少女が姿を現した。
その瞬間、会議の場にいた者たちの視線が一斉に集まる。
天幕のような緊張感に包まれた空間――そこへ、
白の上衣に身を包み、腰には国王から授かった聖剣を携え、揺るがぬ瞳で室内を見渡す。
現れたのは、他でもないアリアだった。
「失礼いたします。皆様の会議の時間を少しだけ、私にください」
「これは軍政の場だぞ」
「“聖剣の乙女”として、今のこの国の状況を知りたいと思いました。……どうか、私にも席をください」
ざわ…と空気が乱れた。
「な、なぜ乙女殿が……?」
「そもそも女性を同席させる場では……!」
小領主たちが一斉に声を上げる。ざわめきは次第に怒気と戸惑いを帯び、会議室を満たしていく。
だが、その中でキースは静かに座ったまま口元を歪めた。
「黙れ」
低く、鋭いその一言で、場の空気が一瞬にして凍りついた。
「……アリア嬢が来る場所じゃない。ここは血の臭いがするぞ」
アリアは一歩も退かなかった。
「知っています。だから、来ました」
ざわ……と小領主たちが顔を見合わせる。彼らの中には、未だ聖剣の乙女を「飾り」としか見ていない者も多い。
「無意味だ」と、誰かが低く呟く。
その声に、グレイソンが立ち上がる。
「彼女の意思を侮るな。我々の未来に関わる象徴だ」
そのひと言で場の空気が変わった。
アリアは、ふとキースに目を向ける。
キースはほんの一瞬だけ眉を上げ――次の瞬間には、いつもの皮肉めいた笑みを浮かべていた。
「……席は用意してないが、膝でも貸してやろうか?」
「結構です。立ったままで」
「ふっ……そうか」
キースは席に腰かけたまま、視線だけを向ける。
その黒曜石の瞳が、一瞬だけ細められた。
キースが口元を少しだけ歪め、頷く。
「――好きに話せ。ここは、貴様の土地でもある」
「ありがとうございます、キース様」
アリアはしっかりと前を見据え、臆することなく一歩、会議の輪の中へと入っていく。
彼女の足音が、硬く冷たい石床に響いた。
「私がここにいるのは、あなたたちに見てほしいからです」
「この剣が、ただの飾りではなく、この国の“未来”と共にあるということを」
重ねて静かに、しかし確かな声で告げるその言葉に、グレイソンが目を細めて微笑した。
「……見せ場を奪われましたな、キース」
「ふん。どんな“剣”も、抜かねばその切れ味はわからんさ」
キースはアリアを見据えたまま。
アリアが、聖剣をそっと腰に収めたまま、ゆっくりと会議卓の中央に立った――。
会議は再開された。
アリアは黙って聞いていた。どれだけ冷たいやり取りが続こうとも、一つ一つを真剣に受け止める。
時に、目を伏せる。
時に、眉をひそめる。
だが、それでも立ち続けた。
そして最後、アリアはふと一言、口を開いた。
「誰も、傷つかない方法なんて……ないんですね」
それは、幼さを脱ぎ捨てた声音だった。
キースはわずかに目を細め、誰にも聞こえぬように呟く。
「……いい目をしてる」
小声でざわつく中、アリアは一歩一歩、真っ直ぐに進んだ。
その顔には、覚悟の色があった。
小柄なその体から放たれる声は、澄んで、静かで、だが確かに響いた。
重たく交わされる言葉の応酬の中、アリアは息を潜めて耳を傾けていた。
地図上の線の一本一本が、命と直結している。
現実――これが、戦の最前線。
「……以上が北方防衛の現状だ。物資不足と兵の疲弊が深刻だ」
将官のひとりが報告を終えると、キースが静かにアリアへ視線を送る。
「……アリア嬢。お前はどう思う」
「……!」
急に名を呼ばれ、背筋が伸びる。
だが、アリアの瞳には怯えの色はなかった。
「……私は、まず民の意志を聞くべきだと思います」
「民の意志、か?」
グレイソンが片眉を上げた。
「北方の人々が本当に何を求めているのか。兵を送って守ってほしいのか、それとも――一時的にでも、避難を望んでいるのか。それを無視した軍の移動は、民の心を離れさせる危険があると思います」
会議室に静寂が落ちた。
アリアの声は決して大きくなかった。
けれど、その一言は確かに“場”に届いた。
「……それは、情に偏った意見ではないか?」
将官の一人がそう言いかけた瞬間、キースが静かに口を開いた。
「偏ってるかどうかを決めるのは俺たちじゃない。民だ。……だが、アリア嬢の意見は正しい。誰のために国を守るのか――忘れた時点で、俺たちはただの暴力だ」
グレイソンが微笑む。
「素晴らしいですね。“聖剣の乙女”としてではなく、一人の目を持った者の意見だ」
アリアは少しだけ頬を染めた。
だがその胸には、確かなものが芽生えていた。
――私はここにいていい。
そして、誰かの命を守るために、この声を使いたい。
アリアは円卓の前に立ち、集まる男たちの目を正面から見つめた。
「私は、戦のない土地にしたい。
けれど、それを願うだけでは何も変わらないと知りました。
だから、お願いがあります」
「この土地に住む民が、安心して眠れるように。
互いに疑い合うのではなく、共に生きる道を、探してほしいのです」
一瞬の沈黙。
その中で、グレイソンが静かに目を細めた。
「……アリア嬢、戦を知らぬ理想主義かと思っていたが、少しは“覚悟”が見えるようになりましたね」
「覚悟は……これからもっと、持ちます。
でも、私は“誰も殺さない強さ”を信じたいんです」
ざわつく小領主たちの中、キースは椅子の背にもたれ、ふっと笑った。
「……なるほどな。お前の言葉に動くバカが、ひとりくらいいてもいい」
「キース様……」
「ただし、責任は取れよ。“乙女”だからって、守られてばかりじゃねぇんだ」
その言葉に、アリアは強く頷いた。
「はい。私、自分の言葉に責任を持ちます。
それが“聖剣の乙女”であるというのなら――私は、なります」
セドリックは黙って見守っていた。
彼女が、ただ守られる存在ではなくなったことに、静かに安堵しながら。
会議が終わり、アリアは一人、資料を持って地図の前に立っていた。
北方の村々、風の流れ、道の細さ、兵の配置。
そのすべてが命に繋がっている。
「お嬢様」
背後から声をかけたのは、セドリックだった。
「視察へ行かれるおつもりですか?」
「……はい。今、私にできるのは、現場の声を聞くことだと思います。怖がらないでと言っても、私がここで言葉を発しても、誰も信じない。なら、私はまず、信じてもらえるように動きたいんです」
セドリックは小さく息をついた。
「では、万全の警護をお約束します。……絶対に、ひとりでは動かないこと」
「……ありがとう、セドリック」
笑顔を向けたアリアの瞳には、どこか凛とした光があった。
その日の午後――。
アリアは小さな隊と共に、北の村へ向かった。
道中、野ざらしになった麦畑、ひび割れた井戸、民が黙って作業を続ける姿が目に映る。
「……ここは、かつては水も豊かで、収穫もあった場所だと聞きました」
馬車の中で、アリアが呟く。
「ええ。三年前の戦で、用水路が壊されてから……」
案内役の若い兵が答えた。
アリアは馬車を止めるように命じ、外へと降りた。
彼女の姿に、周囲の民が戸惑いながらも目を向ける。
「アリア・セレフィーヌです。聖剣の乙女として、今この地に立っています。……でも今日は、ひとりの人間として、あなたたちの声を聞きにきました」
最初は誰も口を開かなかった。
けれど、アリアがひとつひとつの顔をまっすぐ見つめていると、小さな子供がつぶやいた。
「ほんとに、守ってくれるの?」
アリアは膝をついて、その子の目線に合わせた。
「うん。必ず、守る。――あなたの明日を、わたしは守りたいの」
その言葉が、ゆっくりと空気を溶かし始めた。
一人、また一人と住民が声を上げる。
避難への不安、残る者たちの苦悩、家族を戦で失った痛み。
アリアは全てを、ただ、聞き続けた。
夕暮れ、アリアが戻る頃。
屋敷で報告を受けたキースとグレイソンは、静かに頷き合っていた。
「……民の心を動かしたか」
「ええ。“乙女”ではなく、“人”として動いた。まったく、あの子は……手強い」
キースは窓の外に目をやり、呟く。
「――だが、それでいい。民が信じるのは、聖剣じゃない。声を届けようとする者の背中だ」
そして、その背中に誰よりも近いのが、自分でありたいと――
彼の胸の奥に、静かな熱が宿るのだった。
夜――。
会議を終えたキースが、自室へ戻ると、そこにはアリアがいた。
蝋燭の炎に照らされたその顔は、どこか憔悴しているのに、目だけが真っすぐだった。
「……どうした、こんな時間に」
「話があるの」
キースは軽く眉を上げたが、黙ってアリアを招き入れる。
「処刑のこと……知ってしまった時……」
アリアはそう言って、正面からキースを見た。
「笑ってる裏で、誰かが死んでるって。あのとき、あなたが言った言葉……」
キースの声が、ひどく静かに響いた。
「……だから、お前は俺の後ろにいろ。前には、血が流れる。それをお前が見て、立ち止まるようなら――俺は、お前を守れなくなる」
「……っ!」
アリアは拳を握り締める。
「私は、何も知らないまま……“聖剣の乙女”として人々の前に立って、微笑んで……それで、誰かが救われているって思ってた」
「救われているだろう。それは事実だ」
「……でも、誰かの犠牲の上にあるなら、それはただの――」
言葉が詰まり、喉の奥で止まる。
キースが静かに言う。
「お前の理想が通じるなら、それに越したことはない。だが、俺がやってるのは現実だ。
正義は数じゃない。“結果”だけがすべてを裁く」
「……そんなの、わかってる。でも、私は……!」
アリアは肩を震わせながら、必死に言葉を探す。
「私は、ただ……誰かの“犠牲の上”に立つアリアでいたくないの。
たとえ全部を救えなくても、自分で見て、選んで、誰かを守れる人間でいたい……!」
キースの目が、わずかに細められる。
それは呆れでも怒りでもなく、静かな――承認のような眼差しだった。
キースは重々しい足取りで、アリアの前に立つ。
「理想だけじゃ、何も守れない。優しさだけじゃ、国は動かない。
お前がそれを知らないままなら――俺は、お前を前に出すことはできなかった」
「……私はキース様の……貴方の後ろじゃなく、“隣”に立ちたい」
その言葉に、キースの眉がわずかに動く。
「……隣に立つってことは、俺と同じものを見て、同じものを背負うってことだ」
アリアの目が見開かれる。
低く、重い声。
「その覚悟があるって……言うんだな?」
アリアは、迷いのない声で返した。
「はい。それでも、私はあなたの隣に立ちたいんです」
キースはふっと目を細め、背を向けた。
「だったら、その目は曇らせるな。必要なのは、涙じゃない。“責任を取る覚悟”だ」
キースの言葉は冷たいが、どこか温かさを孕んでいた。
「戦場で俺の隣に立て。
……その代わり、二度と俺の“背後”に回るな」
アリアはそっと唇を噛み――深く、息を吸った。
その瞬間から、アリアの“乙女”としての物語が――本当の意味で始まった。