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1.終わりの初冬

 数十メートル先を弱々しく照らす白濁したヘッドライトの灯りと、アナログ式のメーターランプが発する青白い光だけが、今ここにある光源の全てだった。

 健星けんせいがハンドルを握っているくたびれた旧式軽自動車は、そんな単調で陰鬱な暗闇の中を30分ほど前からとろとろと進んでいた。すれ違う車両は勿論のこと、動くものすらどこにも見当たらなかった。


「このトンネル、長すぎやしないか?」


 健星はハンドルに顎を乗せて、億劫そうに声を出した。

 ちらりと目線を投げかけた助手席に人の姿などなく、ただ、代わりに、ルービックキューブを一回り大きくしたほどの黒塗りの立方体が無造作に転がっていた。漆黒の表面がメーターランプに照らされてほんのりと光っていた。


「もうそろそろじゃないの? ……たぶん」


 唐突に響く、ノイズ混じりの音声。

 女性の声を模しているのだとは分かる。それは明らかに感情の波を感じさせるが、どこか黎明期の合成音声が持っていたような無機質さを伴った音声だった。


 後部座席には、雑多に積まれている家電製品や携帯食料のパッケージ、男物の防寒具や寝具に囲まれる形で、喪に服するように真っ黒な洋装に身を包んだ華奢な少女が座っていた。


 確実に成人には達していない容姿。健星よりもかなり年下に見えるだろうか。愛らしい丸顔は年相応の無邪気さを称え、眉より上で切り揃えられた髪は快活さそのものを象徴していることが見て取れた。

 しかし彼女は、目を閉じ、口を噤んだまま、微動だにしない。


「ねぇ、やっぱり止めない?」


 健星が喪服の少女に視線を移すと、音声が彼に問いかける。

 健星はわざとらしく眉を持ち上げた。


「何を?」


「あれよ」


「あれって何だ?」


「埋葬」


 現実味を帯びていない音声が、その言葉にだけは確かな重みを生じさせた。

 健星は顎を引いて、首に掛けた強化カーボン製の暗視ゴーグルを所在なげに片手でいじった。

 メーターは時速20キロを指し示したまま固まったように動かない。


「約束しただろ?」


 最早、飽きることにすら飽きるほどに繰り返したやりとり。2人きりに戻った昨晩からというもの、明詩あかしはこの話ばかりする。

 今朝からだけでも既に9回目に達していた。


「ボンネットにおっきなヒートカッターを突っ込んで、言うこと聞かなきゃウォーターポンプを破壊するぞっていう頼み方はね、脅迫って言うんだよ」


「そうとも言うかな」


「そうとしか言わないでしょ」


「まぁまぁ、そんなに怒るなって。ばあちゃんは元から乱暴な手段に訴える気はなかったみたいだし、最期まで大人しくしてくれてたんだしさ、問題なんてなかっただろ?」


「私たちが要求を全部呑んであげたからね」


「うん、まぁ……ん?」


 明詩が言い終わるか終わらないかぐらいのタイミングで、健星が短い声を被せた。

 開いた瞳孔で見据える進路上には、白く小さな点がある。


「出口だ……!」


 軽自動車は時速20キロを律儀に守ったまま緩やかに進んでいく。

 だが今は、前に進んでいる実感があった。目の前にあるトンネルの出口は徐々にその大きさを増していき、零れる光は真っ暗な洞穴の内部を照らしていく。


「ん?」


「なに?」


 出口の先にある風景にノイズが走っているように見える。

 何かが、降っている。

 雨か。

 いや――


「雪だ……」


 軽自動車が長いトンネルを脱する。

 眩い自然光が車内の影を消し去っていく。

 健星は目を細め、アクセルペダルに込めていた力を一時緩めた。


「寒そうね……」


 明詩が白い吐息を漏らすように呟いた。

 助手席側は、ガードレールで隔てられた僅かな歩道を越えるとすぐ崖になっていて、その先には観光地としても有名だった臨海都市の全景が見えた。


 その全てに粉雪がしんしんと舞い落ちている。

 動くものはどこにも見えない。


 永久に中身を失った容れ物はこんなにも空疎に感じられるのだと、健星は営みの残滓を眺める度に他人事のようにそう思う。


「積もるかな?」


「さぁ。でも、積もらないように祈らなくちゃ」


「何で?」


「何でって……」


 まるで積雪を楽しみにしているかのような健星の口調に、明詩は思わず口籠る。

 車体がアスファルトの亀裂を踏んで大きく揺れた。


 もので一杯の車内は、がちゃがちゃと忙しない音を立てる。電子ケトルの横に積み上げられた付箋だらけの紙書籍の山が傾いて、上に載せてあった随分前に故障した小型ドローンが座席から転げ落ちる。それらの音が空気に溶け切ると同時に、再び電子音声が響いた。


「タイヤを換装した方がいいでしょ?」


「うーん……そうだなぁ」


 ハンドルを握ったまま、健星は無意識のうちに緩めていた口の端を整えた。

 健星の曖昧な言葉に対する返答はない。

 彼の視線が助手席へと滑る。そこにある真っ黒な箱のすぐ傍には、同じ黒色をしたものが置いてあった。

 使い古された、傷だらけの回転式拳銃が。


「そういえば、結局、ばあちゃんは1度たりとも俺にこれを抜かせなかったな」


「出会い頭は抜くべき場面だったと思うんだけど」


「あの時は、いきなりすぎて銃のこと忘れてたんだ」


「はぁ……」


 呆れて言葉も出ないらしく、明詩は悩ましげな溜息を吐いた。


「弾なんてとっくに尽きてるんだから、脅しで使わないと本当に持っている意味ないのに」


「じゃあ、捨てるか」


「駄目に決まってるでしょ」


「そうか?」


 本気か冗談かの判別が付かない健星の小さな笑い声が、狭い車内に反響する。

 軽自動車は一定の速度を常に保ったまま、主の存在しない街の外れを走り続ける。


 風はいつからか止んでいた。

 粉雪が空と地を結びつけるように辺り一面を覆い尽くしていく。動くものは雪だけだった。暗いトンネルを出て取り戻したはずの速度の感覚が、また急速に失われていく。


 全ての感覚を間延びし麻痺させる死んだ街の中を、エンジンとエアコンの駆動音だけを伴奏にして健星と明詩は進む。


 しばらく進むと、辺りの風景が変わった。

 住宅や商業施設の残骸。人の営みに必要不可欠で、それ故に、凄惨な殺し合いの舞台となった建築物の群が姿を消す。代わりに何が現れるでもなく、不気味なほどに真っ新な更地が続き、その真ん中を車道だけが伸びていく。

 さらに進んでいくと、私用車両の侵入を禁ずる金網フェンスのゲートが見えてきた。


「お、ついてるな」


 だが、そのゲートは半ば開いたままだった。


『第14共同拡張墓地公園』


 ゲートの側のフェンスには質素な看板が掲げられていて、そこに記された何の装飾も施されていないゴシック体の文字が、この場所が果たすべき役割を告げていた。

 その傍には、小さく掠れた同様のフォントで、ここがとある企業と市の共同管理地である簡素な説明と、最寄り駅と駐車場の場所を示す地図が付け加えられている。

 健星はしばし軽自動車のフロントガラス越しに、看板に記された一文字一文字をしげしげと眺め続けた。












 ◆◆◆












 世界は、既に終わっていた。




 “ペイルライダー”と呼ばれるウィルス耐性保持者の体内で無限に変異しながら増殖し続ける、A型亜種インフルエンザウィルスの致命的大流行によって。


 1つのワクチンが開発されるまでに、病原性の異なる100の新種が蔓延した。恐慌は連鎖し、患者は暴徒となり、あとはただ、転がり落ちていくようだった。

 健星と明詩の目の前だけでも、たくさん死んでいった。数えるのが馬鹿らしくなるほどに。


 その渦中に在っても人命以上に重視された、世界経済を担う数社の巨大法人。それらの延命措置たるが1つ、陳腐で普遍的な社会貢献。その結実としての、墓地。急激に増え過ぎた遺体を、可及的速やかに、かつ、全自動で処理する為の。


 それらを再び一瞥し、最早、興味すら失ったかのように、健星は軽自動車に乗ったままゲートを踏み越えた。

 道幅は広く、視界を遮る建物はほとんど何もなかった。門を潜って真っ直ぐ進んだ先には長屋ほどの大きさの特徴のない建物が立っていた。墓地に相応しい感じはなく、工事現場にある仮設事務所のように見えた。あとは、周囲を埋め尽くす、均等に立てられた墓標だけが目に付くばかりだった。


 墓標は全て粗雑に塗装されたスチール製で、形だけは様々だった。十字架や、周囲に戒名が記された木板が刺さっているもの、一見ただの棒にしか見えないものまであった。


 それらは、規格化されたメニューの中から選ばれたデザインの組み合わせには違いないが、その差異は生前の人間に備わっていた個性に類する何かを連想させ、健星の心を少しだけ温かくする。

 だがそれも、奥へ行く毎に味気のないただの突起物に変わっていく。その墓標が示す死と同じように。


「あそこ」


 明詩が言った。


「え、どこだ?」


「斜面沿いのとこ」


「あぁ。了解」


 その手前で墓標は途切れていた。

 何もない敷地だけはまだ続いている。


 全ての埋葬を終えてなお土地が余ったのか、埋葬を行う人間がいなくなってしまったのか、健星には分からない。ただ1つ言えるのは、此処が目指していた目的地だということ。


 軽自動車は1度もブレーキを使わずにアクセルの加減だけで緩やかに停車した。健星が吐息と共にエンジンを切ると、周囲には耐えがたいほどの静寂が還ってきた。

 健星は扉を開けると、1人外に出た。

 雪が降っている。


「さむ……」


 その言葉が、虚無の世界へ溶けていく。

 静寂の世界で生きるうちに心に巣食い始めた、己が実存への猜疑心を振り払いながら、健星は錆びれた愛車の周囲を歩く。


 助手席の扉を開くと、黒い箱がぽとりと地面に落ちた。

 次に後部座席の扉に手を掛ける。

 健星は片足をステップに残したまま車内に乗り込むと、動かない喪服の少女を抱き上げた。少女は小柄な見た目に反して中々な重量があり、健星はどうにか彼女を車内から引き釣り降ろすと、よろめきながら扉を全て閉めて回った。


「さて、始めるか。明詩」


 喪服の少女は力なく項垂れている。


「うん」


 電子音声。

 明詩の声。


 健星が抱えている喪服の少女の口からではなく、地面に落ちた黒い箱から。

 箱の光沢のある表面に真っ直ぐな亀裂が入る。下部の四隅が割れ内部から現れた指先ほどの大きさのタイヤが地面に接地し、四隅から分離した部分が脚のように本体を支え持ち上げる。

 上面の中央の一角がスライドし、中から投射部が露出する。レンズが発光し、雪降る中空に映像を投影した。

 ベージュのダッフルコートにチェックのミニスカートと、黒のストッキングが素足を覆い隠している。マフラーと大きなマスクで鼻より下をすっぽりと覆い隠し、雪よりも白い髪がマフラーに巻き込まれている。真冬の女子学生のような風貌。


 そして、そう在るべく設計されたように整った顔立ちをしていた。吊り上がった目尻だけが、どこか不満げに片方のみ歪められている。


「手早く済まそうね、健星」


 雪に干渉されて所々にノイズを走らせながら、ホログラムの少女は言う。

 健星は頷いた。

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