5.始まりの約束
健星が投影機を抱えて軽自動車に乗り込むと、車体はその重みで僅かに傾いた。
車内には濁っているが温い空気が漂っていて、健星は気が抜けたような溜息を1つ吐く。
エンジンを掛けようとして、ふと後部座席を振り返った。座席とは名ばかりの、雑多な必需品で満たされた備品庫。そこには小柄な人間がどうにか座れるぐらいの穴がぽっかりと空いていて、健星に微かな喪失感を意識させた。健星は被りを振って前を向いた。これ以上考えると、今までに失ったものも、これから失うものも、芋づる式に何もかも思い出しかねなかった。
「行くか」
「うん」
1人と1つ。
死を振り撒くペイルライダーと、既に死んだホログラム。
その形に戻っただけだ。
車のエンジンがかかり、のろのろと前に進み出す。
バックミラーには、地に伏す軽戦車と、その頭上の機銃にもたれ掛かる、たくさんの花冠を抱えた少女が映っていた。まるで、抱き合っているかのように。はたまた、何かのモニュメントのように。
車窓から見える風景に、もう墓標は映り込んではいない。
斜面の隙間にある僅かな平面は自動車4,5台分のスペースを維持したまま山体に沿ってなだらかにカーブし、今のところ見えるのはフェンスと更地だけだった。
「まだ、気乗りしないのか?」
「うん。最高の状況だってことは言われなくても分かってるけど、それでも……」
明詩のホログラムは投影されていなかった。
助手席にあるのはただの黒い箱。健星が独り言を呟いているように見える。
「ばあちゃんとアンボイナさんに遠慮しているのか?」
「ううん。使えるものは使える人が使った方がいいんだって私も思う。おばあちゃんだって、私たちがそうするだろうって分かっててお墨付きをくれたんだろうし」
「なら……」
「私が気にしてるのは、もっと即物的なことなの」
「ん? それはなんだ?」
「外見」
「あぁ……。確かに大事だなぁ」
健星はそう言うと、堪え切れなくなったように小さく笑い声を零した。
「ねぇ、こっちは真剣なんだけど」
低い声で窘められ、健星はわざとらしく深呼吸をして表情を整える。
「俺は、明詩がどんな姿だろうが、一緒にいられるのなら大歓迎だ。例え、筋骨隆々のボディビルダーでもな」
そう言った途端、また我慢できなくなったようで健星は笑った。今度は声を上げて。
「ちょっと……! 私で変な想像しないで! 男だった時点で絶対に移らないから!」
明詩は声を上げて抗議したが、途中で自分でも可笑しくなってしまったようで笑い出した。2人はしばし声を上げて笑い合った。
波が引くように2人の笑い声が消えきるよりも早く、眼前に大きな建物が見えてきた。平地に収まりきらなかったようで、斜面の上の方にも2層ほどの建物が乱立している。その合間を階段や連絡橋が繋いでいた。
入口へと続く舗装路はフェンスに隔てられていたが、今は開け放たれていた。フェンスに張り付けられた立て看板に、この土地の所有者の名称が載っている。
新州重工。
ここは全国に数か所ある、筐体製造企業の国内最大手が所有する研究所の1つだった。
そして、アンボイナが守り抜き、和恵が勝手に使えと言い残した、1体の筐体が保管されている場所のはずだった。
軽自動車をフェンスの前に止め、扉を開こうとした健星に明詩が脈絡のない話題を振った。
「ねぇ、ドクと出会ってすぐの頃にさ、健星を初めて診察したあの人が言ったこと、覚えてる?」
健星が手を止めて、思い出す素振りもなく答えた。
「あぁ」
その名の通り、博士であり医者でもあった狂った優しい男。初対面であったその男が挨拶を交わすよりも早く言い放った、思慮分別の欠片もない言葉。
『君は、人類最期の1人になるべくして生まれてきたみたいだネ』
興奮冷めやらぬといった表情で語られたその後の診断結果と共に、健星は今でも鮮明に思い出す。
その自信に満ち溢れた断定は健星を暗澹たる気持ちにさせたが、今のところ間違ってはいないようだった。あれから生身の人間には出会っていない。動いているのは壊れかけの機械ぐらいだった。
「私が筐体に移れたとしても、せいぜい寿命が2.3年延びるだけ」
複雑な表情をする健星に、明詩が止めを刺すように言った。
ホログラムが点灯する。
助手席に青白い明詩の上半身が現れる。
彼女は這うようにして運転席の健星に迫った。
「でも、私だって、健星の前で2回も死ぬのは嫌だ。だって、それじゃあ不平等でしょ?」
目を細めて、健星を見つめて言った。
それは、いつもと違う答えだった。
健星はその事実に気が付いた瞬間、はっとした表情で目を見開いたが、すぐに満面の微笑みを見せた。
「じゃあ、2.3年以内に新しい延命方法を探さないとな」
「期待してる」
「任せろ。何か注文はあるか?」
「何も。この際、どんな姿でも妥協してあげようと思う」
「筋骨隆々のボディ……」
「それは駄目」
健星は扉を開けて舗装路に降り立った。助手席に置かれた投影機が脚を出して椅子の上を跳ね、健星の胸に飛び込んだ。健星は投影機を両腕で受け止めると、ホログラムの明詩が健星の肩にすとんと座った。澄ました顔をしているが、口の端が堪え切れなくなったかのように少しだけ緩んでいた。
雲1つ無い青空が広がっていた。
吐く息は白く、露出した耳や指先は瞬く間に真っ赤になる。
凍える寒さは生きていく糧を少しずつ削り取っていくようでもあり、やがてそれは鈍い痛みに代わり、思考の過半を占拠する重石になる。
何もかもが覆い隠されていく。
終わりは近かった。
意識するまでもないほどに。
「さてと、明詩の新しい身体を拝みにいくか」
それでも、朗らかに呟き、健星は明詩を抱えたまま歩き出す。
音の絶えた世界に1人の靴音だけが響き、そして、消えていった。