見守る眼差し、導く声
「――ベラータ公が、集会の開催を三日後に開くそうです」
書類を見つめながら、グレイソンが淡々と告げる。
古びた書斎の中、蝋燭の炎が微かに揺れていた。
「その集会で、聖剣の乙女としてアリア嬢にお披露目の場が設けられます。事実上の“査問”です。味方も敵も、貴女の言葉と立ち姿を値踏みするでしょう」
「え、ええと……つまり、挨拶をするってことですよね?」
アリアは頷きながらも、どこか頼りなく笑った。
「そうです。簡潔に、礼儀正しく、聖剣の乙女として堂々と」
「プレッシャーかけすぎだ」
キースがソファに脚を組み、面倒そうに言った。
「本番で詰まっても俺は笑わねえよ。グレイソンは眉ひそめるだろうけど」
「……別に笑ってもいいけど、変なことは言わないように努力します」
そう答えてアリアは小さく息を吐いた。
(難しい事ばかり言うグレイソン様、怖い顔して脅してくるキース様……いつも怖い顔してるけど……息が詰まる)
「ごめんなさい。ちょっと……外の空気、吸ってきますね」
グレイソンが何か言いかけたが、アリアはそれより早く立ち上がっていた。
庭に出ると、薄曇りの空が広がっていた。
草の匂いと、遠くから聞こえる市場の喧騒――それが不思議と心を落ち着かせる。
辺境伯領に来てから、賓客館という古城に閉じこもっていたから、城の外が気になるアリア。
(少しくらいなら……すぐ帰ってくるし……)
門兵もいない裏門から、アリアはそっと町へ出た。
通りには活気があった。
パン屋の呼び声、子どもたちの笑い声、布を広げる商人たち。
人々の暮らしの音、風に乗る香辛料の香り。
(わたしが“守ろう”としてるのって……こういう、景色なんだ)
アリアは立ち止まり、小さな果実を並べた屋台の前で足を止めた。
「お姉さん、試してみる? 甘いよ、これ!」
女店主が差し出した果実を見て、アリアはふと微笑んだ。
その感覚を胸に刻もうと、立ち止まって果実屋の前に手を伸ばしたその瞬間だった。
「おい、そこ!」
鋭い声が飛んだ。
一瞬で町の空気が張り詰める。背後に、兵の気配。
アリアは肩をすくめ、ゆっくりと振り返る。そこにいたのは、ベラータ公の私兵だった。
「この近辺で不審者の目撃があったと報告を受けた」
アリアは答えかけて――飲み込んだ。
今ここで「聖剣の乙女です」などと名乗れば、騒ぎは避けられない。
「見かけぬ顔だな。身分を証明しろ」
(まずい……)
人々がざわめき、屋台の女主人さえ一歩引いた。
言い訳を考えようとしたそのとき。
すっと、アリアの肩に誰かの手が置かれた。
「申し訳ありません、妹がはしゃぎすぎまして」
低く落ち着いた声――そしてその声の主が、彼女の前に立つ。
背の高い男性、貴族のような装い。だがその所作には洗練された騎士の気配があった。
「……誰だ、お前は」
「カイル・アルデンと申します。辺境伯領の土地を見聞しておりまして。騎士として、正式な旅券も持っております」
そう言って、懐から証書を取り出して見せるカイル。
私兵はそれを確かめ、一瞬だけ目を細める。
「……確かに、通行証に間違いはないな」
「この子は少々人懐っこくてね。すぐ人混みに紛れる。迷惑をかけた」
「……気をつけろ」
短く言い捨てると兵たちは去っていった。
その背中を見送ったあと、カイルはふっとアリアを振り返る。
「やれやれ。君は、もう少し慎重であるべきじゃないか?」
「……ありがとうございます。でも、どうして助けてくれたんですか?」
「それは――君がこの町の空気を“正しく”吸っていたからさ」
アリアはきょとんとした顔で見つめる。
カイルはにやりと笑った。
「君みたいな目をする人間が、潰されるのを見過ごせるほど、私は冷たくない」
その声の奥に、彼自身の過去があるように思えた。
アリアは小さく笑って、深く頭を下げた。
「改めて、ありがとうございます。……カイルさん」
柔らかな光が石畳を照らし、人々のざわめきが少しずつ穏やかになっていく頃――
「――アリア様が、いません!」
執務室に駆け込んだ兵士の声が、静まりかえった館の空気を切り裂いた。
書類を片付けていたグレイソンは、手を止めて顔を上げる。
隣で座っていたキースの目が鋭く光った。
「……何?」
「先ほど、空気を吸いにと仰って中庭へ。ですが、もう二刻ほど戻られていません」
「門番には?」
「誰も、外へ出る姿を見ていないと……ですが、裏口の扉が――」
ばん、と机を叩いてキースが立ち上がった。
「このタイミングでアリア嬢が姿を消すだと? ベラータの犬どもに見られたら、集会の口実にされかねん!」
「グレイソン、どうする?」
グレイソンは目を細め、低く答えた。
「街は広い。だが彼女は“意図的”に姿を消したわけではない。興味を引かれ、ふと歩き出したのだろう」
「……つまり、罠に嵌まった可能性もある」
「最悪の場合、“神聖なる乙女の不行状”として揚げ足を取られる。そうなれば、我らの交渉の正当性すら揺らぐ」
キースがマントを翻して出ようとしたその瞬間――
「待て」
低く抑えた声が、部屋の空気を凍らせた。
グレイソンは立ち上がり、キースの肩を掴む。
「……何をする、あいつが今どこにいるかも分からないんだぞ!」
「だからだ」
キースの目が怒りに燃えて睨み返すが、グレイソンは揺るがなかった。
「お前が街を走れば、兵士や民は当然気づく。今は、“聖剣の乙女と黒の騎士”の存在そのものが政治の駒だ。ベラータ公に『何かがあった』と感づかれたら、やつは必ず動く」
「騎士団の精鋭を三手に分けて町へ。派手な動きは避けろ。乙女が町人に囲まれていた場合は、彼女の“自発的行動”という体裁を崩さずに連れ戻す」
グレイソンの指示に、館の兵たちは静かに頷いて散っていった。
残されたキースは、窓の外に目を向けながら呟いた。
「……もし、この動きがベラータ公の仕掛けだとしたら」
その目に、かすかな怒りと焦りが浮かんだ。
そんな事態も知らず……。
アリアとカイルは人気の少ない噴水広場にたどり着いた。
「あの……お時間ありましたら……少しだけ、この町のことを教えてくれませんか?」
アリアの問いに、カイルは驚いたように眉を上げた。
「町のこと?」
「うん。私は……ここを“守りたい”って思ってる。けど、本当に知らないままで、守れるとは思えなくて」
彼女の真剣な瞳に、カイルは一拍の沈黙を置いてから、肩をすくめて答えた。
「……変わったお嬢さんだな。普通は“治安”や“税”の話を貴族から聞けば満足するもんだ」
「それじゃあ、人の顔が見えないでしょ?」
その一言に、カイルの目が細くなる。
まるで何かを試すように、彼は少し歩きながら話し出した。
「こっちに来て……」
乾いた風が頬をなでる――目の前に広がるのは、ひび割れた大地と枯れた作物が広がり、子どもが裸足で乾いた井戸を覗き込んでいる。
町から少し外れた場所、活気ついてた町がガラリと風景を変えた。
「……こんなに……」
隣でカイルが小さく首を振った。
「これはほんの一部でしょう」
「……でも、こんなに苦しんでいたなんて……私、知らなかった……」
アリアの声は震える。
「この町は、二つに分かれてる。高台にいるのが旧来の地主や商人、そして平地にいるのが元々この地にいた民。見えない壁があるんだよ。言葉も、習慣も、税の重さも違う」
「壁……」
「ベラータ公がその“壁”を利用してる。表向きは調整と言いつつ、うまく火種を育ててるんだ。対立があれば、民は彼に依存するしかなくなる。まるで……薬みたいに」
アリアは静かに拳を握った。
「そんなの、いや……」
「でも、それが現実さ。甘くはない」
しばし風が吹き抜け、噴水の水がきらめいた。
だが次の瞬間、カイルの声はほんの少し優しくなる。
「――けど、君みたいに“知りたい”って思う者がいるなら、少しは変わるかもな。町は、城じゃなく、人でできてる」
アリアは目を細めて、カイルを見上げた。
「ありがとうございます。またお会い出来たらお話したいです!」
「構わないよ。君が“この町の空気”を忘れないうちは、ね」
そうして彼は去っていく。
だがその背に、アリアは確かな希望を感じた。
「……!」
カイルの背が人混みに消えた瞬間、アリアは思い出した。
「はっ……!」
小さく声を漏らし、スカートをつまんで駆け出す。もう陽は傾き、町の通りには夕食を求める人々の匂いと笑い声が満ちていた。
(いけない……!勝手に抜け出すなんて、怒られる……)
額に汗を浮かべながら、アリアは人波を縫って走る。
屋敷までの道が、こんなに遠く感じた。
やがて、石造りの外壁が見えてくる。裏口にはまだ人影はなく、鍵は外れていた。
(助かった……)
息を整える間もなく、そっと扉を開けて中へ滑り込む。
冷たい石の床の感触が、ほんの少しだけ彼女の罪悪感を刺激する。
そのとき――
キースが扉の前で腕を組み、低い声で
「……よく戻ったな、アリア嬢」
アリアはびくっとして立ち止まる
「き、キース様……その、ちょっとだけ外の空気が吸いたくて……」
ゆっくり歩み寄りながらアリアに近寄る。
「“ちょっとだけ”? ――俺の目を盗んで出歩く理由がそれだけか」
キースの目が怖くて、視線を逸らしつつ
「ご、ごめんなさい。でも、本当に何もなかったから……!」
キースはアリアの顎を指先で持ち上げて
「“何もなかった”かどうかを判断するのは、俺だ。……お前じゃない。」
「そ、そんな言い方しなくても……!」
冷たい笑みを浮かべながら。
「……お前が無事だったことには感謝する。だがもう一度やったら――外に出る脚、折るぞ」
「……っ、こ、怖いこと言わないでよ……!」
キースは目を細めて、わずかに声を落とす、心配と安心が混ざり合う。
「怖がらせてるんじゃない。忘れさせないために言ってるだけだ――お前が、どれほど危うい存在か。」
そっと扉を開けて部屋に足を踏み入れた瞬間、アリアの胸は小さく跳ねた。
「……おかえりなさい、アリア嬢」
低く、抑えた声。グレイソンが椅子に座ったまま眉一つ動かさず、指先で書類を閉じていた。
「ずいぶんと、自由なお散歩だったようですね」
グレイソンの口元が、ほんのわずか皮肉にゆがむ。
「……ご、ごめんなさいっ!ちょっとだけって思って、そしたら……」
「迷ったか?」とキース。
「――いえっ!」
その一言に、グレイソンの目が鋭く光った。
「なら、何を見て、何を聞いた? “聖剣の乙女”として、何を持ち帰ってきたのか……お聞きしても?」
アリアは唇を噛む。
……でも、あの町の空気。
カイルの言葉。人々の暮らし。
そこには、書類の上では見えない“何か”が確かにあった。
「……壁を、感じました。この町には……人と人の間に、見えない壁があるって」
その言葉に、グレイソンの眉がわずかに動いた。
キースも、目を細めてアリアを見つめる。
「その壁を、壊したいと思うかい?」
「はい。できるなら……私は、それを越えたい。乙女としてじゃなく、アリアとして」
静寂が流れる――
やがて、グレイソンは書類を机に戻しながら、ふっと笑った。
「会議は三日後です、領主会議殿にて。貴女の席も、すでに用意されているとのことです……聖剣の乙女の自覚が出来たようですね」
アリアは小さく息を吸い、決意を胸に刻んだ。
この地に、争いを呼ぶだけの“乙女”で終わるわけにはいかない。
民を、未来を、信じている自分自身を――信じ抜くために。
――三日後、会議当日。
会議の開かれる石の殿堂は、思った以上に冷たく、静かだった。
石造りの議事殿は、すでに多くの領主たちで埋め尽くされていた。
重厚な衣をまとった者、錆びた勲章を誇示する者、そして一瞥で値踏みする者――
それぞれが自分こそが“この地の主”であると無言で主張していた。
アリアが広間へ足を踏み入れた瞬間、ざわめきが起こった。
「……あれが、聖剣の乙女……?」
「随分と若いな。まるでお伽噺の娘だ」
「グレイソンの傀儡か、それとも理想家の戯言か」
耳に入る言葉の数々は、冷たく、刺々しい。
しかし、アリアは怯まなかった。
背筋を伸ばし、堂々と空席へ向かう。彼女の後ろには、黙して歩くキースと、厳格な顔つきのセドリックが控えていた。
議長席に座るベラータ公が、わずかに笑った。
「……遠路ご足労、感謝申し上げます、聖剣の乙女殿」
その声音には、あからさまな皮肉と試すような響きがあった。
「辺境の未来を思えばこそ、この会議は開かれました。何卒、実りある時間となりますように」
アリアは席に着き、静かに頭を下げた。
「こちらこそ、光栄に思います。どうか……民のための議論となりますように」
その一言に、いくつかの領主たちが鼻で笑った。
開幕の鐘が鳴る。
やがて、通行税の調整を巡る激しい言葉の応酬が始まった。
「税率を下げれば、我が村は干上がる!」
「治安維持のための金が出ないなら、傭兵を雇う。よろしいかな?」
「聖剣の乙女殿、お考えは?」
唐突に振られた質問に、場の空気がぴたりと止まった。
沈黙。視線が一斉にアリアに注がれる。
アリアはゆっくりと口を開いた。
「……税が、誰かの命を削って得られるものなら、私は反対です。
でも、守るために必要な犠牲があるなら――その“痛み”を、まず私が知りたい。
皆さんの領地が、どんな状況にあるのか、私の目で見せていただけませんか?」
その場の空気が変わった。
挑発には乗らず、綺麗事で逃げもせず、それでいて逃げない意思を示した――
“子供じみた理想家”ではないと、一部の者が初めて認めた瞬間だった。
そのとき、グレイソンが小さく口元を緩めた。
「……これは面白くなってきたな」
アリアの言葉に、議場の空気が揺れた。
沈黙の中、最初に口を開いたのは、老齢の小領主だった。
「……乙女様は、我々の村へ足を運ぶと仰るのか。泥にまみれた村道や、瓦礫の残る砦に?」
アリアは静かにうなずく。
「それが、私の務めだと思っています。地図ではなく、現実を知りたいのです」
彼の目が、驚きと……わずかな敬意で和らいだのを、誰もが見逃さなかった。
ベラータ公が、椅子の背に身を預ける。
「なるほど。“聖剣の乙女”とは、視察官も兼ねておられるとは。では……我がベラータ領にも、ぜひお越しを」
「喜んで。危険な地域であれば、なおさら、知っておくべきです」
その瞬間、キースの眉がわずかに跳ねた。
(これは……罠かもしれんな)
彼は視線だけでセドリックと通じ合う。
セドリックもまた、手元の地図に目を落としながら、静かに口を開いた。
「アリア様が視察されるには、護衛と、事前の準備が必要です。
本日の会議はこれにて閉じ、数日の猶予をいただければと思いますが……いかがでしょうか?」
グレイソンが即座に応じた。
「我が家が護衛団を出そう。……“力による均衡”を嫌う声もあるだろうが、今は乙女の剣となる時だ」
場が一転して、次の駆け引きの場――“視察の同行者選び”へと移っていく。
誰が乙女に味方するのか、誰がその背を狙うのか。
その選別の目が光る中、アリアはまっすぐ前を見据えていた。
彼女の視線の先、ベラータ公は唇に微笑を浮かべたまま、氷のように冷たい瞳を細めていた。
「では、乙女殿。どうか、この辺境の“現実”をご堪能あれ」
視察の日 ――風が乾いた土を巻き上げる。
かつては小麦が揺れていたという畑は、今やひび割れた地面と、倒れた柵だけが残る荒野と化していた。
「……ここも、水脈が枯れたのですね」
「このあたりの井戸は、半年も前から干上がったままでして……」
土埃にまみれた布を握りしめ、老婆は震える声で言った。アリアは膝を折って、その目線に合わせる。
「では、飲み水は……?」
「遠くの川まで、日に三度通っております。若い者が減ってからは、年寄りには応えますわ……」
アリアは黙って水袋を差し出した。老婆は驚きつつも、両手でそれを受け取り、深々と頭を下げる。
周囲に集まった村人たちは、最初こそ遠巻きに見ていたが、徐々に近づいてきた。子どもたちが、アリアの後ろから顔を覗かせる。
「おねーちゃん……もしかして、聖剣の乙女さま?」
顔に泥をつけた、5、6人の子どもたちが遠慮がちにアリアへと近づいてくる。
アリアは微笑みながら膝をつき、目線を合わせた。
「うん、そうだよ。私はアリア。聖剣の乙女になったばかりだけど……頑張ってるところ」
「やっぱりだ!おばあちゃんが言ってたの、乙女様はすっごくきれいで優しいって!」
「魔物も斬れるの?」
「空、飛べる?」
「火を出せる!?」
無邪気な声が次々に重なり、アリアは小さく笑った。
だが、その背後――遠くに佇む壊れた井戸や、痩せた犬の姿が現実を突きつける。
「ごめんね……来るのが遅くて……」
そう言ってアリアは、子どもたちの一人の頬にそっと手を置いた。
「でも、大丈夫。私が来たからには、ここに“光”を戻す。約束するわ」
その声に、子どもたちの顔がぱあっと輝く。
その光景を見守るキースが、低く呟く。
「……理想論だが、あの光がある限り、皆ついてくる」
「ええ。だからこそ、利用しようとする者も増えます」
セドリックが静かに付け加えたとき、村の中央をつんざくように、甲高い鐘の音が鳴り響いた。
「ベラータ公からの伝令です! 本日の集会、予定を前倒しし、今より開始するとのこと!」
「今から?」
キースの眉がぴくりと動く。
「“視察中止”のための仕掛けかもしれませんね。アリア様が民と接触する前に、囲い込もうと……」
「でももう、十分見たわ。行きましょう、セドリック、キース様」
アリアは立ち上がり、風に揺れる外套を翻す。
村の者たちが戸惑いながら見送る中、彼女は振り返って微笑んだ。
「次に来るときは、井戸を直してからね」
その言葉が約束となって、村の空気がほんの少し温んだ。