4.今際の言葉
視界の隅、200メートルほど先に見える、墓地入り口近くの事務所らしき建物の傍にも、光の柱は降っていた。
そして、その光を巨大な金属の塊が一身に受けていた。
軽自動車よりも一回りほど小さな胴体。そこから履帯が巻かれた4本の長い脚が伸びている。高さは事務所の2階部分の窓に達するほどで、まるで自動車が脚を生やして自在に歩き回りだした、とでも言うしかない風情だった。
前面の両端では照明とセンサーが陽光を反射して赤く光っていて、開き過ぎたその間隔が、両生類の無害そのものといった間の抜けた顔面を連想させた。
だがしかし、これこそが――
「軽戦車? まさか……?!」
健星がうわ言のように呟いた。
手は無意識のうちに腰に掛けた自家製のホルスターに当てられていたが、拳銃弾が効くような相手ではなかったし、そもそも弾などなかった。
「健星」
明詩の押し殺すような音声がした。
健星が我に返り声がした方へ向くと、視界の下端に細い脚の生えた四角く黒い箱があった。既に頭上のホログラムは消えている。その外見は、どことなく遠方に構えている軽戦車に似ていた。
「明詩、あれはさっきまで居なかったよな?」
健星は明詩の元へとじりじりとにじり寄りながら言った。
「もちろん」
箱から少女の音声。
「全く動かないけど、どうする……?」
次いで切迫した調子で尋ねた。
突如現れた軽戦車は微動だにしなかった。
上面の両端から触角のように突き出ている2挺の機銃は、銃口を健星たちへと向けたままだった。
雲が風に流されて、光の柱が軽戦車の表面を舐めるように這いながら去っていく。
じりじりと足を滑らせるように移動していた健星の靴が、投影機のタイヤにこつんと当たった。
「逃げるぞ! 明詩!」
押し殺した、緊張感を孕んだ声。
健星は明詩を脇に抱えると、軽戦車には目もくれずに全速力で駆け出した。
目指したのは、低い柵で隔てられている崖の方角。
2人の生命線そのものである軽自動車の放棄は、健星の頭の中ではとうに決定事項だった。
死線で欲を出せば死ぬ。
生きてさえいれば大体どうにかなる。
このたった2つが、健星が今までの人生の中で得た真理とも呼ぶべき教訓だった。
故に、迷いすらしなかった。
崖が死ぬほどの角度でないことは、既に確認済み。あとは程々の負傷で済むことを祈るのみ。
軽戦車が動く前にその視界から脱出できるかどうかが全ての境目だった。
健星が墓標の群れの間を縫うように駆け抜ける。
しかし、僅かに間に合わない。
健星と崖の間を断絶するように機銃弾が着弾する。
まるで巨大な怪物の口内で噛み砕かれたみたいに、スチール製の墓標が粉々になって四方に弾け飛んだ。
頬と手の甲を墓標の破片で切り裂かれながら、健星は何とか銃弾とスチール片の暴風域の中に突っ込む前に踏み留まった。
続く、爆発音じみた銃撃。
健星が方向転換しようとしたのを敏感に予知して、攻撃先が移動予測地点へと移る。
その向こうからは、軽戦車が駆動音を唸らせながら、猛然と健星に迫ってきていた。
散発的だが、着弾音だけで恐慌をきたさせるほどの密度の銃弾のスコールが、健星に1歩踏み込むことすら許さない。
僅か数秒で、軽戦車は健星の眼前に辿り着いた。
健星は束の間茫然として、その巨体を見上げた。
背後から陽光が差していた。
雪の粒が両者の合間を通り過ぎていく。
影を纏ったその機械は、何の情動も感じられないセンサーで健星を見下ろしていた。
全てを諦め、身体は項垂れようとしていた。
しかし、健星は震えて使い物にならなくなりそうな腕に強引に力を入れて、投影機を握ろうとした。それを崖の先へと投げ入れる為に。今すべきことなど、それぐらいしか思い浮かばなかった。
だが、健星の手は空を切る。
健星の手が動き出すより僅かに早く、投影機から伸びた脚が健星の脇腹を蹴って地面に着地した。
軽戦車の腹部から精密作業用のアームが健星へ向けて伸びる。
「逃げて!」
投影機が4つ脚を発条ばねのようにたわませアームに取り付いた。アーム先端の3本指の1本をへし折ろうと2本の脚が絡みついた。だが、どう見ても力負けしている。
軽戦車は眼前の健星を忘れてしまったかのように、心底うざったそうに機銃の銃口を投影機に向け直した。
ホログラムが灯る。
呆然と立ち尽くす健星の目の前で、投影機の上に行儀悪く胡坐をかいて座り込んだ明詩が映った。滅多に下ろさないマスクを下ろし、白い歯を見せて満足げな笑みを浮かべながら、健星に向けて小さく手を振った。
「バイバイ」
「……っ!」
健星は声にならない悲鳴を上げた。
そして、同時に、もう聞こえるはずのなかった音声が墓地に響き渡る。
◆◆◆
「アンボイナ」
墓標の群れの合間に、まるで彼女そのものが墓標の1つであるかのように、喪服の少女が立っていた。
軽戦車は壊れたように、機銃を明詩に向けたままの状態で静止していた。
止みつつある雪が疎らに舞う中を、喪服の少女は右脚を引き摺りながらゆっくりと進んだ。
「約束の埋葬だが、あと少し待て」
健星の隣に時間をかけて辿り着いた喪服の少女は、その見た目に似合う鈴のような音声で、感情を一切含まない固い言葉を健星に放った。
健星を見据える表情は何も浮かべてはいなかった。表情再現機能は、そもそも組み込まれていない。
健星は呆然として、昨日事切れたはずの筐体を眺めた。そして、状況を理解しようとするのを一旦投げ出したように深い溜息を吐くと、軽戦車のアームと組み合ったままの投影機を両手で引っこ抜き胸元に抱き寄せた。喪服の少女を見て、きょとんとしたままのホログラムの明詩を腕の中に収めると、脱力しながらその場に座り込んだ。
喪服の少女はその様子を一瞥すると、未だ静止したままの軽戦車の履帯に手を触れた。
「まだ生きていたか……。律儀なことだな」
小柄な明詩よりもさらに小さい背丈で、軽戦車の照明とセンサーが寄り集まった目に見えなくもない部分を見上げた。
明詩を捉えていた機銃が待機位置に戻り、巨大な機体が少女へ頭を垂れるように姿勢を低める。
「移植用の筐体は無事か? 破壊も強奪も、許してなどいないだろうな?」
照明が短く明滅する。
「そうか、大儀であった」
少女は両腕を持ち上げようとした。
しかし、左腕は肩関節と指先数本が微かに軋むのみで、それ以上動くことはなかった。
動く右腕が滑らかとは程遠い挙動で、軽戦車の照明を摩った。
「だが、肝心のあれはとうの昔に死んでいたよ。死体は儂が直接確認した。貴様らの命を賭した働きも、全てが徒労に終わったというわけだ」
嘲るような口調で少女は吐き棄てた。
しかし、それを聞いたであろう軽戦車は、3本指のアームをか弱い相手を配慮するかのようにゆっくりと動かし、少女の細い手を丁重に包んだ。
少女が無表情のまま微かに鼻を鳴らした。傍目には咳き込んでいるのと殆ど変わらない挙動。
「ところで、何故喋らない? 既に人格すら棄てたのか?」
少女が答えを待つように軽戦車を見据えた。
軽戦車は動きもせずに視線を受け止めるばかりだ。
長い沈黙が辺りを支配し、少女が耐えかねたように言葉を発しようとした時だった。
「いいえ……」
どこからともなく若い男の声がした。
見計らったかのようなタイミングだった。
「正常に、さど……作動して、おります。再起動し、したのは……つい……先ほどです、が」
「どこが正常だ。もはや、まともに喋ることすらままならぬではないか」
表情を浮かべることができたなら、冷笑していただろう。
その音声はどこまでも相手を配慮する意思など感じさせなかったが、自らの手を握るアームを振り解こうとはしなかった。
「儂とて、人のことを笑えんがな。この身体は既に死んでいるようなものだ」
「わ……私も、この心は既……に死んでい……よううな……な、も、で……」
軽戦車の車体が上下に細かく揺れた。
どうやら、笑っているらしい。
喪服の少女がじっと見つめる中、軽戦車は2本のアームで真綿でも掴むように、慎重そうに少女を抱き抱えると、センサーの上に腰掛けさせた。親が我が子をその肩に乗せるように。少女は成されるがままだった。
軽戦車は目の前に座り込んでいる健星の方を向いた。
「さ……先ほどは、たい……申し、訳あり……りません、でした。人間に……銃、銃口をむけ……るなど、あって、て、てはならない……ことなの、ですが、さい……んは延命の……為にほ、施した人格……休眠、の、再起動……す、ら、思い通りにな……い、始末、で。ど、ど……うお詫びを、すれ、ば……よいのや、ら……ら」
健星は眼前の視界をほぼ占領する軽戦車を見上げた。
射撃された時の威圧感は、殆ど霧散しているように思えた。
言葉を喋ると、愛嬌がある顔に見えなくもない。
「別に構わない。出会い頭の不幸な衝突はよくあることだし」
健星がさらりと、本当に何も気にしていないかのように返した。
明詩はそんな健星を横目で睨みながら何か言い加えようと口をもごもごさせたが、結局は言葉になかったようで、マスクを再び口に被せた。
「あ……ありが、とう、う……ござい、まま、す」
軽戦車は車体を水平に戻した。
「と……と、ところ、で、わ、私の……任務……は、終わ、わ……た、ので、で……しょうか?」
「そう言っている」
軽戦車の頭上に乗った少女が答えた。
「そ、そ……うです、か。無念、ん……で、すす、が、な、ぜ……なぜだか、少し、安心、しし、たよう……な心地がし、ま……ま、ま、ままままままままま……」
陽光が軽戦車の元に差し込んだ。
少女は微かに上を向いたが、軽戦車は全く反応しなくなった。
雪が、止んでいた。
地表に薄く積もった雪は光に照らされて、既に液化し始めている。
「おい、アンボイナ」
少女が呼んだ。
珍しく少し焦ったように。
だが、返答はなかった。
薄雲が散り散りになり、濃紺の寒空の向こうへ消えていく。
少女がマイクのハウリングのような雑音を鳴らした。どうやら深い溜め息をついているようだった。
「勝手に逝ったか……」
健星たちが黙って見守る中、少女は自分を納得させるように呟くと、再び2人を見下ろした。
「さて、今度こそ全ての用は済んだ。この筐体を埋葬しろ。このでかい鉄屑の分もついでにやれ」
あくまで不遜だった。
健星は投影機を地面に置くと、立ち上がって、取引相手を値踏みするような視線をぶつけた。そして微笑んだ。
「俺たちは埋葬をしたくなくなったんだ。だから、代わりと言っちゃなんだが、花でも添えようかと思ってたんだ。それでも構わないか?」
「好きにしろ」
健星が頷く。
その間に、明詩が口を挟んだ。
「おばあちゃん、名前は?」
「和恵」
少女は素っ気なく答える。
「その戦車の人は?」
「アンボイナ。本名は知らん」
「分かった。ありがとう」
明詩は弱々しく微笑んだ。眉尻が下がっている。泣きそうになっているのを我慢しているのだと、健星は横目で見て悟った。
健星も明詩も、それ以上の言葉を発しない。
静かに、眼前の筐体に最期が訪れるのを待った。