幼い笑顔と忠誠
晩餐会の賑わいを抜け、静かな庭園を歩いていたキースとアリア。
涼しい夜風が、ドレスの裾を揺らす。
『お前が自分らしく、心から信じられる道を歩むことが、最も大切だ。』
『お前が倒れたら、俺が支える。』
アリアは少し黙り込むが、キースの言葉が少しずつ彼女の心に届いていくのを感じる。彼女は何かを決心したように、顔を上げ、キースに向かって静かに言った。
「私、まだその道がどこに続いているのか分からない。でも、少しずつ、私は自分の道を歩んでいきたい……」
(その道はまだ真っ暗で怖いけど……支えてくれる人が居るから……)
言葉と同時に、キースはアリアの手をぐっと引き寄せた。
思わずバランスを崩したアリアを、彼はしっかりと抱きとめる。
「きゃっ……!」
驚きに目を瞬かせたアリアの耳元で、キースが低く囁いた。
「……また、逃げようとしたら……罰だぞ?」
ぞくりとするほど近い距離。
心臓が跳ねる音が、自分でも恥ずかしいくらいに響いていた。
必死に顔を赤らめながら、アリアは小さく頷く。
その様子を満足そうに見下ろし、アリアとキースはゆっくりと庭園を後にした。
――二人が晩餐会の会場へと戻る、セドリックが待っていた。
「お帰りなさいませ。」セドリックは一礼しながら言った。その言葉の中には、わずかな安心感とともに、アリアが無事であることへの確認が込められていた。
アリアは少しホッとしたように微笑み、セドリックに向かって歩み寄った。
「セドリック、ありがとう。お待たせしました」
セドリックの目にはアリアが先程より輝いて見えた。
「お嬢様が無事でなによりです……」
眼鏡の奥の瞳が和らいだ
――聖剣の乙女、アリア様。
国にとっては希望の象徴であり、神託の加護を受けた存在。
けれど私にとっては――まだ紅茶に三つも角砂糖を入れて、甘すぎると首を傾げる、お嬢様のままだ。
彼女は、己の役割に気づかず、ただ笑っている。
それがどれほどの強さか、どれほどの脆さか……彼女自身は分かっていない。
だからこそ私は傍にいる。
誰かが、彼女の「幸せ」と「らしさ」を守らねばならない。
それがたとえ、国の望みと違おうとも――聖剣の意志すら敵に回そうとも。
……あの方の笑顔が、何よりも正しく、美しいのだと、私は知っているから。
――お嬢様と初めて出会ったのは、まだアリア様が物心ついた頃だった。
皆既日食の瞬間に生まれたというだけで、周囲はまるで神を崇めるように彼女を扱っていた。
けれど当の本人はというと――
ふわふわの髪に、きょとんとした瞳で、庭の花をむしっては「おかしの味がしそう」と言っていた。
私はその時から傍に仕えるようになったが、彼女は特別な存在というより、ただの「アリア様」だった。
無邪気で、自由で、少し天然で。
誰よりも怖がりなのに、誰よりも優しくて、
そして、どこか……人としての儚さをまとっている。
彼女が「聖剣の乙女」だなんて、私にはどうしても実感が湧かない。
――何時しか
幼いアリア様が日に日に暗い顔で過ごし始めた。
振り返ると、小さな影が静かにその庭の隅に座り込んでいた。アリア様だった。その小さな肩を抱え込むようにして、地面に座り込んでいる。顔を下に向け、視線が暗く沈んでいた。
「アリア様…?」セドリックは軽く声をかけた。
彼女は少しだけ顔を上げる。だが、その目には涙の痕が見えた。やはり、聖剣の乙女としての責任を負わされる日々に疲れ、ついには逃げ出してしまったのだろう。
セドリックは無言で歩み寄り、彼女の前に膝をついて座った。しばらく彼女を見つめていたが、沈黙を破るのは少しも難しくなかった。
小さな皿に乗せられたスイーツは、まるで彼女の顔を少しでも明るくするような色合いだ。苺のタルト、鮮やかなレモンケーキ、ふわふわのカスタードクリーム…。どれも幼いアリア様が好みそうな甘い香りを漂わせていた。
アリアはセドリックの手のひらに乗ったスイーツを見つめ、少しだけ驚いた表情を浮かべる。
「…これ、どうして?」と、彼女は小さな声で尋ねた。
セドリックは少し肩をすくめ、軽い笑みを浮かべた。
「アリア様が悩んでいるのを見るのは忍びないからです。少しでも笑顔を見せてくれれば、それだけで十分」
彼は無理に笑わせようとはしない。ただ、心を込めて渡したスイーツが、アリアの心を少しでも癒やしてくれることを願っていた。
アリアは目をそっと細めて、セドリックから渡された一つの苺タルトを手に取った。少しだけ慎重に、そしてゆっくりと口に運ぶ。その甘さが舌の上で広がった瞬間、アリアの顔にわずかに表情の変化が浮かんだ。
「美味しい…」と、ようやく小さな声で言った。
その言葉が、セドリックの胸にじんわりと響いた。どこか切なさを感じさせるその声に、彼の中にあった厳格さや冷たさは一瞬だけ和らいだ。
「それは良かったです」
セドリックは柔らかく答え、立ち上がろうとした。しかし、その手が少しだけアリアに触れた瞬間、彼女はすぐに顔を上げて、目を見開いて言った。
「ありがとう、セドリック」
その言葉には、涙をこらえているような、でも確かな感謝の気持ちが込められていた。
セドリックは少し驚き、すぐに無理に笑わないよう努める。
「アリア様……気にすることはないのです。少しでも笑顔を見せてくれると、それで満足ですから……」と静かに言い、彼女の隣に座り直した。
しばらくの間、二人は何も言わず、ただ静かな庭の空気の中で、時間がゆっくりと流れていった。
アリア様が聖剣の乙女としての存在を隠し続ける日々。それを表に出さず、まるで普通の令嬢のように振舞っている。
「お嬢様、聖剣の乙女としての運命を受け入れる必要はありません」
セドリックは心の中で幾度もそう思った。しかし、彼女の選んだ道を尊重し、その笑顔を守るために、彼は沈黙を貫いていた。
表沙汰にしないことで、周囲はアリアがただのお嬢様として過ごしていると思っていた。
聖剣の乙女に生まれたという事実を隠し続けることで、アリアは少しでも普通の生活を手に入れようとしていた。
「お嬢様が幸せそうに過ごしている間は、私も何も言わず見守り続けるべきだろう」
セドリックはその覚悟を決めるたびに、自分に言い聞かせていた。しかし、アリアの笑顔を守りたいという気持ちは、彼の胸の中で強く膨らんでいった。
アリアが聖剣の乙女として名を馳せることは、もはや世間に知られなくなり、彼女の存在はただの一人の貴族令嬢に過ぎないと思われていた。
しかし、彼の心の中には、どこかでその秘密を抱えたまま過ごすことに対する不安もあった。聖剣の乙女としての運命から逃げることができるのなら、それはどんなに素晴らしいことか。しかし、アリア様がこのまま何も知らずに生きていけるわけではない。その時が来ることを、セドリックは知っていた。
その「時」が、果たしていつ来るのか――セドリックはその時が来る前に、何とかアリアを守り抜く覚悟を心に決めていた。
――その運命がどれほど過酷なものであろうとも、
私はきっと、彼女を「幸せに笑うアリア様」として守りたいのだ。
お嬢様は今や立派な年頃のご令嬢――のはずなのだが。
「セドリック、あの本取って〜……あ、やっぱお昼寝してからでいいや……」
そう言って、昼下がりの陽だまりでくたりと寝転ぶ姿は、幼い頃と何も変わらない。
ドレスよりも部屋着が好きで、色気よりもお菓子。
格式ある淑女として振る舞うより、猫のように気ままに過ごす日々。
だらしないと言えばそれまでだが――私はこの穏やかな日常が、たまらなく愛おしい。
「ねぇ、セドリック。私、ずっとこのまま実家にいてもいいかな?あなたと一緒に」
そうぽつりと呟かれた言葉に、私は一瞬、返事が遅れてしまった。
その想いが無邪気なものであっても、私にとっては――
まるで長年の祈りが報われたように、胸を満たすには十分すぎるものだった。
「……ええ。アリア様がそう望まれる限り、私はここにおります」
この家で、彼女と共に四季を重ねる。
それが叶うのなら、私はいくらでも「執事」でいよう。
たとえ彼女の運命が動き出すその日まで――。
――頭ではわかっています。
アリア様が誰かに嫁ぐことが、何よりも一番の幸せなのだと。
――アリア様がひとりで街に出かけるという……。
令嬢がひとりで出歩くなど、普通なら信じられません。
――朝から私と目が合わせないのも気になります。
様子を見に遅れて街に入ったセドリック。
焼きリンゴの甘い香りが、ほのかに漂っていた。
アリアお嬢様は、にこにこと嬉しそうに焼きたてを頬張っている。
隣のキース様も、珍しく穏やかな顔をしていた。
(……ほう。こんなに機嫌がいいキース様は、なかなか見られないな)
少し離れた場所から見守るセドリックは、目を細めた。
だが――それも束の間だった。
アリアが、最後のひと口を食べ終わった瞬間。
「っ……!」
アリアが驚く間もなく、キースはその唇を奪った。
強引に、ためらいもなく――甘やかすことなく。
セドリックは顔をしかめた。
(やっぱり、キース様は容赦がない……)
アリアは、焼きリンゴの甘さにほころんでいた顔のまま、されるがままに口付けを受けていた。
(……無防備すぎます、お嬢様)
胸の中でそう毒づきながらも、
セドリックは静かに視線を逸らした。
(あれを今、止められる者などいない……)
焼きリンゴよりも甘い、
けれど危うい時間が、確かにそこにあった。
(……ただの焼きリンゴですよね?)
(なぜそこから、口付けに繋がるんですか、キース様……!!)
――今の2人を見ていると、アリア様を恐怖から守るために、あえて外の世界から遠ざけ、傷つけないように私は閉じ込めていたのだろう。
それは愛情の一種だったかもしれない。だが、アリア様にとっては、自由を奪う檻でしかなかった。
一方でキース様は、アリアを「籠の鳥」として扱わなかった。
彼女自身が持つ翼を信じ、飛び立つ力を信じ、そっと手を差し伸べたのだ。
助け出すのではなく、選択を委ねる──飛び立つか、留まるか、それはアリア自身の意志に任された。
セドリックとキース、二人の想いは、どちらもアリアを大切に思うがゆえの行動だった。
けれど、その愛の形は、決定的に違っていた。
それでもどうか忘れないでください。
優しい声に隠された、決して揺るがぬ意志。
「『聖剣の乙女』であることなど関係なく。
貴方らしく過ごせる日々を――私はこの手で、必ず守ります」
彼女の背を、静かに見送るその瞳に宿るのは、誰より深い忠誠。
―――晩餐会からの帰りの馬車。
疲れていたのか、窓の外を無言で見つめていた。
――庭園で、キースと二人きりになった事を思い出す。
そして……。
(……あれは、夢だったんじゃ……)
アリアは顔を両手で覆った。頬が熱い。
頭に浮かんでくるのは、キースのまっすぐな瞳と、そっと触れた彼の指先。
「お前が倒れたら、俺が支える。」
あの時の低くて優しい声。
その言葉を思い出すたびに、胸がぎゅっと締め付けられる。
(支えるって……あんな、真剣な顔で……)
思い出すだけで、もうだめだ。
顔から火が出そうに熱くなる。
向かえに座っているセドリックが、そんなアリアを見て呆れた顔をした。
「……顔が真っ赤ですよ、お嬢様。熱でも?」
「ち、違いますっ!」
慌てて手を振るアリア。
しかしその仕草すら、挙動不審で、さらにセドリックの冷たいツッコミが飛んでくる。
「……どうせ、あの伯爵のことでも考えていたんでしょう。」
図星すぎて、アリアは何も言えなかった。
「…………っ!」
「……違います……たぶん……きっと……」
「飲み込めてないなら、顔に出すのをやめたらいかがです?」
冷たく言い放ち、セドリックは小さくため息をついた。
アリアの心臓はずっと、落ち着かなかった。
あの言葉を、あの温もりを、忘れられるわけがない。
(……キース様の、あの手……あの声……)
再び顔が真っ赤になり、アリアはこっそりと壁に頭を打ちつけた。
(あああ、もう……!)