勝者の微笑み
処刑場跡からの帰路――
アリアはその場を離れることができず、涙を流していた。
キースの背は、彼女の視界から遠ざかっていく。
「……だから、見せたくなかったんだ」
キースの低く抑えた声が、静かに響いた。
「泣くくらいなら、俺の後ろにいろ」
アリアは、拳を強く握りしめたまま、言葉を返せずにいた。
そんな二人のやり取りを、屋敷の石壁の陰でグレイソンは静かに聞いていた。
やがてキースがその場を離れ、屋敷の回廊へと足を向ける。
壁の影から出たグレイソンが、無言で立つ。
キースが彼の横を通り過ぎようとしたその瞬間、グレイソンが口を開いた。
「――だから見せたくなかった、か。……随分と優しいんだね、キース伯爵」
キースは立ち止まりもしない。ただ、歩を止めずに短く返す。
「優しさじゃない。足手まといが嫌いなだけだ」
「それでいて、決して手放さない。……聖剣の乙女、か」
その言葉に、キースはわずかに目を細めたが、何も言わずに背を向けたまま歩き続けた。
グレイソンはその背中を見送りながら、ふっと薄く笑みを浮かべた。
「君は……本当に真っ直ぐで、羨ましいよ……」
士官学校の若き日――
キースに初めてあったのは9歳の時。
士官学校の訓練場。若き貴族の子息たちが集められた特別課程。
その中で、一際目立つ黒髪の少年が、木剣を振るうたび風を切っていた。
「うわ、また一本……あの子、誰?」
「キース・アークレイン。あれで同い年なんだってさ。あの剣の速さ、反則だろ……」
木剣を携えた少年――キースは、黙々と相手を打ち倒し、つまらなそうに木剣を肩に担いだ。
「んー、退屈」
そんな彼の前に、初対面の少年が現れる。
「グレイソン・オルトリクスです。次の訓練でご一緒させていただきますね」
黒曜石のような瞳が、グレイソンの涼しげな顔を射抜いた。
「……なんだ、お坊ちゃんか。剣、握ったことあるのか?」
「一応、模擬戦のルールくらいは理解していますよ。僕は剣より、配置と指示が専門ですけど」
「……配置?指示?」
キースは眉をひそめた。
「まさか、この子供の遊びで参謀気取り?」
グレイソンは微笑みを崩さず、キースの隣に立った。
「子供の遊びだからこそ、頭を使った方が楽しいですよ。……では、始めましょうか」
試合開始の合図。周囲の少年たちが混ざり合って戦う混戦模擬戦。
その中で、グレイソンの声が静かに響く。
「そこの二人、左へ回り込んで。あなたはあの赤い子の後ろをとってください」
「は、はいっ!」
「えっ、なんでわかるの……?」
瞬く間に、グレイソンの指示が戦局を変えていった。
「動かないで。君は囮になるだけでいい。……彼が必ず君を狙う。――そこ!」
キースが振るった剣が、虚を突かれて空を切った。
「チッ……!」
気づけば、キース以外の全員が“グレイソンのチーム”として動かされていた。
まるで人の裏を読むことに特化した蛇みたいな男だと、そのとき思った。
(グレイソン。あの顔――涼しい顔して……何も焦ってない)
俺は、力で押し通すしかなかった。
「その顔ごとねじ伏せてやる」
そう思った瞬間、俺は真正面から彼の戦術に突っ込んでいった。
試合終了の笛
結果――もちろん、キースの完敗だった。
グレイソンは礼儀正しく一礼し、微笑む。
「ありがとうございました、アークレインさん。見事な剣技でした」
「……っ」
グレイソンと初めて組まされた戦術演習の日。
士官学校の石畳の広場に、冷たい風が吹いていた。
「君の部隊は強い。だが、強いものほど、隙を見せやすい」
涼しい顔でそう言ったグレイソン。
「……あの野郎、人の嫌なとこばっかついてくる」
キースは無言でグレイソンを睨んだ。
(なんか、ムカつく)
「なあ、お前さ」
「はい?」
「次も、俺の前に立つ気ある?」
「もちろん。僕は頭を使うのが役目ですから」
「ふーん……」
キースはくるりと背を向けて歩き出した。
「その涼し顔……いつか、焦らせてやる」
まるで人の裏を読むことに特化した蛇みたいな男だと、そのとき思った。
その日から、俺はこの男を認めつつも、絶対に背を預けないと心に決めた。
3年後……剣の模擬訓練
「行くぞ!」
キースの剣が放たれるたびに、グレイソンは一歩ずつ後退していく。
「……っ!」
まるで踊るように、無駄のない動きで受け流し、かわしていく。
「まだ本気を出さないのかよ……!」
キースが歯噛みした瞬間だった。
「出しているさ。ただ、勝ち方が違うだけだよ」
次の瞬間、キースの足が滑った。
いや、滑らされた。
訓練場の一部に、わずかに掘り返された土がある――演習前にグレイソンが仕込んでいた罠だ。
「戦術とはね、正々堂々の戦いだけじゃないんだ。『勝てる場』を作ることさ」
木刀の先が、キースの喉元にぴたりと突きつけられる。
観客の誰もが、剣技ではキースが上だったと理解していた。
だが、勝者はグレイソンだった。
「……お前の顔、ムカつくんだよ」
地面に倒れ込みながら、キースは空を睨んで毒づいた。
「光栄です」
それでもグレイソンは、にこりと笑うだけだった。
「褒めてねーよ!」
木刀を手にしたまま、キースは地面から起き上がり、額の汗をぬぐった。
まだ息が荒いのに、負けを認めたような笑みを浮かべて――
「お前、軍師にでもなるのか?」
苦笑まじりに言うと、ふと気づく。
「……そういえば、お前、名門貴族だったよな」
その言葉に、グレイソンは「えっ?」と目を瞬かせる。
まるで自分の出自など忘れていたかのように。
一拍置いて、目を伏せるようにして静かに言った。
「僕は……ならないよ。軍師にも、領主にも……なれないと思う」
「は?」
キースが思わず眉をひそめる。
「向いていないんだ。ただ、人を動かすのが得意なだけで……信じられないんだ、自分が何かを“導く”立場になるなんて」
キースはしばらく黙ってグレイソンを見ていた。
名門の出で、冷静で、勝ち方を知っている男――その仮面の奥に、こんな迷いを抱えていたとは。
「お前……やっぱりムカつくわ」
そう言ってキースは木刀を担ぎ上げ、訓練場をあとにする。
だが、背を向けたそのとき――
グレイソンは小さく呟いた。
「君みたいなまっすぐな奴が、いちばん羨ましいよ」
その声は、届いたかどうかさえわからなかった。
訓練場の空気がまだ熱を残している中、背中を向けかけたキースがふと振り返る。
「なあ、グレイソン」
不意に呼びかけられ、グレイソンが顔を上げた。
「次の試合――俺と組まないか?」
その言葉に、グレイソンの眉がわずかに動いた。
「……どういう風の吹き回し?」
「お前のやり方、気に食わねぇけど。勝てる相手じゃねぇのは分かった」
キースは真っ直ぐにグレイソンを見据える。
「だったら、お前と一緒に戦って、その“勝ち方”ってやつを見てみたくなったんだよ」
グレイソンはしばらく黙っていた。
考えているというより――迷っているように見えた。
「僕は……人に信じられるようなタイプじゃないよ」
「だからこそだ。俺が信じてやるよ。お前の顔がムカつくのは変わらねぇけどな」
ふっと、グレイソンの唇がわずかに緩む。
「……いいよ。組もう、キース」
差し出された手を、グレイソンが取る。
熱く、しっかりと、互いの掌が重なった。
(君のように真っ直ぐな男は、きっと“剣”として誰かを守れる。僕には、それができない……)
オルトリクス家の三男として生まれたことは、祝福でも呪いでもない。
ただ、それが「始まり」だった。
年の離れた兄が2人。
長兄は将軍候補。次兄は政務官として非の打ち所がない。
どちらも、家門の期待を一身に背負い、その重圧を楽しむように才を発揮していた。
……対して、僕は“余白”だった。
「三男でよかったね。気楽で」
そう笑ったのは、いつだったか家令の老人だ。
だが、気楽というのはきっと、表面だけを見た言葉なのだろう。
優秀な兄たちと、常に比べられる。
同じ家に生まれたのに、違う生き物のように扱われる。
それでも僕は、表情を崩さずに過ごした。
なぜなら――
……もし僕が、彼らよりも勝ってしまったら。
そのとき生まれるものは、誇りではなく、妬みと嫉妬と軋轢だ。
家を乱し、名門に傷をつけるのは、きっと“勝った”方ではなく“勝たせた”結果の方だ。
だから僕は、程々でいいと思っていた。
誰にも目立たず、誰にも嫌われず、ただ「そこそこに賢い三男」として存在する。
それが、僕なりの生存術だった。
――だけど。
士官学校で出会った、まっすぐで愚直なキースが、そんな僕のバランスを壊してきた。
キース。
君のような人間が、この世界で本当に生き残れるなら。
……僕は、何かを変えられるだろうか。
僕が兄たちの上に立つことはない――そう思っていた。
というより、そう“決めていた”のかもしれない。
家の力学は単純だ。
上の者が道を作り、下の者はその裾を整える。
優秀な兄が二人もいれば、僕の役目はおのずと限られる。
そうやってバランスを取ってきた家が、今さら三男に何かを望むはずもない。
……それで、よかった。
平穏でいられるなら、それが最善だった。
幼い頃、ふと耳にした話がある。
「皆既日食の日に生まれた子がいるらしい」
「聖剣の乙女だと……」
そんな噂めいた言葉が、女中たちの間で囁かれていた。
滑稽だと思った。
太陽が隠れたほんの数分――その“偶然”だけで、何かが決まるだなんて。
天文学的な現象が、誰かの運命を左右すると?
そんなのは物語の中だけでいい。
力も、地位も、才能も、結局は人が積み上げるものだ。
「特別」なんて言葉は、後から誰かが貼る飾りにすぎない。
……そう、思っていた。
だけど――
その「皆既日食に生まれた子」が、もし本当にこの世界に存在するとしたら。
僕は、冷ややかな笑みを浮かべながらも、
心のどこかでざわついていた。
「奇跡」なんて、信じてはいない。
だが、壊される前提で築いた平穏は、
案外もろく、脆いものなのかもしれない――と。
聖剣の乙女――そんな名を持つ令嬢に会った。
彼女と会うのは初めてではない。
幼い頃、一度だけどこかの屋敷で顔を合わせた記憶がある。
だがあれはほんの一瞬のことで、名前も、声も、今ではほとんど霞んでしまっている。
それから十年以上、聖剣の乙女という存在は噂にさえのぼらなかった。
人々の口の端にのぼるのは、政争や戦乱の話ばかり。
あの伝承は、やはり迷信に過ぎなかったのだろうと、僕も思っていた。
だが、いま目の前にいる彼女が、その「奇跡」とされる存在だという。
信じがたい話だ。
彼女は無垢で、柔らかく、どこにでもいそうな若い令嬢だった。
にこにこと楽しそうに笑い、緊張などという言葉を知らないように振る舞う。
――本当に、この子が?
確信はない。
けれど、僕の理性とは裏腹に、心の奥に小さな波が立った。
ただの令嬢なら、こうは思わなかったはずだ。
彼女の瞳の奥に、確かに――何かがある。
それが「運命」と呼ばれるものなのか、
それとも、僕自身がただ、彼女に惹かれているだけなのか。
なぜ、聖剣の乙女と名乗らないのか……。
まだ、わからない。
だが――
もう少し、近くで見ていたいと、そんな風に思ってしまった自分がいた。
ある日、書斎の机に置かれた封蝋付きの書類。
それを見た瞬間、グレイソンは深いため息をついた。
「……キース伯領、お前ってやつは」
書面は簡潔だったが、重みは並ではない。
“王命”――この二文字が、断るという選択肢を奪っていた。
内容は、辺境伯領の統治不全による混乱を抑えるための「同行任務」。
だが実質は、腐敗した領主たちの一掃、すなわち“粛清”に等しい。
表向きは掃除。だが裏を返せば、戦場になる可能性すらある。
その地に人は住んでいる。誰かの父であり、誰かの子である者たちが。
力だけで踏み込めば、恐怖は支配になる。
支配は怨嗟を生み、怨嗟はやがて刃となってこちらを襲う。
……そんなことは歴史が何度も証明してきた。
「無茶を言うな……キース」
思わず呟く。だが、同時に分かってもいた。
キースは無茶をする男ではない。
力で押すように見えて、いつもギリギリのラインを見極めている。
「……僕を“同行”に選んだ時点で、全て計算済みということか」
彼は知っているのだ。
グレイソンが、力ではなく理で戦うことを。
そして、誰よりも冷静に“人の間”を読めることを。
だからこそ選んだ。
この“汚れ仕事”を、任せられる相手として。
グレイソンは椅子にもたれ、窓の外を見上げた。
空は鈍い灰色。嵐の前の静けさのような空だった。
重厚な扉が開き、広間の奥、王の側近が一歩前に出て言った。
「オルトリクス侯爵家、グレイソン・オルトリクス殿、入室をお許しします」
グレイソンは一礼し、静かに歩みを進めた。
その姿は端正で整い、無駄のない所作。
そして、広間の中央――王の玉座よりもわずかに低い場所に、ひときわ異質な存在がいた。
黒衣の騎士。
その瞳が、光を浴びて赤く染まる。
「……待ってたぜ、グレイソン」
その声に、グレイソンはほんのわずかに視線を上げた。
そして、静かに一礼する。
「アークレイン伯爵」
「またその顔かよ。昔っから、涼しい面構えだ」
キースがニヤリと笑う。
「本題に入りましょう」
王の側近が一歩前へ出る。
「隣国との軍事的緊張が高まっており、王は貴殿の戦略的助力を求めておられる」
だが――
「申し訳ありません」
グレイソンは、静かに、しかしはっきりと告げた。
「私は騎士ではなく、領主でもない。王命といえど、軍に直接関わる立場にありません。この件に関しては、お力にはなれないと思います」
一瞬、空気が凍る。
だが、キースがその静寂を砕いた。
「……そっか。じゃあ――勝負しようぜ、グレイソン」
「勝負?」
「俺と一手、交えてくれ。もし俺が勝ったら……お前は王命を受けて同行する。お前が勝ったら、今回の件は諦める。どうだ?」
「……ここで、ですか?」
玉座の間には静寂が満ちていた。
キースとの“策比べ”の約束が成立し、場に緊張感が走る中、グレイソンが一歩前に出る。
「場所は問わねえ。剣でも策でも、賭けでも。お前が選べ」
グレイソンはわずかに目を伏せる。
沈黙の後、薄く笑った。
「では……少々、騎士をお借りしてもよろしいでしょうか?」
国王が片眉を上げる。
「騎士を、だと?」
「はい。模擬訓練という形で、数名だけで構いません。必要なのは、“情報”と“配置”。策を立てるには、動かせる駒が必要ですから」
「ほぉ……なかなか面白いことを言う」
王の口元がわずかに緩む。
「誰を借りるつもりだ?」
「できれば、アークレイン伯爵配下の騎士を数名」
その瞬間、キースの表情が変わった。
「おい……俺の部下をお前の策に使うってのか?」
「ええ。模擬訓練です。実戦ではありません。彼らを動かすことで、あなたの手札を“借りた上で打ち破る”。それが、私の策です」
静かに、そして確信に満ちた口調。
「……へぇ。言ってくれるじゃねえか」
キースが立ち上がり、黒衣を翻す。
「いいだろう。部下は貸してやる。ただし――」
「?」
「“焦らせる”ってのは、こういうところから始まるんだろ?」
「……ならば、遠慮なく利用させていただきます」
二人の間に、火花のような駆け引きが交錯する。
王は満足げに頷き、命を下す。
「良かろう。模擬訓練の名目で、騎士十名を貸与する。勝負の場に相応しい舞台を整えよ」
「感謝いたします、陛下」
グレイソンは深く一礼し、その背後でキースが呟いた。
「……俺の駒で、俺を詰める気かよ。面白れぇじゃねえか」
側近が慌てて動く中、二人は視線だけで言葉を交わす。
(なら……受けてやるさ、黒の騎士)
にやりと笑う。
それは、士官学校時代のように挑戦を受けて立つ少年の顔だった。
早朝、模擬訓練場は霧に包まれていた。
平地に建てられた陣営を囲むように、遠くで焚かれる焚火の明かりが、まるで幽霊のように揺らめいている。
黒の騎士団本陣。キース・アークレインは地図を睨みつけていた。
「……奇妙だな。偵察の報告が一つも戻らない」
「はい、三組すべてが……連絡を絶っています」
「まるで“消えた”みたいに、か?」
キースの瞳が赤く染まった。
彼の勘が告げていた。この静寂は、嵐の前触れだ。
「全軍、三方に散開。突発的な奇襲に備えろ。斥候を倍に増やせ」
その時、兵の一人が駆け込んできた。
「き、来ました!後方の林に……!」
「正面じゃないのか?」
「はい、後方、そして左翼にも……っ!」
キースは立ち上がった。
「三方向……包囲だと?」
地図に手を伸ばし、瞬時に状況を把握する。
だが、気づいた時にはすでに遅かった。
キースの部下たちは驚愕し、反射的に防御態勢を取る。
だが、どの部隊も決して多くはない。にもかかわらず、その動きは的確で連携が取れていた。
「数じゃない。連携と配置で、ここまでやるのか……!」
キースが奥歯を噛む、目の前にグレイソンが立っていた。
「まさかお前、最初から俺たちの布陣を読んでたな?」
「ええ。あなたの性格なら正面突破に来ると踏んでいました。真正面に強者が来ると安心する……そういう習性、ありますよね?」
「チッ……!」
キースは剣を抜き、南の弓兵へ突進する。
「まずは一角を崩す!」
だがその瞬間、足元の地面がわずかに沈んだ。
「――伏せろッ!!」
間一髪で身をかわすと、爆音とともに仕掛けられた煙罠が起動し、視界が一気に白く染まる。
「この……!」
煙の中、キースの耳元にささやくような声が届く。
「あなたの読みは鋭い。でも、私の一手は、常にその先です」
「……っ!」
「降参とは言いません。ただ、少し冷静になっていただければ」
煙が晴れると、キースは完全に包囲されていた。
部下たちは制圧され、グレイソンの兵がぴたりと距離を取りながら彼に剣を向けている。
そして、その中央――手を後ろに組み、微笑を浮かべたまま、グレイソンが立っていた。
「……負けたよ」
灰色に見える深い青の瞳、冷静な笑み。
昔と変わらぬ、あの“涼し顔”がそこにあった。
「あなたの軍は強い。真正面からぶつかれば、こちらが潰される。だから、戦場そのものを“誤解”させてもらいました」
「……兵の消失、全方位の錯乱……」
「すべて、あなたの『勝ちパターン』を封じるための布石です。気づかれぬよう、静かに仕込みました」
キースは歯を食いしばる。
「この俺を、策略で縛る気か」
「あなたは、力で敵を屈服させる。その強さを僕は知っています。……だからこそ、僕は“力で勝つ”ことを放棄した」
グレイソンが手を上げると、霧の中から無数の矢が、包囲する形で放たれた。
キースは剣を地面に突き立て、息を吐いた。
「まさかここまでとはな……本気で、お前に焦らされた気分だ」
「では、約束通り」
沈黙。
キースは剣に手をかけたが、すぐにそれを下ろした。
「……やられたよ。まったく、面白くねえな」
そして、かすかに笑った。
「やっぱり、お前の涼し顔……いつか焦らせてやらなきゃ、気が済まねえ」
遠く、訓練場の外の丘の上に、王国の王――国王が立っているのが見えた。
国王は楽しげに微笑み、両手を広げて言った。
「面白いものを見せてもらった、グレイソン・オルトリクス……」
夜。
書類を整理し終えたグレイソンは、蝋燭の灯りの中、ふとペンを置いた。
静かな空間に微かに響くのは、庭で鳴く虫の声と、彼の心の鼓動。
そのとき、ふと思い浮かんだのは、アリアの笑顔だった。
──無垢で、真っ直ぐで、どこか儚げなのに、強い光を宿した瞳。
「あの子は、本当に“聖剣の乙女”なのか……?」
そう何度も問いながら、けれど答えはいつも同じだった。
“乙女”かどうかではなく、“アリア”という存在が、今の彼にとって特別になり始めていた。
「アリア嬢、君と居たら──」
自然と声に出ていた。
「……きっとこの、つまらない、息詰まった日々を……救ってくれるのかな?」
誰に聞かせるでもなく、ただ心から漏れ出た独り言。
言葉にした瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなる。
アリアと過ごす時間は、確かにグレイソンにとって息抜きだった。
名門貴族の重圧も、冷たい兄たちの目も、打算に満ちた政界も──
あの笑顔の前では色を失っていた。
だがそれは、ただの癒しではない。
彼女の前では、自分が「演じる必要のない」自分でいられる。
グレイソンはゆっくりと立ち上がり、窓の外を見つめる。
遠くで、辺境の風が荒野を駆け抜けていく音がした。