静かな誘い、審判の剣
風が草原を撫で、陽光が小道に影を落とす。
貴女は小さな馬車の窓から、遠ざかる城館を見つめていた。
「わぁ……!」
アリアは馬車の窓から顔を出して、小さな村の風景を見渡していた。
畑には麦が実り、子供たちが手を振っている。
セヴィロス領内、第二視察地――そこは、かつて戦の被害を受けた集落。
復興の途中でありながら、民の暮らしはたしかに息づいている。表向きは穏やかで、民も歓待していた。
「本当に、良いところですね」
アリアの声に、傍らのセドリックは微笑を浮かべた。
「ええ……見かけ上は」
「え?」
「いえ。お嬢様は、どうかお気をつけて。何か不審な点があれば、すぐにお知らせください」
彼の声には張り詰めた糸のような緊張があった。
アリアはそんな彼をじっと見て、少し困ったように笑った。
「セドリックって、最近お兄さんみたいです」
「私としては父親のつもりなのですが」
「えっ、そこまで……!」
思わず声を上げたアリアに、セドリックは肩をすくめて微笑んだ。
「本日は警護も多く、念のためルートも変更されています。お気をつけください」
馬車を降りたアリアを迎えたのは、まばゆい笑顔と、泥にまみれた子どもたちの歓声だった。
「アリアさまだ!ほんとうに来てくれた!」
「あたしたちの畑、見に来て!」
戸惑いながらも、アリアは一人ひとりに笑顔を返し、握られた手の温もりに胸が熱くなる。
――この人たちは、私に期待している。
逃げたいと思った過去が、心をよぎる。
けれど。
「もう、逃げない。誰かのせいにもしない」
小さく、貴女はつぶやく。聞こえるはずもないのに、子どもたちは笑ってうなずいた。
その後ろで、セドリックがぽつり。
「……まったく。成長したもんですね、お嬢様。泣き虫だったのが嘘みたいです」
「セドリック、聞こえてますよ!」
その声が、風に溶けていった。
村の広場に出迎えていた男、セヴィロス公の次男・レオルドはその様子を冷めた目で見つめていた。
(聖剣の乙女、か……。あんな小娘一人で、この土地の秩序を語るとはな)
「お嬢様。レオルド公子が視察に“ご協力いただける”そうです」
柔らかな口調で告げたのは、グレイソンだった。
だがその瞳の奥には、油断も同情もない。
アリアが振り返ると、馬上にあったのは若い男だった。
浅く笑った唇、見下ろすような視線。装いは立派だが、態度は粗雑だ。
「ほう、これが“聖剣の乙女”様か。ふむ、思っていたよりは……柔らかそうだな」
「……あなたが、セヴィロス公のご子息?」
「次男、レオルドだ。兄上はこういう汚れ仕事は好まないのでな」
ふてぶてしい態度のまま、レオルドは馬から降りもせず、アリアを見下ろすように言った。
「……ふん、民の暮らしを“見て”どうする? 土をいじって、泥まみれになりたいのか?」
アリアは視線を逸らさなかった。怒るでも、怯むでもなく、ただまっすぐに。
「民の暮らしを知ることが、私の務めです。どんなに泥にまみれても、目を逸らしてはならないと思っています」
「おやおや……立派なご高説だ。けれど、乙女様が足元を汚すには、ここはちと“危険”かもしれませんな」
その笑みに、グレイソンの眉がぴくりと動いた。
アリアはまっすぐレオルドを見上げた。
「この地の人々が、どんな暮らしをしているのか。何に苦しんでいるのかを、知りたいのです」
「見てどうする? 涙でも流して、浄化でもしてくれるのか?」
「いいえ。私の涙では何も変わらない。けれど、知ることからしか、何も始められないとも思っています」
一瞬、レオルドの笑みが消えた。
だがすぐに、また冷たい冗談めかした笑顔を浮かべた。
「……まあ、好きにするがいい。だが、乙女様の“善意”が通じるほど、この土地は甘くない」
「それでも、目を背けたくはありません」
その言葉に、セドリックが少しだけアリアを見つめる。
キースも、グレイソンもいない今日――
アリアは一人で“火の中”に踏み出していた。
ただ彼女は、小さな子どもに麦の飾りを贈られ、嬉しそうに微笑んでいた。
夜 ― 賓客館 古城
石造りの重厚な扉が、静かに音を立てて閉じられた。
視察を終えたアリアは、長い緊張から解放されたかのように、無言で椅子に身を沈めた。
だがその表情は疲労ではなく、どこか張り詰めたものが残っている。
セドリックは無言で頭を下げ、部屋を後にした。手には数枚の紙束――視察の記録と報告書。
彼が向かったのは、賓客館の一角。
灯火の少ない石造りの廊下を進むと、奥の部屋に仄かに灯りが漏れていた。
扉をノックする。
「……入れ」
短く鋭い声。それはキースのものだった。
セドリックが扉を開けると、そこには地図を広げ、椅子にもたれながら報告を待つキースと、端で紅茶を手に書簡を読み進めているグレイソンの姿。
「第二視察地より戻りました。これが記録と報告書になります」
「見せろ」
キースが手を伸ばし、厚めの報告書を受け取る。
パラパラとページをめくる音が部屋に響いた。
「……案の定だな。セヴィロス側は“ぶつけてきた”か」
「はい。次男・レオルド公子が出迎えに現れ、あからさまな挑発もありました。アリア様はそれを受け流し、視察は終始冷静に進められましたが……」
「奴ら、本格的に“乙女を試す”つもりらしい」
グレイソンが書簡から目を離し、ぽつりと口にした。
「――レオルドは、乗ってきたようです」
キースが、壁に背を預けて腕を組む。
「狙い通りだ。だが、思ったよりも浅ましい仕掛け方だったな。ベラータの犬にしては」
グレイソンはベラータ公の思考を考える。
「ええ。ただし彼は、“食われてやった”と見せかけて、別の罠を仕掛けてくるタイプです。 舌を噛ませて油断させ、喉笛を狙う」
キースは一瞥だけして言い放つ。
「ならば、喉を見せる前に手首を落とすまでだ」
キースは椅子に座ると、指を鳴らした。
「『剥き出しの敵意』を晒させる。アリア嬢の目の前で、な」
その合図に応え、黒衣の者が一人、影から現れる。
「“夜会”を開け。乙女の名で、セヴィロス家を賓客に迎えろ」
「御意」
キースその言葉の通り、獣を誘うような策略が、静かに敷かれていく。
「敵意を露わにしてくれるのなら、それはそれで結構。むしろ、好都合です。“牙を剥いた”記録さえ残せれば、あとは私たちの思い通りに」
「乙女の名でセヴィロス家、奴らは舞台に上がってくるだろう。――そこで、噛みつかせる」
冷たい笑みを浮かべたキースの目には、すでに駒が並んでいた。
“噛みつく”とはすなわち、敵の暴走を引き出し、その醜悪さを衆目に晒すという意味。
「なるほど。乙女の庇護を受けながら、公然と礼を欠けば、セヴィロス家の“正当性”は地に落ちる。夜会という晴れ舞台での失態……回復は難しい」
グレイソンがすぐに意図を読み取る。
キースは無言で頷き、続けた。
「レオルドはもう限界だ。苛立ちと焦りを抑えきれず、乙女に噛みつく機会を探している。なら――与えてやればいい、“見せ場”をな」
夜会当日――煌びやかに装飾された賓客館・大広間
「まるで、夢みたい……」
アリアは、煌びやかな夜会の会場に立っていた。
幾重にも重ねられた絨毯。銀の燭台に灯る炎がゆらめき、壁には紋章が刻まれたタペストリー。
耳をくすぐるのは、弦楽の優雅な調べ。
主賓として招かれたセヴィロス公家の面々が、舞踏の輪に加わっていた。
「お嬢様、こちらに」
黄金の燭台に火が灯り、豪奢な絨毯の上で客人たちが談笑していた。
アリアは真紅のドレスに身を包み、聖剣の乙女としての威厳と優雅さを身にまといながらも、どこか不安げな視線を浮かべていた。
「大丈夫ですよ、お嬢様。皆、貴女の姿を見ております」
セドリックがそっと囁いた。
その瞬間――重々しい扉が開く。
「セヴィロス公家より、レオルド公子ご到着」
鋭い視線を持った青年が、胸を張って入場した。その態度は“賓客”というより、“査問者”のようでさえあった。
その光景を、隅の柱の陰から静かに見守っていたキースとグレイソン。
「……来たな」
キースが低く呟く。
「さて、あとは“踊っていただく”だけですね」
グレイソンがワイングラスを傾け、夜会の幕が本格的に上がる。
「聖剣の乙女殿、ご招待痛み入ります」
そう言って一礼したレオルドの言葉の裏には、明らかに冷たい棘があった。
だがアリアは動じない。ただ柔らかな笑みを返し、
「ようこそお越しくださいました。レオルド公子」
と、丁寧に応じた。
「アリア殿、先日の視察ではご丁寧に」
セヴィロス家次男、レオルドが乾杯を差し出す。
笑顔だが、瞳は冷たい。
「いえ……皆さんに良くしていただいて、私の方こそ……ゆっくり楽しんで下さい」
美しい音楽と煌びやかな照明の中――
アリアは夜会の主催者として、笑みをたたえながら賓客たちと挨拶を交わしていた。
そのとき、レオルドが優雅に歩み寄り、銀の盆を持った侍従を従えて現れる。
「乙女殿。光栄な夜に、私から一献を。どうか――お受け取りを」
淡い琥珀色の液体が揺れるグラスを差し出す。
「……はい」
アリアは一瞬戸惑いながらも、笑みを崩さず手を伸ばした――
その瞬間だった。
「……お嬢様は、アルコールが苦手なので」
静かに、だが明確に割って入る声。
セドリックがアリアの前に立ち、グラスを受け取るより先に侍従の手から盆を取った。
「お心遣いに感謝いたします、レオルド公子。しかし体調を考慮し、別の飲み物をいただけるようご配慮を」
レオルドの眉がピクリと動く。だがすぐに表情を戻す。
「……それは失礼。次はもっと、優しい味を用意しましょう」
笑みの奥に宿る、黒い気配。
セドリックはそれを見逃さなかった。
盆を受け取ると同時に、さりげなく手袋をした手で小瓶を袖に滑り込ませる。
――“これは毒だ”。
匂い、沈殿、わずかな泡。
何度も人を見てきたセドリックの眼は、誤魔化しを許さなかった。
キースがすれ違いざまに低く言う。
セドリックは無言で頷いた。
アリアは微笑む。その姿に、レオルドは鼻を鳴らす。
「乙女という肩書きで、人を裁く気分はどうです?」
「え……?」
レオルドは微笑んだ。だが、その笑みに温かさはなかった。
「乙女殿は――この地の何をご存じですか?」
「民の暮らし? 領地の苦悩? それとも……武器も握らぬまま、理想を語られますか?」
「わ、私は……みんなが平和に暮らせるように……」(ダメ……手が震える)
「奇麗事だ、王命で“守られるべき”存在とはいえ……我々にも誇りがあります」
「…………」(……怖い……)
「我々の土地に何を見て、どんな『正しさ』を持ち込もうと?
……まさか、お飾りではありますまいな?」
「……お飾り?」(やめて……)
アリアの目が少し揺れる。彼はその反応に満足げに口端を歪めた。
レオルドが一歩詰め寄ったその瞬間――空気が変わった。
「下がれ、レオルド。聖剣の乙女に牙を剥くつもりか?」
低く響く声。
キースが歩み寄ってきた。
黒の軍装に、赤い刺繍。まるで戦場から帰還した将のような風格
キース・アークレイン。
その存在だけで、場の空気が凍りつく。
「お飾り? それはお前の首の上にある。“冠”にこそ相応しいだろう。」
「……それとも、王命を否定するほど愚かだったか?」
「キース伯……これは誤解だ。私はただ――」
「言い訳は、犬の吠え声にしか聞こえんな」
静かな声音。しかし、周囲の空気が張り詰める。
「この場で刃を向ければ、王命に背いた反逆者として吊るす。……そんな覚悟で来たのなら、続きをどうぞ」
キースの眼差しに、レオルドの顔色が明らかに変わった。唇を噛み、深く頭を下げてその場を退いた。
キースはアリアに向き直ると、軽く頭を下げる。
「失礼した、アリア嬢」
「い、いえ……」
怯えながらも立つアリアの手を取り、彼は静かに囁く。
「お前の名前を使った夜会だ。
この先、誰が味方で、誰が敵か――覚えておけ」
その声は優しさと冷たさが混ざり合っていた。
夜会はそのまま続けられたが、アリアの胸には不安の影が残る。
会場の隅でグレイソンは一部始終見ていた。
そこにキースが戻って来た。
「……よく喋ったな、レオルド。あの場で下手を打てば、即首だったぞ」
グレイソンはワイングラスを傾けながら、窓の外を見つめていた。
外では、黒衣の騎士たちが密かに動き出している。
夜明け前の闇が街を包む。静寂の中に、ただ時計の針の音だけが響いている。
「これで“名家の反発”は明確になった。あとは……一掃するだけだ」
キースは無言で頷く。
彼の視線は書類の束――密告者たちの名、反乱の兆しを見せた小領主たちの記録――をなぞっていた。
「ほんの数人だ。見せしめになれば、それで充分だろう」
「……場所は?」
「東街の広場。日の高くなる前がいい。余計な感情を挟ませるな。それと、“アリア嬢”には見せるなよ。……あの子はまだ白いままでいい」
グレイソンが視線を横に送る。
しかしキースは表情ひとつ変えなかった。
「守るなら徹底的に。汚れるのは俺で充分だ」
明け方。まだ人の動きが少ない東街の広場に、兵の列が並ぶ。
黒の騎士団――キース直轄の精鋭部隊。
濃い霧が漂う中、まだ人気のない広場に、兵の列が無音で整列している。
黒の騎士団。
キースが直轄する精鋭部隊であり、闇の中で動き、命令を絶対とする者たち。
彼らはただ命を待つだけの沈黙の獣だった。
そこに、キースが音もなく現れる。
その眼差しは、夜会での決意のままだった。
「反乱の芽は、今、摘み取る」
剣を引き抜き、ひと振り。
その瞬間――合図も号令もなしに、騎士団が動き出した。
一斉に城門、屋敷、裏通りへと散る影。
狙うはセヴィロス家の関係者と、そこに連れてこられたのは、三人の小領主。いずれも、過去に密かに反抗的な動きを見せた者たちだった。
「わ、私には家族が……! どうか、見逃して――!」
「この処罰は、キースの独断か!? 王都は承知しているのか!?」
叫びは、鋼の無言によって遮られた。
剣が振り下ろされる音さえ、静寂の中では酷く生々しく響いた。
振り返った瞬間、視界が“黒”で染まる。
黒の外套、黒革の手袋。そして、鞘に収められた漆黒の剣。
淡々としたその声に、言い知れぬ恐怖が走る。
「な、何をするつもりだ……! わたしはセヴィロス家の――」
「だから排除する」
キースが一歩、近づく。
「キース・アークレイン……!」
「お前が誰の命令で動いたか、俺にはどうでもいい。ただ一つだけ――“乙女に毒を盛った”という事実。それだけで十分だ」
キースは一歩近づくたびに、空気が締めつけられていくようだった。
「待て! 待ってくれ、俺はただ――命令を――」
「命令で乙女を殺せるのなら、命令でお前を葬ることも許されるはずだな」
「だが、これは“粛清”だ。逃げ場はない」
響くのは、キースの靴音と剣が風を切る音だけだった。
レオルドが恐怖に顔を引きつらせたまま、最後の言葉を喉に詰まらせたとき――
音もなく抜かれた剣が、一閃。
レオナルドの叫びは、夜の静寂にかき消された。
処刑は、わずか数分で終わった。
それを見下ろす高台には、グレイソンが立っていた。
風が髪を揺らす中、グレイソンがぽつりと呟く。
「……綺麗なもんだ。これでしばらくは他の虫も黙る」
「言葉が通じぬ獣には、まず痛みを教えることだ。……それが平和の基礎だ」
キースは剣を鞘に収め、背を向ける。
「始まりに過ぎん。これからは、領地が“機能”する番だ」
その頃。アリアはまだ、朝の光の中で静かに眠っていた。
知らぬうちに、彼女が守ろうとする“平和”の裏で、血が流されたことを――
昼前、屋敷の廊下を歩くアリアの足音が、やけに大きく響いていた。
廊下の窓から見える中庭には、兵士たちが慌ただしく動いている。
「何か……あったの?」
そう口にしたとき、ちょうどセドリックが廊下の奥から現れた。
「お嬢様、部屋に戻ってください。……今日は外出は控えていただきたい」
その声音には、明確な警戒と焦りが滲んでいた。
「どうして? さっきから兵の人たち、みんな慌ただしくて……」
「問題は解決しました。ただ……あまり見ない方が、よい」
いつもは優しく微笑むセドリックの目が、今は護衛騎士のそれだった。
それがかえって、アリアの不安を強くした。
「……見た方がいいことも、あるのよ?」
そう言って駆け出すアリアの背を、セドリックは思わず追いかける。
「お嬢様!!」
屋敷の裏門。そこは、通常は使用されない。
だが今日は、掃除がされた跡がある。漂う鉄臭さと、土に染みついた赤茶色の跡。
「……っ」
見てしまった。
兵士が黙々と、血に染まった石畳を洗っている。
誰かが倒れていた痕。処刑……その言葉が頭をよぎる。
そこへ、ひときわ重い足音が近づいた。
「……勝手に歩き回るな、と言ったはずだが?」
キースだった。
黒の軍装に身を包み、まだどこか戦の余熱を感じさせる姿。
アリアは顔をあげた。
「本当に……こんなことを、あなたが命じたの?」
「“こんなこと”で済むなら楽だな」
冷たい声だった。
けれど、揺らぎのないそれは、彼が選んだ現実そのもの。
「酷い……ここまでしなくても……」
「……どうして、何も言わなかったの?」
「言って、どうなる?」
「わたしは……知らなかった、そんなこと……」
そのとき初めて、キースは静かに彼女を見た。
黒曜石のような瞳に赤い光が差し込み、どこまでも冷え切っていた。
アリアは首を振る。
「でも、話し合うことはできたかもしれない! 殺すしかなかったの……!?」
キースは数歩近づき、真っ直ぐにアリアを見た。
「“話し合い”が通じるなら、とっくにしてる。……民の不安は正義になりうるが、暴徒の叫びは、ただの反乱だ」
「あなたが決めたの!? この人たちの命を……!」
震える声で呟いたアリアに、キースは一歩、近づいて言い放つ。
「お前が笑っている裏で、誰かが死んでいる。……それが現実だ」
「……っ」
言い返せなかった。
アリアは、ただ拳を握り締めるしかなかった。
悔しさ、無力感、そして……恐怖。
だが、涙だけは見せたくなかった。
「だから……俺が、汚れる。お前が汚れずに済むようにな」
その言葉が、優しさなのか残酷なのかも分からず、アリアはその場に立ち尽くした――。
アリアは拳を握りしめ、俯いたまま動けなかった。
キースはそれ以上、何も言わなかった。
その沈黙が、彼の決断の重さを、否応なく突きつけてくる。
(私は……笑っていた……。何も知らずに……)
悔しかった。
無力な自分が、惨めだった。
キースを責めたかった。でも、それすらできないほど――現実は、重たかった。
「……ぐ……っ……」
ぽたり。
一滴、二滴、静かに頬を伝って、床に落ちる音がした。
それは、自分でも気づかないうちに我慢していた涙。
アリアの視界が滲んでいた。
涙が、頬をつたって零れる。
自分の知らなかった現実。
信じていた人の、冷酷な一面。
何もできなかった自分が、情けなくて悔しくて――ただ、涙が止まらなかった。
「……そんなの……ひどい……」
絞り出すように言ったその声に、キースは振り向かない。
「……だから、見せたくなかったんだ」
ただ、冷えた声で言い放つ。
「泣くくらいなら、俺の後ろにいろ」
その一言が、突き刺さった。
慰めでも、優しさでもない。
だけど――突き放すようなその言葉に、アリアは少しだけ、目を見開いた。
「……守られる覚悟もないのに、前に出るな」
キースは背中でそれだけを告げて、再び歩き出す。
その背は冷たく、遠くて――でも、どこかで温かさを含んでいるようにも見えた。
目を見開いたまま、こぼれ落ちていく。
止めようとしても止められず、唇を噛んでも、どうにもならなかった。
「私は、“聖剣の乙女”なのに……」
その言葉は、誰にも聞こえなかった。
震える肩に、誰かの手がそっと触れた。
「……お嬢様」
セドリックだった。
どこからか現れた彼は、静かに膝をつき、アリアの横顔を見つめる。
「泣いていいのです。ここでは、誰も責めません」
その優しい声が、さらにアリアの心の堤防を崩した。
「セドリック……私は……っ」
アリアはその場に膝をつき、セドリックの胸元に顔を埋めて泣いた。
悲しみも、怒りも、混乱も、すべてが一度に溢れ出して――彼女はただ、泣き続けた。
セドリックは一言も発さず、静かにその小さな背中を支え続けた。