灰色の民、策略と罠
長方形の石造りの会議室。壁には戦時の地図が掛けられ、中央には重厚な円卓。そこに集ったのは十名あまりの領主たちと、傍らに控える従者たち。
その中央、堂々と腰を下ろすベラータ公が、声を張った。
「では――第一の議題、“通行税の見直し”について。乙女殿、お立場として意見を聞こう。そなたの視察で、民の暮らしは改善が必要だと見えたか?」
それは一見、協力的な問いだったが、裏には「口を出せば責任も背負え」という圧力が込められていた。
アリアは一瞬だけ間を置き、ゆっくりと立ち上がる。
「はい。干ばつと道の荒廃で、生活に支障をきたしている村がありました。ですが、問題は通行税の重さではなく、“その使い道”です。税を取るなら、それを人々の命のために――」
「綺麗ごとだな」
切り捨てるような声。中年の小領主、ギラム男爵が笑う。
「我らは軍も治安維持も自腹で賄っておる。聖剣の乙女とて、夢で腹は満たせん」
他の領主たちも、頷く者、目を伏せる者、それぞれの反応を見せる。
ベラータ公が、まるでそれを見越していたように口を開いた。
「ならば、こうしよう。乙女殿の意見を尊重しつつ、税収の三割を“公共復興基金”として割り当てる。代わりに、“治安維持費”として、通行税の上乗せ分を容認していただく」
――それはアリアの言葉を飲み込んで、なお彼らに利する“巧妙な譲歩案”だった。
「それでは意味がありません」
だが、アリアの声は揺れない。
「人々が望んでいるのは、“使い道の不透明な増税”ではなく、“信じられる施策”です。基金が本当に復興に使われるのか。誰がそれを見届けるのですか?」
静まり返る場内。
そのとき、セドリックが静かに一歩進み、書類を差し出す。
「乙女様のお言葉を受け、我々は“支出明細の公開義務案”を提案いたします。全支出を半年ごとに記録・報告し、村ごとに提示する。もし虚偽があれば、聖剣の乙女の名において断罪します」
領主たちがざわめき始めた。
それは、彼らにとって“監視される政治”であり、“乙女の裁き”という新たな脅威でもあった。
ベラータ公の目が鋭く光る。
「……これは、信頼の名を借りた統制か。聖剣の乙女殿」
アリアは、真正面からその目を見返した。
「いいえ。“信頼される政治”を、私はこの地で築きたいのです」
一瞬の沈黙。
やがてベラータ公が笑った。だがその瞳の奥にあるのは――警戒。
「……面白い。では、その信頼、どれほどの重さか。見せてもらいましょう」
その瞬間、キースの視線が鋭くなる。
この男、まだ“何か”を隠している――。
会議の第一幕は、表向きの終結を迎えた。
「……やっぱり、うまくいったとは言えません……」
アリアがぽつりとこぼすと、セドリックが静かに答える。
「ですが、あの場で“見せ場”は作れました。民と兵、どちらの信頼も得るには……まだ少し、時間が要ります」
集会所から戻ったアリアは疲れた様子で帳簿を見つめていた。そこには、セドリックが集めた各村の収支、被害状況、治安の報告が記されている。
「……正しいことをしているはずなのに、どうしてこんなに重たいのかしら」
そんなアリアに、そばにいたセドリックが静かに声をかける。
「よければ、礼拝堂で少し心を落ち着けてはいかがでしょう」
彼の言葉に、アリアはふっと小さく微笑む。
「そうね……礼拝堂に行きましょう」
礼拝堂の中は、夕暮れの光がステンドグラスを通して柔らかく差し込んでいた。
空気はひんやりとして、石造りの壁に反響する祈りの声が、遠くの教会鐘の音とともに響いた。
「私が選ばなきゃ、誰かが選んでしまう前に……」
アリアは無意識に胸に手を当て、深く息をつく。
その手のひらは少し震えているが、彼女の決意は固かった。
「だから…間違わないように、怖がらずに、歩きたい。誰かの“思惑”じゃなく、自分の意思で……」
アリアは祈ると言うより、ただ静かに目を閉じて思索に沈んでいた。
聖剣の乙女としての責務――
彼女はそれを避けてきた。幼い頃、聖剣の乙女としての役目を背負うのが怖くて、逃げ出したこともある。
だが、今はその“運命”と向き合うと感じていた。恐れがある、臆病な自分がいる。
「……お嬢様」
扉の外から、控えめな声が響く。
「ベラータ公の使者がお見えです。どうなさいますか?」
セドリックの声だった。いつもながら冷静で、礼儀正しい口調。しかし、微かに探るような響きも感じ取れる。
アリアはゆっくりと立ち上がると、振り返らずに小さく答えた。
「……応接室へ通して。少しだけ、時間を稼いで」
「承知いたしました」
アリアは応接室の扉を開けた。
中には深紅の外套をまとった男が一人、静かに立っていた。
鋭い眼光を宿したその男は、アリアを見るなり、わずかに口元をゆるめる。
「初めまして、聖剣の乙女殿。私はベラータ公の使者、ゼファルと申します。」
彼の声は低く、しかしよく通る。
アリアは少しだけ緊張しながらも、椅子に腰を下ろした。
「ご足労ありがとうございます。ベラータ公からのご用件とは?」
アリアは心の中で警戒心を抱きつつも、優雅に頭を下げる。
使者はアリアに近づき、持っていた書類のようなものを差し出す。
「これは、ベラータ公からの書簡です。公からお伝えするよう命じられました」
使者の表情には何も感情が見えなかった。
アリアは少し躊躇いながらも、その書簡を手に取る。紙は重く、そこに記された内容は思った以上に冷徹なものだった。
「『聖剣の乙女としての義務を果たすため、協力を惜しまないように』、というような内容ですか……」
アリアはつぶやきながらその内容を読み進めた。そこには、ベラータ公が新たに進める政策に対する支持を求める言葉が並んでおり、彼女の立場を利用しようとする意図が透けて見えた。
アリアの手が震える。
“誰かの思惑”に、またしても巻き込まれそうな予感がした。だが、それと同時に決意が胸に湧き上がる。
「わかりました…お伝えいただけますか?」
アリアは微かに頷き、冷静を装って言った。
だがその心の中では、ベラータ公がどんな策略を巡らせているのかを見極めなければならないという焦燥感が広がっていた。
使者は無言で一礼し、去っていった。
その背中を見送りながら、アリアは深く息を吐く。
「このままじゃ、また何もできずに流されてしまう…」
アリアは自分の中で何かが決定的に動いたような気がした。
そして、思い立ったように立ち上がる。
「行こう。私が、やらなければ」
その言葉を自分に言い聞かせ、アリアは決意を新たにする。
聖剣の乙女として、そして一人の女性として、自分の道を歩むために――。
その頃、キースとグレイソンは。
アリアが応接室にいる間、キースとグレイソンはしっかりと情報を掴み、次の手を考えていた。
グレイソンは微笑みながら、キースに向けて言った。
「ベラータ公の使者がアリア嬢に接触したようですね。
さて、どんな策略を巡らせているのでしょうか?」
キースは無言で窓の外を見つめながら、腕を組んだ。
「ベラータは慎重に、しかし確実に動いている。
アリア嬢を手に入れなければ、彼の計画は始まらないだろうな」
「その通りです。そして、アリア嬢がこの状況にどう立ち向かうのかも、非常に興味深い」
グレイソンは笑みを浮かべたまま言う。
「彼女がどれだけ覚悟を決めても、やはりまだ無防備だ。だが、少しでも支えられれば…」
キースが静かに答えると、グレイソンは首をかしげた。
「支え? 彼女が自ら進むべき道を見つけるべきだと思いますが」
その言葉にキースは鋭く言葉を返す。
「……手を差し伸べるだけだ。それが彼女にとって必要なものだと、俺は信じている」
二人の間に静かな沈黙が流れた。
そして、同時に二人の心の中でアリアをどう守るか、どのようにして彼女を“守り抜くか”の答えが固まった。
「そろそろ……仕掛ける頃合いですね
……罠という鎖を」
今は使われなくなった石造りの軍議室に、ランプの灯だけが揺れている。
壁に掛けられた色褪せた戦旗の下、キースとグレイソンが地図を広げていた。
「対象は……例の東方の三領主か」
キースが低く呟く。
指先は、辺境伯領の東縁をなぞる――三つの小領地に赤い印が記される。
「うち一人は既にこちらに寝返る素振りを見せている」
グレイソンは地図に目を落としたまま言った。
「残る二人を炙り出す。問題は、“どの手札”を見せて揺さぶるか、だな」
キースは黙って一つの印に黒の印を重ねた。
「会議の名を借りて、密かに呼び寄せる。その場で“裏切りの証”を提示させ、排除する」
「大胆な策だな。民の目の届かぬ場で、確実に首を挙げる……」
そのとき、扉が音もなく開いた。
「……まるで、処刑台への誘いですな」
入ってきたのはセドリック。かすかに微笑みを浮かべながらも、視線は鋭い。
「誘う者も、いずれ“晒される覚悟”を持たねばならぬのが政治です」
と、グレイソンは静かに応じた。
キースは懐から一枚の羊皮紙を取り出す。
「選ばせてやっている。死ぬか、跪くか、な」
それは密偵が押さえた、三領主の一人とベラータ公の密談を示す文書。
偽造に見せかけた、精巧な“本物”。
「獲物は、罠に気づいた時点で逃げ道を求める。そこを叩く」
「“罠”とは、また穏やかでない言い方ですね」
「穏やかに待っていても、牙を剥く獣は消えない」
セドリックは目を細めた。
「お嬢様には、お伝えを?」
「いや。今はまだ不要だ」
キースの声は冷たく鋼のようだった。
「これは“正義”ではない。あくまで、地ならしだ。彼女には、その先に咲く花を見せてやるだけでいい」
グレイソンもまた、地図に手を添えた。
「さあ、舞台の幕は上がった。踊るのは誰か……」
その地図の上に、三つの駒が置かれる。
“誓い”か“破滅”か。
その答えは、次の密会で明らかになる。
「うわあ……お菓子屋さん、こんなに並んでる! どれも美味しそう……!」
アリアは両手を胸の前で組んで、屋台の前で目を輝かせていた。
すると、隣の執事がため息をつく。
「……お嬢様、今日は“民と触れ合う”目的だったはずですが、“お菓子と触れ合う”ではなかったかと記憶しておりますが?」
「だって、あの子たちも見てるでしょ?」
アリアが指さす先には、子供たちが屋台を囲んでワクワクした顔をしていた。
「……ほら、私が買って一緒に食べたら、緊張しないと思うんだ。こういうの、だいじ!」
「言い訳が見事に甘いですね。スイーツだけに」
セドリックは冷静に皮肉を飛ばすが、その手は子供たちにも分けられるように包みを多めに買っていた。
「……でも、お嬢様」
彼は一瞬真顔になり、少しだけ声を落とす。
「人と触れ合うというのは、ただ笑うことではありません。
聞くべき声に、耳を傾けることです」
アリアは、ふと真剣な顔になってうなずいた。
「うん……ちゃんと聞くね。甘い声も、苦い声も」
「ならば安心です。――少なくとも、私の苦言は毎日聞いているわけですから」
「それ、地味に傷つく……」
アリアが涙目になると、セドリックは小さく笑った。
その光景を見ていた村の子供たちが無邪気に笑い、彼女のまわりには自然と人だかりができていった。
――賓客館古城・南棟の奥室。
石造りの部屋に響くのは、わずかな足音だけ。
エンデル公――東方三領主の一人が扉をくぐると、すでにキースとグレイソンが待ち構えていた。
「……遅かったな」
キースが背後の壁から離れ、静かに声を落とす。
「お招きいただき光栄ですな、騎士殿。聖剣の乙女のご臨席がないのが残念だ」
「聖剣の乙女は民と触れ合いに出ている。君のような“客人”に顔を見せる義理はない」
エンデル公の笑みがひきつる。
グレイソンが間に入り、座るよう促した。
「本日は、ごく非公式な確認の場です。余計な憶測を招かぬよう、表立った招集記録も残しておりません」
「つまり……私を“消す”準備は整っていると?」
「話が早くて助かる」
キースが地図を広げ、三つの印を指差す。
「君と、残る二人――ガラント領のセヴィロス公、マルゲロス砦のデュアリス男爵。
ベラータと密通し、武具と兵糧の供給路を保証していたと見て間違いない」
エンデル公が立ち上がるが、その背後にはすでにグレイソンの私兵が控えていた。
「……我々は元より、ベラータ公の力なくしてこの地を保てぬと考えていた。
それが裏切りと断ずるなら――」
「断ずる」
キースの声は冷たく切り裂く。
「通行税の利権を餌に、辺境の自治を崩す行為。
“裏切り”以外の言葉を俺は知らん」
「貴様……!」
「処刑台に送る気はない。だが君の“証言”が欲しい」
グレイソンが文書を差し出す。
「ベラータの手口を記し、君の関与を認めた上で、情報を差し出せ。
見返りに、領地の統治権は代官を通じて一部存続させよう。命も、家名も守られる」
エンデル公は黙った。数秒、呼吸だけが響く。
「……セヴィロス公は間もなくこちらへ向かう。あの男は、私よりもずっと血に飢えている」
「ありがたい告白だ」
キースがにやりと笑う。
「二人目、これで炙り出せる」
「そして三人目……デュアリス男爵」
グレイソンがぼそりと呟く。「あの若造が、一番“動揺”しやすい」
「揺らせば、勝手に転ぶ」
キースがそう言って、印のついた地図を巻いた。
鉄壁の城砦《 シュタール城 》
重厚な城壁。光を吸うような外観、昼でも薄暗く見える。
周囲は高地または断崖に建っていて、攻めにくい要塞型。
金を贅沢に施した調度品と古の絨毯が、領主たちの誇りと野心を静かに吸い込んでいる。
ベラータ公――オルデン・ベラータは、重厚な椅子に深く腰掛けながら、手元の資料に目を通していた。
彼の目の前には、会議用に準備された新設の議事案と、アリアの名が記された公文書。
聖剣の乙女という“聖なる駒”が、いかにして会議の均衡を崩すか――その鍵を握る書だった。
「“黒の騎士”と“政務の鷹”……ふたりも揃えてくるとは。さすがに面倒だな」
手元にあったグラスを揺らしながら、彼は鼻で笑う。
「しかし――“正義”を盾にする連中は、口を封じやすい」
扉の外で控える家臣に軽く頷くと、そっと室内へ入ってきた若い従者が報告する。
「先ほど、聖剣の乙女アリア嬢が礼拝堂にて祈りを捧げておりました」
「……礼拝堂? 一人でか?」
「はい。同行者は執事ひとり。あとは――こちらに」
従者が差し出したのは、小さな羊皮紙。
その端には、聖剣の紋章と“彼女の手で記された言葉”があった。
『私は私の意志で歩きたい。誰かの思惑ではなく――』
読んだ瞬間、ベラータの口角がわずかに上がる。
「――“決意”か。ふむ、悪くない」
窓の外を見やりながら、彼は言葉を続けた。
「だが、自分の意志などと戯れ言を言っていられるのは、庇護があるうちだけだ。
真に価値があるのは“その意志をどう使われるか”。
この会議で、私はその“意志”を、私の側に引き寄せる」
彼の視線は、遠く会議場の広間へと向けられていた。
既に布石は打ってある。
通行税の見直し提案、辺境伯の軍備再編の提案、そして――“乙女の政治的認可”を得る条項。
「さあ、踊ってもらおう。
理想を掲げる騎士どもも、“優しい顔をした策士”も……。このベラータの庭でな」
椅子から立ち上がった彼の背には、重厚な黒と金の外套。
それは、辺境の地にありながら中央以上の威圧を纏った男の姿だった。
そして、会議の鐘が鳴る――。