信仰・理・力の狭間と象徴
アリアは心躍る気持ちを抑えきれず、グレイソンの屋敷へと足を踏み入れた。
「今日はきっと素敵な一日になるわ」
何度も自分に言い聞かせながら、ふんわりとした上品なワンピースをなびかせて歩く。色合いは控えめだが、袖口や裾に施されたレースが、どこか優雅で華やかさを添えていた。
ドアを開けると、薄いシャンデリアの光が柔らかく広がり、紅茶の香りと優雅な音楽がふんわりと流れていた。そこには、すでにいくつかの高級なアフタヌーンティーが美しく並べられ、グレイソンがその場でゲストを迎えている姿が見えた。
「グレイソン様、素晴らしい紅茶会ですね。お招きいただき、ありがとうございます」
グレイソンは穏やかに微笑みながら、その温かな眼差しをアリアに向ける。
その優しさと柔らかさに心がふわっと包まれる。
「アリア嬢、よく来てくれたね」
「あなたの笑顔が見たくて、この会を開いたんだ。さあ、どうぞ。楽しんで」
その言葉とともに、グレイソンはアリアを温かく迎え入れるようにその腕を開いた。アリアはその優しさに心が温まり、自然と微笑みがこぼれる。
「ありがとうございます、グレイソン様」
アリアがグレイソンに迎えられ、温かなやり取りを交わす間に、他の招待客たちも次々と到着していた。今日の紅茶会は、ごく親しい人だけの、こぢんまりとしたお茶会だった。
丸い白いテーブルにはレースのクロスがかけられ、中央には季節の花々が可憐に生けられている。陽光が差し込むガラス窓の外では、小鳥たちがさえずり、まるでこの時間を祝福しているかのようだった。
「皆さん、お揃いですね」
グレイソンがゆったりと声をかけると、ふわりとした笑い声が場を和ませる。紅茶は、アリアの好きなフルーツティー。香り高く、カップから立ち上る湯気さえも幸せを運んでくるようだった。
一段目のケーキスタンドには、彩り豊かなマカロンと小さなベリータルト。二段目にはアリアが特に楽しみにしていた、いちごタルトが並んでいる。その鮮やかな赤と、滑らかなクリームの輝きに、彼女の瞳も思わず輝いた。
「それ、気に入ってくれたかな?」
隣に座ったグレイソンが、そっと囁く。
「……はい、とっても。今日は来られてよかったです」
アリアが微笑むと、他の客たちも穏やかに笑い合い、それぞれに紅茶と会話を楽しみはじめた。肩肘を張らない、けれど確かに優雅な時間。アリアは、久しぶりに心から安らげるひとときを噛みしめていた。
そして、アリアの前には——小さな銀の皿にのせられた、宝石のようないちごタルト。
グレイソンがそっと差し出すと、アリアはその美しさに、思わず微笑んだ。
「……わぁ……」
アリアの瞳が、目の前に置かれたいちごタルトに吸い寄せられた。
薄く焼き上げられたパイ生地に、とろりと甘いカスタード、そして艶やかに輝く真紅のいちごが花のようにあしらわれている。
ナイフを入れるのがもったいないほどの美しさ。
「どうぞ。君のために用意したものだよ」
グレイソンの声に背中を押されるように、アリアはナイフとフォークを手に取った。小さく切り分けて、一口——
「……んっ……おいしい……」
目を細めて、思わず頬がゆるむ。
甘酸っぱい果汁が口の中に広がり、優しい甘さが舌にとろける。まるで春の午後に咲く花の香りがそのまま味になったような、そんな味わい。
「アリア嬢、お口に合いましたか?」
アリアはこくりとうなずいて返す。
「はい、とても……こんなにおいしいタルト、初めてです。」
――彼女が笑うだけで、空気が柔らかくなる。
紅茶の香りも、日差しのぬくもりも、すべてが彼女の存在に彩られているように思えた。
「……君が美味しそうに食べてくれるなら、それだけで今日の紅茶会は成功だ」
グレイソンがそっとつぶやくように言う。
アリアはそれに気づかず、またひと口、タルトを運んでいた。
甘くてやさしい午後。
それは、優雅で静かな時間の始まりだった。
陽が少し傾きかけ、紅茶の香りも落ち着いてきた頃。
マダムたちは席を立ち、庭の花を見に行くということで、温室の奥に移動していた。
テーブルには、アリアとグレイソン、ふたりきり。
アリアはカップを手にしたまま、少しぼんやりと窓の外を眺めていた。頬は紅茶の温かさと甘いお菓子でほんのり色づいていて、その横顔は、まだ夢のなかにいるように柔らかい。
「……どうかした?」
グレイソンの声に、アリアははっとして、慌てて笑った。
「いえ、ただ……今日は楽しくて、なんだか夢みたいだなって」
そう言ってふわりと笑ったその瞬間、アリアの髪が肩からすべり落ち、陽光を受けて金色に輝いた。
無防備に揺れるその髪に、グレイソンの手が自然と伸びる。
「……そうか。じゃあ、夢の続きをしようか?」
彼の指先が、アリアの髪をそっと撫でた。
驚いて目を見開くアリアに、彼は微笑む。
「君は、こんなにも無防備で……本当に罪な人だ……」
「……えっ!?」
「可愛すぎる、という意味だよ。」
グレイソンの優しい声が、風に乗って耳元をくすぐる。そっと彼女の指先を見つめながら、声を落とす。
「……アリア嬢。あなたが好きです。もっとあなたを知りたいし、誰よりもそばにいたい。僕に……その場所をもらえませんか?」
「……そんな……急に……」
頬がぽっと熱くなる。アリアが目をそらすと、グレイソンは少しだけいたずらっぽく微笑んだ。
「……グレイソン様……」
目が合う。声が震えるほどに、心が揺れた。
彼の顔が少し近づいてきた。ほんの一瞬、このまま――と思ったけれど。
「……っ!」
アリアはふいに立ち上がり、椅子がわずかに軋んだ。顔は真っ赤で、視線は合わせられない。
「ご、ごめんなさい……私、少し風に当たってきます!」
そう言い残し、彼女は庭の奥へと小走りに去っていく。
後ろから追いかけてくる気配はない。けれど、心の中にはグレイソンの熱が、確かに残っていた。
(こんな気持ち……初めて……)
アリアは胸に手を当てて、真っ赤な顔を隠した。
先に庭に来ていたマダム達が噂話に
花を咲かしていた。その会話に聞き覚えの名前が耳にしたアリアは耳を済まして聞いていた。
「そういえば、聞きましたか? 王国西側の辺境伯領——あそこ、最近また治安がかなり悪くなっているそうですのよ。」
「まあ……それで、誰が対処なさるのかしら?」
マダムの一人は扇子を軽く仰ぎながら言った。
「聞いた話では、キース伯爵が向かわれるとか。あの方しか適任がいないそうですわ」
「まぁ……」
周囲が驚きに小さくざわめく中、アリアの手が止まった。
(……えっ? ……キース様、何処か行っちゃうの?)
その言葉が思わず口から漏れてしまいそうに、アリアは口を手で押さえた。
「まあ、彼のような騎士が動くということは、それほどに事態が深刻なのでしょうね。」
アリアは胸の奥がきゅっとなるのを感じた。
彼が危険な場所に行くかもしれないという不安と、ふだん身近にいた人が遠く離れるかもしれないという寂しさ。
(……どうしてこんなに胸が苦しいの……?)
マダムたちの会話は、耳に届くものの、言葉の一つ一つが空気のように感じられていく。
彼がいなくなるかもしれないという事実が、どうしてこんなにも胸を締め付けるのだろう。
その思考にとらわれて、マダムたちの笑い声も、すべてが遠く感じられる。
アリアはそっと目を伏せた。
「アリア嬢、どうかしたの?」
ふと、グレイソンの声が響く。
その一言に、アリアは我に返り、ぎこちなく顔を上げる。
でも、すぐにまた気づく——彼の視線が、どこか優しさを湛えていることを。
「い、いえ……なんでもありません。」
「そうかい?」
グレイソンは微笑んだまま、しかしどこか心配そうにアリアを見つめる。その目には、彼女が抱えているものを感じ取っている様子がうかがえた。
その後、紅茶会は静かにお開きとなり、マダムたちはさりげなく席を立ち、礼儀正しく別れを告げて去っていった。
「さて、アリア嬢。楽しいひとときはあっという間ですね。」
グレイソンが立ち上がり、優雅に手を差し伸べる。
アリアは小さく息をついて、立ち上がる。
その瞬間、ふと気づく——彼の手のひらが温かく感じられた。
「本日はお招きありがとうございました、グレイソン様。お茶もとても美味しかったです」
「僕こそ、楽しいひとときを過ごさせてもらいました。」
彼は優しく微笑みながら、アリアの目をじっと見つめた。
空気が変わった。さっきまで賑わっていた部屋が、嘘のように静まり返っている。
グレイソンは椅子を立ち、ゆっくりとアリアの隣に腰を下ろす。
近すぎる。そう思って身体を引こうとした瞬間、彼の手がそっとアリアの手首を取った。
「……グレイソン様……」
アリアの声はかすれていた。頬は紅潮し、唇は何度も開いては閉じられ――その瞳に宿る迷いが、彼女の心の中を映し出していた。
返事ができない。
けれど、何も言わなければ、グレイソンの真剣な想いを否定してしまうようで――。
沈黙が、重く、胸を締めつける。
「取り込み中のところ、悪いが――」
その空気を断ち切ったのは、低く響く男の声だった。
振り返れば、黒衣に身を包んだキース・アークレイン伯爵が、何の前触れもなくそこに立っていた。
「……キース様?」
アリアが驚きの声をあげるより早く、キースは鋭い視線をグレイソンへ向ける。
グレイソンが掴んでいたアリアの腕を離しキースを見た。
「“例の件”で話がある。少し、時間をもらおうか」
グレイソンはわずかに眉をひそめる。その表情には苛立ちと、警戒と、どこか焦りが混ざっていた。
「……その件は、断ったはずだよ」
「俺は納得していない。だから、改めて確認しに来た」
キースの声は淡々としているのに、不思議と場の空気を支配していた。彼の存在が、まるで暗闇の中に差し込む冷たい風のように、場を引き締めていく。
アリアはその場に居ることが、だんだんと苦しくなってきた。
「――あの、私はもう……失礼します」
そっと一礼し、アリアは踵を返す。静かに、この場を離れようと。
だが、その時。
「待て」
短く、けれど強い言葉が背中に刺さる
アリアが立ち止まると、キースはまっすぐにグレイソンを見据えたまま言った。
「……もし、アリア嬢も同行するとしたら?」
静寂が落ちた。
グレイソンの眉がぴくりと動き、アリアの胸が高鳴る。
「……どういう意味だい?」
「その“例の件”、俺と話し合うなら、アリア嬢の目の前でやる。それが条件だ」
まるで駒をひとつ動かすように、キースは淡々と告げる。けれどその声には、確かな意志が宿っていた。
「彼女の関わる話だ。本人を置いてきぼりにはしない」
グレイソンがゆっくりと視線をアリアへ向ける。彼の目には、ほんの僅かに焦りがにじんでいた。
アリアは思わずキースを見る。彼の横顔はどこまでも冷静で、揺るぎがない。
――一体、何を考えているの……?
そして、自分は――このふたりの間にいて、どうするべきなのか。
「……何をおっしゃってるの?キース様?」
グレイソンの声が震える。優雅な微笑みの裏に、確かな怒りがにじんでいた。
「正気か? アリア嬢をその件に巻き込むつもりか? 彼女は――ただの淑女だぞ」
キースは目を細め、肩をすくめる。
「“ただの”なら関係ない。だが、そうじゃない。……お前も、気づいてるんじゃないか?」
その声音には皮肉とも、挑発とも取れる色が混じる。グレイソンの瞳が鋭く揺れた。
「やめろ……彼女を、巻き込むな……!」
「もうとっくに巻き込まれてる。気づいてないのは、お前だけじゃないか?」
一歩、キースがアリアの前に立った。
「アリア嬢が決めることだ。彼女の口から聞こうじゃないか」
アリアは戸惑いながら、ふたりを見つめる。
「近いうちに俺は辺境伯領に、ある任務で向かう」
キースの落ち着いた低い声が、夜の空気に溶ける。アリアは思わず息を呑んだ。
(さっきマダム達が噂してた……“黒の騎士団が動く”って)
「俺の部隊、“黒の騎士団”が力で制圧する。……そして」
一拍置いて、キースはちらりとグレイソンを見た。
「参謀として、グレイソンも同行する」
その名を聞いた瞬間、アリアの胸にざわりとした不安が広がる。さっきまであんなに優しかったのに、グレイソンの目が一瞬だけ、冷たく光った。
「まさか……二人で?」
「いや――」
キースがアリアに視線を戻す。
「“三人”になる可能性もある。……お前が、来ると言うなら」
静かな提案。けれど、それはアリアの胸を激しく打った。
「私が……?……どういう意味?」
アリアは気づけば問いかけていた。自分の口からこぼれた言葉に戸惑いながらも、キースから目を離せなかった。
「俺が“力の象徴”。お前が“信仰の象徴”。……そして、グレイソンが“理の象徴”だ」
「……象徴?」
意味を噛み砕こうとするアリアに、キースは再び正面を向いた。
「辺境の任務はただの戦じゃない。そこには“国の形”を問い直す意味がある。力だけでは支配になり、信仰だけでは統治にならず、理だけでは人は動かない」
言葉に込められた重さに、アリアは思わず息を呑んだ。
「その三つが揃って、ようやく一つの未来をつくる。……だから、三人で行く」
キースの目には迷いがなかった。
アリアは、彼の言葉の中にあるもう一つの意味――“選ばれている”という感覚に、胸が熱くなるのを感じた。