未来への選択
「私は反対です……」
突然聞こえた声はセドリックだった
静かながらも凛とした声が、重たい空気を裂いた。
その声の主に三人の視線が集まる。黒の上着をまとった長身の男が静かに歩み寄ってきた。手には銀の懐中時計。整った顔立ちに冷静な眼差し、そして――端正な眼鏡。
「セドリック……」
アリアが思わず名前を呼ぶ。彼女を迎えに来たのだろう。だが、彼の視線はまずキースに向けられていた。
「お嬢様を“象徴”の一つとして使うだなんて、聞き捨てなりません。私の主は、政争の道具ではない」
冷たくもどこか怒りを滲ませた声に、キースは一瞬だけ目を細めた。
「使うつもりはない。共に行く、と言ったまでだ」
「それが同じことだと、なぜお気づきにならないのですか?」
セドリックはアリアの横に立ち、その背を庇うようにした。まるで今にも彼女を奪い返すよう。
「辺境への任務に、お嬢様を同行させると?…正気の沙汰とは思えません、キース様」
キースは静かに視線を向けセドリックに言う。
「正気だ。むしろ、今の時代に必要なのは“象徴”としての聖剣の乙女ではなく、“ともに剣を取り進む者”だと思っている」
キースが目を細めて、言った。
「この任務には時間も余裕もない。だが、どうしても君に来てほしい。アリア嬢――」
「力では救えない。政治も届かない。けれど、お前なら……聖剣の乙女であるお前なら、人々の心に届くかもしれない」
「心……」
「信じられるものが欲しいんだ。戦や支配じゃなく、“祈り”や“希望”を」
アリアはそっと唇を噛みしめた。
キースの厳しいまなざしと、グレイソンの微笑の奥に潜む熱――そのどちらからも目を逸らさず、胸の内に灯った火を抱いたまま、静かに前を見た。
「……わたしは、行きます」
その言葉は、誰の背中にも隠れず、自分の足で前へ進むという選択だった。
少女はもう、ただの飾りではない。
セドリックが、ひとつ息をついた。
長く仕えてきた令嬢の決意を、どうして見逃せようか。
「……お嬢様」
セドリックは少しだけ目を細め、ゆっくりと跪く。
「セドリック……」
アリアはそっと彼の名を呼んだ。心なしか、声が震えている。
「わがままを言って、ごめんなさい。セドリックが私のことをどれほど心配してくれているか、分かってるの」
その瞳は、もう迷っていなかった。
ただまっすぐに、自分の進むべき道を見据えている。
「でもね……私は、ずっと逃げていたの。聖剣の乙女であることも、誰かの期待も……そして、自分自身の気持ちからも」
風が静かに吹き抜ける。
「それでも……今は、自分にできることを、自分の足で歩いてみたいの」
セドリックは、黙って彼女を見つめていた。やがて、深く息を吐き、微笑をひとつ。
「お嬢様がそう仰るなら、私は……その道を照らす灯火でありましょう」
その背筋を伸ばす姿に、どこか誇らしげな忠義の影が揺れていた。
「……そうか。決めたんだな、アリア嬢」
低く、どこか満足げなキースの声が静寂を破った。
彼は腕を組んだまま、わずかに口角を上げて彼女を見つめる。
「全力で支えるだけだ。……お前が折れそうになった時は、俺が何度でも引き上げてやる」
その言葉に、アリアは胸が熱くなるのを感じた。
キースの瞳には、ただまっすぐな信頼が宿っていた。
そして、もう一人――グレイソンが静かに口を開いた。
「……本当に、君という人は……」
「で、どうする?グレイソン?」
その声音は穏やかで、それでいてどこか挑発的だった。
「僕に拒否権があると思う?」
彼はひとつ息を吐き、髪をかき上げると、アリアを見つめどこか哀しげに笑った。
「無茶をする。けれど……それが、君の強さなんだろうね」
視線が交差する。
優しく、けれど奥底に計り知れない熱をたたえたグレイソンの眼差しが、アリアの心を揺らす。
「君が行くのなら、私も行こう。……君を、ひとりでは行かせられない」
その言葉に、アリアは思わず息を呑んだ。
守られるのではなく、共にあるという覚悟。
その中に、揺れる想いが交錯していく――。
「ならば、私もご一緒させていただきましょう。僭越ながら――誰よりもあなたの傍を守ると誓った者として」
アリアは目を見張った。
そして、小さく微笑みながら頷いた。
「ありがとう、セドリック。あなたがいてくれるなら……きっと、私は大丈夫」
キース邸・書斎 深夜
重厚な扉が静かに閉じられ、ろうそくの明かりが三人の影を長く伸ばす。
「さて……これが最後の打ち合わせになるな」
キースが組んだ腕をほどき、書類の束を机に置いた。
「目的は三つ」
グレイソンが指を三本立てて、静かに告げる。
「一、辺境伯領での反乱の鎮圧。二、民衆の心を掌握し、治安を回復させること。そして三――」
彼の視線がアリアの名を宿すように宙を彷徨う。
「――“聖剣の乙女”という象徴を、我々の手で確立させる」
「……本当に彼女を巻き込む気か」
セドリックが険しい目を向ける。
「彼女はまだ若い。戦地に立たせるには――」
「わかってるさ」
キースが低くうなった。
「けど、彼女が望んだ。“自分の足で歩きたい”と。だったら俺たちは……その道を整えるしかない」
「それに、君が一緒にいる。それだけで、俺たちは幾分か安心できる」
グレイソンの言葉に、セドリックは目を伏せたまま口を閉ざす。
「力は俺が担う。グレイソン、お前は裏から仕掛けろ。敵の財源と繋がりを断て……お前の得意分野だろ?」
「……ふっ、買い被りすぎだな」
グレイソンが皮肉めいて笑ったが、その目は真剣そのものだった。
「任せてくれ。既に数人、買収の目処は立っている」
グレイソンが余裕の微笑を浮かべる。
彼の指先はすでに、民衆を動かすための手立てをいくつも描いていた。
「セドリック……お前に任せるのは、アリア嬢の命だ」
「……“誓い所”で護れる者が必要だ。俺じゃない。彼女の傍で、最後まで寄り添える者が」
「承知した。命に代えても、必ずお護りする――必ず守り抜く」
三人の間に、重い沈黙が流れる。
やがてキースが立ち上がり、グラスに酒を注ぐ。
「じゃあ、成功を祈って乾杯といくか」
「珍しいな。お前が乾杯を言い出すなんて」
グレイソンがくすりと笑い、セドリックも小さく頷く。
三つのグラスが静かにぶつかり合い、澄んだ音が書斎の天井に響いた。
その夜、戦火の予感と希望を乗せて、三人は出発の時を静かに迎えた――。
それぞれが譲れぬものを胸に、ひとつの目的へと向かっていた。
セドリックが屋敷に戻るとアリアの部屋がまだ明かりが灯されていた。
アリアは窓際に小さな鞄を広げていた。
旅の支度はほとんど終わっていたが、彼女の手が最後に選んだのは――紅茶の缶だった。
「これも、持って行こうかな……」
蓋を開けると、ふわりと香る優しい茶葉の匂い。ラベンダーとミントの香りが微かに混ざった、彼女のお気に入り。
そのとき、扉の向こうからノックの音が響いた。静かに入ってきたのは、セドリックだった。
「まだ準備中でしたか、アリア嬢」
「うん、もう少し……でも、これだけは持っていきたいと思って」
アリアは紅茶の缶を胸元に抱きながら、少し照れたように微笑んだ。
「戦地には似合わないかもしれないけど……でも、こういうものがあると、落ち着く気がするの」
セドリックは一瞬だけ目を伏せ、微かに笑った。
「……その気持ち、分かります。辺境の夜は静かで、寒い。温かい一杯が、何よりも心を救うことがある」
彼の声は、どこか遠くを見ているようだった。きっと彼にも、忘れられない遠征の記憶があるのだろう。
「じゃあ、一緒に飲もうね。そのときは私が淹れるから」
そう言いながら、焼き菓子も鞄に詰められた。
アリアのその言葉に、セドリックはふと視線を上げ、真っ直ぐに彼女を見た。
「はい。……その日を楽しみにしています」
(遠足じゃないんですよ……)
とセドリックがくすと笑った。
しばらくしてセドリックがアリアの前に畏まった。その手には、長く細身の木箱――黒と銀の装飾が施された美しい箱が抱えられていた。
「お嬢様」
その静かな呼びかけに、アリアは振り返ると、少し距離をおいて立つセドリックの姿。アリアは黙ってその箱を見つめていた。
「国王陛下からの贈り物です」
低く、落ち着いた声が風に混じる。
「その聖剣は“クレマチスアリア”と名付けられました。陛下が、アリアお嬢様がお生まれになった時に、鍛冶師を三人も呼び寄せて作らせたそうです」
アリアはそっと蓋を開けた。
そこには、淡いブルーの光を纏う細身の剣――鞘にはラベンダーとピンクの模様が交差するように描かれ、美しさと気品を湛えていた。
「……綺麗……花と同じ名前」
「はい。花言葉は、“精神の美”と“旅人の喜び”。」
セドリックの声音は柔らかくなった。
「それは、あなたそのものです。人を癒し、希望を灯す――だからこそ、王はアリア様にこの剣に託した」
アリアはしばし剣を見つめたまま、ぽつりとつぶやく。
「私は……この剣に、ふさわしい人になれるかな……?」
その不安を否定するように、セドリックが歩み寄る。
「どんなに強い剣でも、使う人が信じなければ意味がありません。あなたが迷えば、私はその不安ごと斬り払います」
「……あなたが立つ限り、私は何度でも支えましょう」
アリアの胸に、温かいものが広がった。
この剣はただの武器ではない――自分を信じてくれた人々の想いが、ここに込められている。
「ありがとう、セドリック……私、頑張るね。ちゃんと、前を向いて」
彼は、ほんの少し微笑んだように見えた。
その夜、アリアのもとに一通の手紙が届いた。
筆跡は、力強く、それでいてどこか不器用な真っ直ぐさを孕んでいる。
――明日、迎えに行く。
俺の隣に来い。
キース・アークレイン伯爵
読み終えた瞬間、胸の奥がざわめいた。
期待と不安と、名も知らぬ高鳴りが混ざり合っていた。
翌日。朝靄が、世界を優しく包み込む――
黒い馬、黒い御者、黒の車体。
すべてが漆黒に包まれたその馬車は、まるで夢と現の狭間から来たかのようだった。音もなく邸宅の前に滑り込むように現れた。
漆黒の馬と同じく黒衣の従者が一礼し、アリアを馬車まで案内する。
その光景の中、ひときわ目を引いたのは、赤いラインが鋭く走る黒の軍服に身を包み、黒マントを翻すキース・アークレインの姿だった。
漆黒の甲冑に身を包んだ《黒の騎士団》。無言の威圧感が空気を張り詰めさせる。そしてその横に、優雅な仕立ての外套を纏ったグレイソン・オルトリクスの姿もあった。
「……!」
息を飲むアリアの肩に、ふと温かい手が添えられる。振り返れば、そこには変わらずそばに居てくれるセドリックの姿。
「怖がらなくていい。私が傍にいます。必ず、貴方を守ります」
静かに微笑んでそう告げた彼に、アリアは小さくうなずいた。
そのとき、キースが一歩前に出る。朝焼けにその黒衣が映え、低く静かな声が響いた。
「――覚悟は出来たか?」
問いかけるその瞳には、軽口でも試すでもない、ただまっすぐな意志が宿っていた。
アリアは一瞬、深く息を吸い込む。
手袋に包まれた手を胸元で重ね、小さく、だが確かな声で答えた。
「はい……私の意志で、行きます」
その言葉を聞いた瞬間、キースは音もなく片膝をついた。
黒いマントが風に揺れ、彼の深紅の瞳がまっすぐアリアを見上げる。
「この命にかけて――我らが《聖剣の乙女》をお護りしましょう」
その瞬間、キースの背後に並んだ黒の騎士団も、無言のまま一斉に膝をついた。
鎧の打ち鳴らす音が石畳に響き、その場の空気が変わる。
一人の少女の決意に、百の誓いが応える――その光景に、アリアの胸が熱く締めつけられた。
そして、最後にグレイソンが一歩前へと出る。
優雅な動作で跪き、胸に手を当て、いつもの柔らかな笑みで静かに告げる。
「……貴女の勇気が、この地を照らすことを信じております」
アリアの頬に、ひとすじ風が触れる。
これから共に戦う“仲間”として――
彼女の物語に、新たな光が射し込む瞬間だった。